宗教・民族紛争の種はつきない
       00年 3月 24日
 
レルネット主幹 三宅善信

▼コソボ空爆1周年:何が解決したのか

 昨年の今日、NATO軍による「コソボ空爆」が始まった。アメリカの主張に従うと、この地域において、「支配民族であるセルビア人(隣国のセルビアでは多数派であるが、コソボ自治州内では少数派)治安部隊が、被支配民族であるアルバニア人(多数派)住民を組織的に虐殺しているのを止めさせるために、「世界の警察」であるアメリカを中心としたNATO軍が「コソボ内戦」に介入した訳である。その結果、2カ月半にも及ぶ一大空爆作戦によって、「悪者セルビア人」治安部隊をコソボ自治州から追い出し、「難民」となって隣国に大量に流出していた百万人ともいわれるアルバニア系住民が「故郷」に帰還したのである。「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるバルカン半島における宗教・民族の攻防の歴史については、昨年Time Will Tell:本当にセルビアが悪いのか?』で詳しく論じたので重複けるが、あれから1年が経過して、現実がどうなったかを見るがいい。

 しかも、アメリカ軍は、「人道の戦い」と称しながら、自分たちは人道上大いに問題があると思われる劣化ウラン弾を、ユーゴ軍戦車に対して31,000発も使用したではないか(最近、アメリカ政府は正式に劣化ウラン弾の使用を認めた)。湾岸戦争の時と同様、セルビア兵たちは今後、何年間も劣化ウラン被曝による後遺症に苛まれることであろう。広島・長崎の原爆投下の時もそうだ。数十万の非戦闘員が犠牲になった。アメリカは常に「自分たちは正義の側にいて、敵(=悪)を倒すためにはいかなる手段も許される」と主張し、これを実行しているのだ。クリントン大統領は、今でも「広島・長崎に原爆を投下したことは正しかった」と公言しているではないか…。

 セルビアに対する徹底的な空爆の後、数万のコソボ平和維持部隊(KFOR)が駐留し治安の確保に努めているにもかかわらず、この地域の治安が維持されているとは、お世辞にも言い難い状況である。しかも、コソボ自治州内でのセルビア系住民とアルバニア系住民の主客転倒によって、今度は「多数派アルバニア系住民が少数派セルビア系住民を虐殺する」という構造が現出している。要は、「強者が弱者を駆逐する」という構造には、なんら変化がないのである。かねてからのアメリカの主張によると、「非人道的な残虐行為をしているのはセルビア人」だったはずである。それに対して、虐められている「弱者」アルバニア人を助けるために「正義の味方」アメリカが鉄拳を揮ったはずである。しかし、現実はどうだ。「弱者」のはずのアルバニア人が「悪者」セルビア人を虐殺しているではないか? そこには、「正義」も何もない。ただあるのは、強者か弱者、あるいは、勝者か敗者かの違いだけである。『主幹の主観』の読者の皆様なら、既にお判りのことかと思う。


▼「正義」や「真実」という言葉を聞いたら「怪しい」と思え

 そもそもヒトという生き物は、そういうことをする生き物なのである。いかなる高尚な理由を付けても、「正義」というお題目は自己正当化の一方法に過ぎず、「国家」という装置は大規模な徒党の一形態に過ぎないのである。人類は、そろそろ正義や国家の胡散(うさん)臭さに気づくべきである。罪深きは、宗教が神の名において、正義や国家といった胡散臭いものに権威を付与してきたことである。何度も言うように、あたかも「Truth(真実)」や「Justice(正義)」というものがあるかのごとく主張しなければ成り立たないような宗教や国家はすべてインチキである。

