家光は本当に秀忠の子か? 二世権現の謎
       00年 4月 20日
 
レルネット主幹 三宅善信

▼徳川家光350年忌

 今年のNHK大河ドラマ『葵―徳川三代』が好調だそうだ。ドラマの「掴み」の関ヶ原の合戦では、津川雅彦(徳川家康)VS江守徹(石田三成)が共にエキセントリックな演技で競い合い、視聴者を楽しませてくれた。天下のNHKが「ミレニアム大河」に相応しい超豪華キャスト(いったいギャラの合計はいくらになるのかなぁ)を揃えたのだから、高視聴率なのは当然といえば当然であるが、天の邪鬼なレルネット主幹(「体型だけは西田敏行演じる徳川秀忠と同じだ」という陰口が聞こえてきそうだが)としては、何かこれに批評を加えなければ名が廃るので、とっておきの話をしようと思う。


徳川家康(津川雅彦)

 実は、今日(2000420)は、「三代将軍」徳川家光の三百五十年忌の日(慶安4420日薨去。グレゴリオ暦では165168)に当たるそうである。家光が三代将軍として「参勤交代や鎖国の制度を確定し、250年間にわたる江戸幕府の基礎を築いた」というのは中学校でも習う日本史の初歩中の初歩である。しかも、家光の三代将軍継承に当たっては、二代将軍秀忠の意向というよりは、大御所家康の意向が大いに尊重されたということも、時代劇ファンのお年寄り(実は私も、ドラマの登場人物が「刀を差して丁髷をつけて」さえいれば、そいつが自動車を運転していようと構わないほどの「時代劇」ファンである)なら誰でも知っているエピソードである。

 これまでのどの時代劇にも出てきた有名なシーンはこうだ。二代将軍秀忠と正室お江与の方(今回の大河では「おごう」)が可愛がっていたのは、乳母春日局(かすがのつぼね)が育てた長男竹千代(後の三代将軍家光)ではなく、自らの手元に置いていた次男国千代(後の駿河大納言忠長)であった。ところが、長子相続の制を確定することこそが徳川政権の盤石を固めることであると確信していた老身の大御所家康が、わざわざそのことを伝えるために駿府から江戸へ下向し、家光後継を秀忠夫妻に認めさせた直後に死ぬ。というのがお決まりのパターンであった。

 また別のシーンでは、鷹狩りかなにかで急に江戸城を訪れた家康が、優しいお爺様に対面を願った幼い竹千代と国千代兄弟に対して、「これへ(主君が座る上段の間)」と言って、竹千代を自分の膝の上に乗せた。それを見て、兄に続いて大御所のところへ来ようとした国千代に対しては「そちはそこ(下座)へ居れ」と、幼い弟を差別した話もある。国千代としては大いに傷ついたことであろう。年の差もあまりない兄に対して、両親からも「長幼のけじめ」はつけられていたであろうが、偉大な祖父から「君臣のけじめ」をつけられたのである。実は、わが三宅家もそうで、偉大な祖父(故三宅歳雄)の継承者()の継承者である兄と私(もうひとりの弟も)とでは、公式の行事(儀式)の際には、装束から着座する場所まで、兄弟で君臣ほどの開きがある。

▼大御所は大御所でも…

 このように、「徳川幕府は三代将軍家光の登場をもってその基礎が固められ、しかも、家光の三代将軍職継承は初代の家康の意志であった」というのが、これまでの「定説」であった。ところが、家光が死後祀られた日光山輪王寺(日光東照宮)には、「家光公の御守袋」と呼ばれる重要文化財に指定されたお守袋が残っている。そのお守袋の中には、家光の直筆で、細長い和紙に「二せこんけん(二世権現)、二せ将くん(二世将軍)」と書かれている。これはいったいどういうことであろうか? 家光自身が自分のことを「二世権現」あるいは「二世将軍」だと認識していたとすると、これまで「二代将軍」と言われていた秀忠(家康の三男で家光の父)の立場はいったいどうなるのか? 確かに、大河ドラマ『葵―徳川三代』でも、秀忠は、権謀術数家の「タヌキ親爺」家康とは異なり、お人好しの恐妻家に描かれているが、だからといって、征夷大将軍職を、父から息子へとパスされるいわれはないはずである。


徳川秀忠(西田敏行)

そもそも、徳川幕府の初代家康が征夷大将軍に任ぜられたのは、「天下人」太閤秀吉の死後5年、そして関ヶ原合戦から2年半しか経っていない慶長8(1603)年のことである。そのようにして苦労して手に入れた「天下人」征夷大将軍の位であるが、わずか2年で三男秀忠に譲っている。しかしながら、その後、慶長20(1615)年の「大坂冬・夏の陣」で豊臣家を滅ぼし、翌、元和2(1616)年に75歳で駿府城に没するまでの11年間の長きにわたり「大御所」として、幕府の実権を握り続けた。

 一方、慶長10(1605)年に二代将軍の座についた秀忠は、18年後(その内、11年間は家康が在世した) の元和9(1623)年に将軍職を19歳の長男家光に譲ったので、自身が最高権力者であったのはわずか7年間である。その後、父家康に倣って「大御所」と称して駿府城に居を構えたが、政治の中心は江戸に遷ってしまい、名前は同じ「大御所」でも実質は大違いであった。そして、寛永9(1632)年、54歳で薨去するのである。秀忠は「台徳院」と勅諡されて、徳川家の菩提寺である芝の増上寺(浄土宗)に葬られた。その後、歴代の将軍をはじめ徳川宗家の関係者のほとんどは増上寺(一部は、上野の東叡山寛永寺)に葬られている。


