共産党が与党になっても大丈夫
       00年 06月06日
 
レルネット主幹 三宅善信


▼熱烈歓迎「国体」論争

  森総理がまたまた「失言」である。というか、これだけ失言を繰り返すのは、もはや「失言」ではなくて、「確信犯」であるといえよう。今回は、よりによって死語と化していた「国体」についての論争を始めてくれた。なぜこの言葉が「死語」となったかは言うまでもない。太平洋戦争後の「進歩的(もちろんインチキだ)」マスコミは、戦前・戦中に頻用された肇国(皇祖皇宗)・赤子(せきし)・臣民・聖戦・大東亜共栄・教育勅語・統帥権その他の用語ほとんどに「皇国史観」という負のレッテルを貼って「発禁扱い」してきたからである。中でも、酷い目に遭ってきたのが「国体」という語である。ほとんどの禁止語は、単に使われなくなっただけであるが、「国体」に関しては、全く別の意味を持つ同音異義語に置き換えられて、公的日本語から抹消されてしまったからだ。

  因みに、Yahooで「国体」という語をサイト検索すると、出てくる64サイトすべてが「国体(=国民体育大会)」に関連するサイトだ(6月4日現在)。いわゆる「右翼」や「国粋主義」の連中は掃いて捨てる程いるのに、「国体護持」といった際に使われる意味での「国体」についてのサイトが皆無だとは、お寒いかぎりである。しかしながら、以前から「この国のかたち」についての議論を進めてきた私としては、今回の一連の森総理の「失言(=問題提起?)」はありがたい。レルネットのサイトを訪れて下さる読者が増えるからだ。そういえば、掲示板コーナーも百花斉放の様を呈してきた。

  高尚な「国体」論については次回作で講じるとして、今回はまず、総選挙を意識した昨今の政治討論番組における野中広務自民党幹事長らの論理のばかばかしさから論駁しよう。もちろん、一連の森首相の失言から有権者の目を逸らすための「政策(景気対策等)について話をしよう」という論法に意味がないことは、前作『大和魂考』の冒頭で論じたとおりだ。だいいち、実際に予算の執行権を握っている与党とそうでない野党とでは、実現性において雲泥の隔たりがあるのが当然であるので、与野党の景気対策なんか比較しても意味がない。


▼「日本」共産党

  しかも、野中幹事長らは「政策論争をしよう」と言いながら、実際には、ネガティブキャンペーンを行っているだけである。たとえ自民党が大敗したとしても、野党第一党の民主党だけでは到底、過半数は穫れそうもないので、「もし、自公保政権が破れたら、民主党は共産党と組んで政権を獲るに違いない。有権者の皆さんはそれでもいいのか?」と言って、公明党に対するのと同様に、一般国民が持っている共産党アレルギーを利用して、民主党を攻撃している。そのコンテキストで飛び出してきたのが、例の森総理の「天皇制や自衛隊、日米安保を否定する共産党が政権に参加したら、国体が危うくなる」という発言である。

  バカなことを言うんじゃない。たとえ、共産党が連立政権に参加したとしても、天皇制や自衛隊・日米安保(名称は変更されるかもしれないが)がなくなるはずなんかない。あれだけ「なんでも反対!」していた社民党(旧社会党)が連立に参加して、村山富市党首が総理大臣にまでなった(自社さ連立政権)途端、社民党はあっさりと宗旨替えして、自衛隊や日米安保だって認めちゃったじゃないか。これまで、ずーっと野党であった共産党は、天皇陛下のご来臨される国会の開会式を欠席してきたが、もし、与党なって閣僚を出すことにでもなれば、皇居での認証式に出席しない訳にはゆかないであろう。自民党も、村山政権の時と同じように、さっさと不破哲三委員長を首班に担げばいい。かえって「さばけ」た政党に脱皮するに違いない。

  だいいち、かの政党の正式名称は、ただの「共産党」ではなくて「日本共産党」だ。つまり、共産主義の上に「日本的な(=モノの世界)」という言霊を冠している以上、私が、当「主幹の主観」シリーズにおいて縷々説いてきた「日本教(=アニミズム)」の呪縛からは逃れられないのである。有権者の諸君! 安心したまえ。たとえ共産党が政権に参加してもこの国の政治風土は微動だにしない。私が保証する。これは、同じ「労働党」という名前が付いていても、本場英国の労働党と朝鮮労働党とが、全く性質を異にしているのと同じ原理である。キム・ジョンイル氏という血が、労働党というイデオロギーよりも優先しているのは明白である。「血は水よりも濃い」のである。


▼半分の半分の半分の半分の法則

  もっとも、たとえ「頼りない民主党」が比較第一党(単独では過半数に届かないが、最大議席を獲った場合=現在の自民党と同じ)になったとしても、政権を樹立するために共産党と連立を組む必要はまずない。何故なら、自民党議員の約半数と保守党議員のほぼ全員は、議員本人の主義主張(理念)によって自民党(あるいは保守党)に在籍しているのではなくて、ただ「与党議員」でいたいから、現在の政党に所属しているのだけである。もし、民主党が比較第一党になったら、遠慮なく自民党や保守党の懐に手を突っ込んで「政権与党に入りたい(党籍変更したい)人はどうぞ」と声をかければ、間違いなく、百人以上の議員が雪崩のように民主党入り(あるいは、形式的な新党を結成して連立を組む)するであろう。それで、すぐに安定多数(単なる過半数ではなく、常設委員会の委員長のポストを全て獲ることができる議席数)が確保できる。ここ数年間の当選後の議員の政党渡り歩きは全てそうだったではないか…。いったい、いくつ政党ができて、いくつの政党が消えたのか正確に答えられる人はまずいないであろう。