 私が大学生の頃に観た『Superman』という映画で、未知の世界(惑星クリプトン)からやってきて、大災害や難事件を次々と解決する謎の超人(スーパーマン)に、ほのかに恋心を寄せる女性新聞記者ロイス・レーンが「あなたが地球に来た訳は?」と質問するシーンがあった。その時、クリストファー・リーブ演じるスーパーマンはぬけぬけと、こう言った。「Truth, Justice and
the American Way!
」あまりのことなので、二十年以上経った今でもハッキリと覚えている。日本語の字幕には「正義と真実のため」と書いてあったが、確かに、英語の台詞では「正義と真実」と同様の価値を持つ普遍的基準として「American Way(アメリカ的あり方)」を標榜していた。私はその時、思った。「この国が世界を滅ぼす」と…。

 アメリカの意向を強く受けたインターポール(国際刑事警察機構)は、同機構のホームページ上に、「緊急指名手配中の犯罪者としてユーゴスラビア連邦のミロシェビッチ大統領の顔写真を掲載した」と22日、明らかにした。仮にも一国の現職大統領を、国際窃盗団のボス同様にお尋ね者扱いしたのである。こんなことが許されてよいものか…。これでは、決して、同大統領は平和維持のための国際交渉を受け入れないであろう。このように、アメリカという国はいつも、国際的な機構やルールを自分たちにとって都合の良いように平気で壟断するのである。なぜなら、「自分たちこそが神によって選ばれた国家」と信じているからである。合衆国大統領の演説の締めくくりはかならず「God Bless America!(アメリカに神の祝福を)」である。つまり、アメリカの敵対者は神の敵対者にされてしまうのだ。日米貿易摩擦交渉の時もいつもそうである。「日本に制裁関税を…」初めから、日本が悪でアメリカが正義なのである。「制裁」という言葉にはそういう意味が含まれているから、まともな(対等な)交渉でなんか初めからない。

 コソボ自治州のセルビア系住民およびセルビア共和国軍が人道に対する罪を犯したというのなら、アメリカを盟主とするNATO軍も犯罪者である。劣化ウラン弾を使用したのは誰だ。コソボ自治州からセルビア共和国へ難民として脱出したセルビア系住民の数は20万人(赤十字発表)とも35万人(ユーゴ政府発表)とも言われているが、今、彼らがコソボ自治州へ戻れば、身の危険(アルバニア系住民による残虐行為)が余りにも大きいため、緒方貞子国連難民高等弁務官も、「セルビア系住民の帰還には時間がかかる」と言っている。米国は、セルビアのミロシェビッチ大統領の行為を、あたかもヒトラーの「ユダヤ人虐殺」に準(なぞら)えて「Ethnic Cleansing(民族浄化)」と称して、世界各国の支持を得るように仕向け、自らの「空爆」を正当化したが、立場が変われば、セルビア人だって「浄化」される対象になっているのだ。


▼教皇の「聖地」歴訪

 同じく、長年にわたって宗教・民族紛争が継続している場所が、中近東(欧州中心主義的ネーミングが気に入らないが)地域である。なかでも、イスラエルとそれを取り巻くレバノン・シリア・ヨルダン・パレスチナ・エジプトの各国との問題が、第二次世界大戦後ずーっと続いてきた。この中近東地域は、いわゆる「アブラハムの宗教(同根の宗教であるユダヤ教・キリスト教・イスラム教)」と縁の深い、聖書の話の場面となった地域であることはいうまでもない。宗教・民族紛争ということが話題になるとき、必ず引き合いに出される地域である。

 この中近東地域を、現在、教皇ヨハネ・パウロ2世が歴訪している。教皇庁(バチカン)は、今回の中近東歴訪を、西暦2000年を期した「大聖年」の最大行事と位置づけてきた。教皇には「3宗教の聖地が集まる同地域で諸宗教対話の促進を訴えることが、宗教指導者としての責務」との思いがある。私は、1977年に教皇パウロ6世に謁見したのを皮切りに、90年代に入って、現教皇ヨハネ・パウロ2世とは、合計4回謁見したことがある。1960年代に、中世以来のカトリック教会の方向(有無を言わさぬカトリック至上主義)180度対話路線へと転換した第二バチカン公会議以来、全世界に10億人の信者を抱える世界最大の宗教教団(同時に、バチカン市国という世界最小の独立主権国家を有している)ローマ・カトリック教会は、諸宗教対話の分野において常に中心的な役割を果たしてきた。