▼たまたま将軍職を継承した秀忠

 話を家康に戻すと、元和2年に駿府城で没した家康は一旦、久能山に葬られ、朝廷から「東照大権現」の神号を賜った。翌年、日光輪王寺に改葬されたが、正保2(1545)年、遂に朝廷から宮号まで賜り「東照宮」と称するようになった。その間、将軍宣下直前の元和9(1623)4月に家光は日光社参。同年9月に朝廷から将軍宣下を受けた。また、寛永3(1626)年には、将軍家光が宮中へ参内し、大御所秀忠には太政大臣を、自身には左大臣を賜り、徳川家は位人臣を極めた。因みに、家光の妹和子(東福門院)は後水尾天皇の中宮として入内し、次の明正天皇(女帝)を生んだ。つまり、秀忠は天皇の外祖父、家光は伯父ということになる。

 家光が「生まれながらの将軍」であることは有名である。しかしながら、父秀忠が二代将軍になれたのは、万事「結果オーライ」という面が多分にある。まず、家康が天下人になれるかどうかは、最後まで判らなかった。今川義元が桶狭間で信長に破れたおかげで人質生活から解放され一国一城の主になり、また、上手い具合に、独裁者織田信長が本能寺で明智光秀の謀反に倒れ、さらには、天下人太閤秀吉が幼い秀頼を残して先に死んでくれたおかげである。家康の長男信康は、甲斐の武田氏と通じたという疑いをかけられて、舅の信長から切腹を命じられ、次男秀康は太閤秀吉の養子となり、結城家を継いだ。この兄2人は、名前からして可哀想である。信長の娘婿の長男は信康と、秀吉の養子は秀康と、みな父家康の名前の上に主君の名前の一字を冠している。そして、たまたま家康が天下人になった時の長男(本当は三男)が秀忠だっただけである。


お江(岩下志麻) 

 晩年まで子作りに熱心だった家康を父に持った秀忠には、自分の息子よりも若い弟までいた。それ故、秀忠は自分のライバルとなりうる年齢の近い弟たち(松平忠輝他)をどんどんと排除していったのである。結果的に、徳川宗家を補佐する形となった御三家には、秀忠からみれば親子ほど年の離れた末弟3人(尾張義直・紀伊頼宣・水戸頼房)がそれぞれ就いた。秀忠の長男(本当は次男、家光の生まれる前に長男は二歳で夭折)である家光が生まれたのは、家康が将軍になった翌年であり、父秀忠が将軍職を継承する前年の慶長9(1604)年であるので、その意味で、家光は「生まれながらの将軍」と言われる。


▼家光は家康の隠し子か?

 それにしても、いくら「お爺ちゃん(家康)子」の家光であったとしても、父秀忠のことをよくよく嫌っていないかぎり、「二世権現」や「二世将軍」と自称しないであろう。乳母春日局の筆と伝えられる『東照大権現祝詞』にも、「権現様の遺言として、秀忠公亡きあとは、家光公に天下を取らせるよう、土井利勝(初代大老)に言い残していた」とある。しかも、実の両親である将軍秀忠とお江与の方は、家光の弟国千代に将軍職を継がせたかったと思っていたということも書かれてある。時代劇の一場面のように、秀忠公のお世継ぎ決定の際に、大御所家康が突如江戸へ下向して、家光の三代将軍継承を宣言したというのは、どうやら作り話のようで、実際には、弟に将軍継嗣の地位を奪われようとしていた家光を、家康が駿府城へ呼び寄せて、自分の養子にして次期将軍職を継がせようとしたようだ。実際には、家光が江戸を出立する前に、家康が薨去し、大御所の上意として件の遺言が江戸の秀忠のもとへ届いたというのである。まるでどこかの国の総理交代劇である。秀忠の薨した寛永9(1632)年、哀れ後ろ盾を失った駿河大納言忠長は、兄家光将軍によって誅せられているのである。


徳川家光(尾上辰之助)

 しかし、穿った見方をすれば、あれだけ子作りに熱心であった家康のことである。ひょっとして、本当に「家光が家康の晩年に出来た実子だった」とも考えられないこともない。それを秀忠夫妻に押しつけたので、秀忠は「実子」忠長を可愛がったのかもしれない。名前も、家光には家康の「家」が、忠長には秀忠の「忠」の字が付けられているではないか…。そして、家光本人がその話を信じていたとするならば、秀忠は単なるワンポイントの選挙管理内閣みたいなもので、自分こそが東照神君家康公の偉業を継ぐ本格政権であり、それ故に「二世権現」・「二世将軍」の名称を用いたのではないであろうか…。そういえば、歴代徳川将軍のうち家光だけが、廟所を日光山の慈眼堂脇に東照宮に正対する形で置いているのも変だ。

 慶安4(1651)年に薨去した家光は、わずか11歳で四代将軍職を継承することになった長男家綱(三男は「犬公方」で有名な五代将軍綱吉)の補佐を、異母弟の会津藩主保科正之(大老補佐)に託し、「自らの廟所を日光山に」と大老坂井忠勝に遺言した。「生まれながらの将軍」家光に対して朝廷から贈られた諡号は「大猷院(たいゆういん)」である。「大猷」なる語は、中国の古典『詩経』小雅巧言に出典し、「政治の大いなる道を成し遂げた」という意味だそうである。

 そして、これもまるでどこかの国のように、政治と宗教の関係がテーマとなる天海大僧正(朝の連ドラ『あすか』の茶道の宗匠役だった金田龍之介が演じている。この人も私と体型が似ている)の登場が待たれる大河ドラマ『葵―徳川三代』の今後の展開である。


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