  選挙時には、自民党政権を批判して当選したはずの人(特に、旧「新進党」出身者)が、いつの間にやら大量に自民党に移ってしまい、選挙で示された有権者の意志はほとんど無視された形になっている。少なくとも、選挙から選挙の間には所属政党を変わってはいけないこと(除名等でやむを得ず移籍する時は、一旦、議員辞職して、補欠選挙でもう一度、有権者の信を問うべきである)。もちろん、議員の個人名ではなく政党名で当選した比例区議員は、絶対に離党してはいけないのは当然である。それから、小選挙区で落選しながら、ブロックの比例代表で復活当選するいわゆる「ゾンビ議員」も禁止すべきである。ひとつの選挙区からひとりしか当選しない小選挙区制において、落選した(有権者から議員として不適切の烙印を押された)人物が国会議員になってしまうなんて、有権者の意志を無視した民主主義の根幹に関わる悪制度であろう。

  もっと酷いのが、いわゆる「コスタリカ方式」である。ある選挙区において、小選挙区選出の議員と比例区選出の議員が、一任期毎に交互に出馬する方法を交換するのである。同一選挙区の有力議員同士がこれを行えば、両者とも当選するので、実質的に無風選挙となって、選挙を行うことの意味がなくなってしまう。これらの3つの悪制度(「政党移籍」・「ゾンビ当選」・「コスタリカ方式」)が、有権者の選挙に対する関心を下げさせ、投票率が著しく低くなり、結果として、強固な組織をもつ特定政党に有利な(広範な国民各層の意見を代弁していない)選挙になってしまう。

  仮に、総選挙の投票率が50%(半分)だったとすると、その過半数(半分)の議席を獲れば政権(与党)が獲れる。その与党議員の半数から支持を取り付ければ総裁派閥になれる。その派閥内の議席の半分を押さえれば派閥の領袖になれる。つまり、現在の選挙制度において、半分の半分の半分の半分(有権者数の約6%)を自由に動かすことのできる人物が与党サイドにおれば、実質的にその人がキングメーカーになれるのである。前回の参議院選挙の比例区で約700万票(有権者の約6%)を獲った政党名を読者の皆さんもご存知であろう。これらの弊害をなくすためには、投票率ができるだけ高いほうが良いに決まっているが、現実には、その逆である。投票日も6月25日という梅雨真っ盛りの時期で、もし大雨でも降れば投票率が下がるので、その人たちは大喜びであろう。


▼「アメリカ受け」の悪い首相の末路は…

  最後に、6月4日付米紙ワシントン・ポストは社説で、森喜朗首相の「神の国」発言について、「日本における民族主義感情の力強さを示すものだ」と位置づけ、「民族主義感情が日本の対米関係を損なう方向に発展すれば、重大な損害をもたらすだろう」と米国の政治指導者に留意を呼びかけた。もちろん、ワシントン・ポストの論説委員が、日本的コンテキストにおける「神の国」の意味が正確に(つまり、私が「主幹の主観」シリーズで書いているような意味で)理解できているとは到底思えない。

  同社説は「日本の首相が自国を『天皇を中心とする神の国』と呼ぶ時、米国の政策決定者は注意を払う必要がある」と勧告。その上で、日本で高まる民族主義を「日本の拡張主義の機運を駆り立ててアジアに走らせ、さらに米国との戦争に向かわせた神秘的で熱狂的な愛国主義への郷愁を内包している」と分析し、「神の国」発言と戦前・戦中の軍部・右翼思想との連続性を指摘している。 社説はさらに「日本である種の民族主義が高まる事態はおそらく不可避であり、米国は抵抗すべきではない」と主張しながら、「問題は、こうした新しい主張が日米同盟を強化するか弱体化するかだ」と問題提起している。

 また「昭和の日」制定の動き、国旗・国歌法の成立、改憲派の増加、国連安保理常任理事国入りのための運動、国際通貨基金(IMF)専務理事選での候補擁立など、最近の自民党政権の動きを列挙。「新しい主張は反米の方向に向かう可能性がある。日本人が無視されたと感じれば、西側に対するかつての恨みが復活し、自国の安全保障を米国に依存してきた知恵に疑問を抱き始めかねない」と、とんちんかんな警鐘を鳴らしている。この問題の本質が理解できていない証拠だ。

  しかし、情けないことに、この国の政治的指導者(特に自民党幹部)は、アメリカ政府の言うことには、まともに反論する勇気も能力も有していない。ただ唯々諾々と頭を垂れるのみである。ひょっとすると、「アメリカ受けの悪い」森首相の首だけすげ替えて、自分たちの保身(権力基盤の温存)を謀る(小渕→森政権間の「禅譲」で証明済み)かもしれない。たとえ、選挙で勝とうが負けようが、勝った政党のほうへ移籍すれば「永久与党」でいられるのだから…。いったい、いつになったら、この国に本当に民主主義が根付くことができるのであろうか…。


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