  国民のほとんどがカトリック教徒である中南米諸国はいうまでもなく、英・独・蘭・スカンジナビア各国を除く、ほとんどの欧州諸国ではカトリック教会が圧倒的多数派である。プロテスタント国と言われるアメリカですら、単独の教派としてはカトリック教会が最大の教団である。わずか数百万人の信者を持つ教団の影響下にある政党が国政のキャスティングボートを握っているどこかの国の例からも明らかなように、国民の過半数が特定の宗教の信者である場合、その宗教がその国の政治に及ぼす影響は計り知れない。バチカンは、今回の教皇中近東歴訪を、政治色がない「巡礼」と公表しているが、イスラエルでは、建国以来、カトリック教徒の数が10分の1に減少したことの失地回復を狙っていることは明らかである。バチカンが1990年代半ばから中東和平問題に積極的に関与し始めたのも、この懸念の反映といえる。教皇は26日までの滞在で、カトリック教徒が急減しつつある地域での影響力回復を目指している。


▼相対的真理こそ本当の真理である

1980年代末から90年代初頭にかけて、東欧諸国で、ドミノ倒しのように次々と社会主義政権が崩壊したことと、この地域でカトリック教会が大きな力を持っていることとは無関係ではない。事実、現教皇ヨハネ・パウロ2世は、史上初のポーランド出身のローマ教皇である。現在、カトリック教会は、中世以来の「領地」であった旧東欧諸国はいうに及ばず、旧ソ連の一部であったウクライナや旧ユーゴスラビアといった「スラブ圏(元来は、東方正教の勢力下)」にまで、その影響力を拡大しつつある。ボスニア・ヘルツェゴビナにおけるカトリック・セルビア正教・イスラム教三つ巴の争いは記憶に新しい。

「キリスト生誕2000年」と銘打った今回の中近東歴訪では、教皇はイエス・キリストに関連する聖地ベツレヘム(生誕の地と伝えられる)やエルサレム(十字架にかけられた地)だけでなく、モーセの『出エジプト』に関連する土地カイロやシナイ山(十戒を授けられた土地)をも「巡礼」した。カイロでは、中東和平の立役者エジプトのムバラク大統領と会談。イスラム教最大勢力スンニ派の最高学府であるアズハル大学を訪れ、M・タンタウイ総長と会談したり、パレスチナの難民キャンプを訪れたり(いつもアラファトPLO議長が同行していた)と、極めて政治的色彩の濃い「聖地巡礼」であった。アラブ諸国とは「政敵」であるはずのイスラエルも、今回の教皇のイスラエル訪問を政治的に最大限に利用しようとした。

宗教や民族の問題は、本来、合理的であるべき科学はいうまでもなく、(株価や為替等の)マネーという合理性(比較のための共通基盤)を有する経済や、強弱という合理性(比較をするための共通基盤)を有する軍事の問題と比べても、お互いが話し合う(比べ合う)ための共通基盤を有さない(例えば、「キリスト教の天国と浄土教の極楽のどちらが素晴らしいところか?」や「黒人と白人のどちらが美しいか?」などという質問それ自体が無意味なことように)が故に生じる抜き差しし難い問題を抱えているが故に、エンドレスな争いが続くのである。この問題に関する解決方法はただひとつである。世界中すべての人々が、「真理」や「正義」や「神仏」や「民族」という概念は、すべて相対的なものであるということを自覚することである。「私の信じている宗教の説く真理は相対的真理に過ぎない」と公言できる宗教があれば、その宗教こそ本当にNo.1の宗教であるということができる。


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