多様化によって失われたクローン能力:
カンブリア爆発をもたらせた
三胚葉性動物の登場
1998/8/24

レルネット主幹 三宅善信

夏休みには海に行く機会も多いと思うが、海岸のタイドプール(潮溜まり)には、驚くほどいろんな「生きもの」がいる。潮の干満によってできたこの小さな世界は、実に厳しい環境だ。照りつける太陽によって水温は上昇するし、それに伴い塩分濃度も高くなるであろう。ほんの波打ち際にできたプールなら半日もすれば、また海の一部に戻ることができるが、大潮の際にできたような波打ち際からかなり遠いところにできたプールには、次に海水と合流するのは一ヶ月も先のことである。その間、厳しい環境の中で(運が悪ければ「干上がってしまう」こともあろう)、その「いのち」を長らえなければならないのである。

「海の生きもの(動物)」といって、さかな(魚類)しか思い浮かばない人は、かなりイマジネーションの低い人だ。顕微鏡でもなければ視ることのできないプランクトン類や、特殊な設備がなければ潜ることのできないような深海に棲む生物でなくとも、われわれが手にとってみることのできるタイドプールにも、ヒトデ・ナマコ・ウニ・イソギンチャク・サンゴなどのいわゆる「非脊椎動物」と呼ばれる生きものがたくさん生息している。仕事で、年に数回は海外出張するが、唯一の息抜きは、その地その地の水族館を訪れることだ。これまで、北はベルゲン(ノルウェイ)から南はシドニー(オーストラリア)まで、世界の主要な都市の水族館にはほとんど行ったことがある。もちろん、地元大阪が世界に誇る水族館である「海遊館」にも数多く足を運び、「海遊館」を運営している(株)大阪ウオーターフロント開発の社長とも親しくなったぐらいだ。しかし、世界中の水族館が展示しているものの多くは「さかな(魚類)」であって、あんなに美味しいのにナマコやウニのような生きものを飼育・展示しているところは驚くほど少ないのが現状だ。おそらく、餌を与えるのが大変なのと、ほとんど動かないので「素 人受け」しないからであろう。

私が、今回、採り上げるは「刺胞動物」と呼ばれるクラゲ・イソギンチャク・サンゴの仲間の話である。刺胞動物とは、文字通り「刺す棘を持つ細胞がある動物」の仲間という意味だ。海で「刺す動物」といえば、すぐにクラゲを思い浮かべるが、乱暴な言い方をすれば、クラゲをひっくり返した(温泉マークの「逆さくらげ」というのは、別の意味であることはいうまでもないが…)のが、イソギンチャクで、小型のイソギンチャク(ポリープ)をたくさん集めたのがサンゴといっても過言でない。海中を漂うプランクトンをその触手で補食し、身体の下(地面と接している側)の部分から炭酸カルシウムを分泌して、われわれに馴染みのあるいわゆる「珊瑚」と呼ばれる「樹木に似た部分」を造りだし、その先端に生息している「動物」がサンゴ(ポリープ)である。

皆さんも、手元に図鑑もしくはお子さんの理科の教科書でもあれば、見ていただきたたい。イソギンチャクの断面図が掲載されているはずだ。私が、高校で習ったとき(二十数年前)に一番不思議だったのがこのイソギンチャクという動物だ。普通、大抵の動物(バクテリアなどの単細胞生物は除く)は、必ず、その両端に口と肛門を持つ「消化管」という組織を持っているはずである。何も「高等な」脊椎動物でなくとも、昆虫でもミミズでも何でも、食べ物は「口」から入って、消化吸収されて、「肛門」から排泄されるはずだ。ところが、このイソギンチャクは、入口「口」と出口「肛門」が同じ場所で兼用されている。そして、その中が食べ物を消化吸収する「胃(胃腔)」だ。つまり、「壺」のような構造になっている。多細胞生物に共通する「管状」の構造をしていない不思議な動物だ。もちろん、クラゲもサンゴも同様の構造である。

発生学的にいうと、刺胞動物というのは、二胚葉性動物というカテゴリーに属する。われわれのよく知っている一般的な動物は、三胚葉性動物というカテゴリーに属する。この違いは、受精卵が細胞分裂を始めた際に、最初に受精卵の一部が内部に落ち込む「陥入」という現象が見られる。この落ち込んだ部分の上部(表面に近い部分)が塞がり、球の真ん中に穴が空いた「筒状」の構造になる。この部分を「内胚葉」と呼び、元々の細胞の表面の部分を「外胚葉」と呼ぶ。この内胚葉と外胚葉との中間の空洞の部分を「中胚葉」と呼ぶ。内胚葉は、胃や腸といった消化管を形成し、外胚葉は、皮膚や中枢神経を形成し、中胚葉は、骨や筋肉や血管を形成するようになる。このような発生のプロセスを示す動物を三胚葉性動物と呼ぶ。問題の刺胞動物は、この発生時期において内胚葉と外胚葉しか形成されない二胚葉性動物と呼ばれるグループに属する。単細胞の原生生物が多細胞化した時に、最初に出現したのが海綿動物などの胚葉なしで発生するグループ。その次に生まれたのが刺胞動物などの二胚葉性動物。そして、最後に出現したのが三胚葉性動物である。

ところで、40億年にもおよぶ地球上の生物の進化の歴史は、最初の30億年くらいは単細胞生物の時代(原生生物については、また機会を改めて論述する)が延々と続いた。やっと10億年くらい前になって、多細胞の生物が出現し、そして、今から約5億9000万年前の「カンブリア紀」と呼ばれる時代になって、突如として地球上の生物はその種類(質・量ともに)を飛躍的に増大させたのである。これが世に言う「カンブリア爆発」と呼ばれる現象である。これから後は、化石でお馴染みの三葉虫やアンモナイトをはじめとする多種多様な形態の生物が出現し、今日地球上に存在するあらゆるパターンの生物相の原初型がスタートラインに並んだ。確か数年前に、CG映像をふんだんに使って制作された「NHK特集」の『生命』という番組シリーズで放送されたので、ご記憶の方も多いであろう。その後の「進化」の歴史は、皆さんもよくご存じのとおりである。 

私の関心は「カンブリア爆発によって得たモノと失ったモノは何か?」という点にある。ここで、重要なキーワードが、最初に述べた二胚葉性動物と三胚葉性動物の違いである。消化器系を形成する内胚葉、骨・肉や循環器系を形成する中胚葉、神経系を形成する外胚葉の3つをそれぞれ発生のごく初期の段階から機能分化させた三胚葉性動物は、そのことによって極めて多様な形態の構成(新種の誕生)が可能になった。つまり、一定の秩序に基づいた細胞機能の高度な専門化である。一方、海綿などは、これを引きちぎっても、両方とも生きて行くことができる。なぜなら、これらの生物は、多細胞生物(細胞が機能別に専門化して、共同で全体の生命体を維持するシステム)といっても、成体になっても、いつでもそれぞれ細胞が元の「機能が未分化」な状態に戻ることができるからである。

 日本の海岸でもよく見られるウメボシイソギンチャクと呼ばれるイソギンチャクの仲間は面白い性質を持っている。このイソギンチャクは、不幸にしてタイドプールが干上がってしまった時の形が「梅干し」にそっくりだからこういう名前がついたそうだ。このイソギンチャクを採取して水槽で飼育して見れば、口(肛門)から、たくさんの子供(のイソギンチャク)を吹き出す様子を観察することができる。水槽内のイソギンチャクは一匹だけなのに子供ができるということは、有性生殖で増えたのではないことは明らかだ。このイソギンチャクは雄雌があるが、雄のイソギンチャクだけでも子供ができる。

これは、関東地方の河川でよく見られる有名な「ギンブナの単為発生」とは訳が違う。ほとんど雌しかいないギンブナが産卵したら、水中を漂う同時期に産卵する別の種類の魚の精子が刺激になって卵の分割・発生が起こる訳だが、これとは根本的に異なる。ウメボシイソギンチャクの場合は、受精・未受精にかかわりなく、親(雌雄どちらでもよい)の胃腔内で、一般の(生殖細胞でない)体細胞の一部から、突如として「胚葉組織」が形成され、これが小さなイソギンチャクの形になるまで胃腔内で生育し、吐き出されるのである。つまり、完全な親のクローンである。

ヒトも含めてすべての多細胞生物の体細胞一個一個には、本来、その受精卵と同じすべての遺伝情報がDNAという形で保存されている(例えば、受精卵ならば、8分割の時点でその卵を取り出して、8つに分けて、別々の女性の胎内に戻せば、遺伝子が全く同じ一卵性の8つ子が作れる。現に、畜産用の黒毛和牛などはそうして殖やされている)のである。これは、原理的には、生殖細胞でなくても一般の体細胞でも同じこと。それを実証して見せたのが、あのクローン羊「ドリー」や今年、日本で相次いで発表されたクローン牛たちである。それが、ただ、発生からのある段階までは、急激にそれに該当する情報が発現(DNAが読みとられ)し、したがってその生物固有の形と機能が形成されるのであるが、ある特定の時期(ヒトでいえば出産)がくれば、その働きが自動的に止まり、あとは封印されてしまうのである。つまり、目になる細胞は目になり、指になる細胞は指になり、肝臓になる細胞は肝臓になるのである。 

しかしながら、二胚葉性動物は自らいつでもクローンを創り出すことができるが、三胚葉性動物は自らクローンを創り出す能力を失ったのである。その代わり、自分自身がそっくり変化(一般にいうところの「進化」)することによってありとあらゆる形の生物を生み出すという多様性を獲得した。したがって、生命誌のプロセスにおいて最も基本的な概念である「レプリケーター(自己複製装置)」には、クローン型自己複製システムと変化(多様)型自己複製という2つの大きな流れが作られたのである。

今回、宗教とは直接関係のないように思われる発生学上の問題を採り上げたが、実は、人間を取り巻く自然環境はいうまでもなく、人間の営みそのものや社会のあり方を考える時に、生命誌が提起する問題を抜きにしては適切に理解できない問題が多々あるのだ。そういう視点から、ものごとを分析してゆくうえでも、生命誌的思考法は有効な手段となりうるので、今後とも折を見て生命誌の問題を採り上げてゆきたいと思う。ただ、私は、分子生物学や発生学の専門家でもなんでもないので、知識も限定的だし、実験設備もなければ、最新の学問的情報に接することもできないので、論理の根拠は、主に、(昔学校で習ったことやテレビ番組からの)記憶と直感と思索から生じている。したがって、当ホームページ読者の中で、専門家の方がおられたら、どんどんと間違いを指摘していただければありがたい。


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