民のかまどは…。公共事業私論
       00年 08月24日
 
レルネット主幹 三宅善信

▼北海道の道は道路の道

 8月上旬に、所用があって二十数年ぶりに北海道へ行った。釧路湿原からはじまって、霧多布岬、摩周湖、屈斜路湖、野付崎、知床半島の羅臼・宇登路、網走湖、女満別等々、道東(北海道の東側)の湿地帯を中心に約800キロを72時間で一気に駆けめぐった。以前から、湿原の生態系に興味があったので、なかなか楽しい旅であった。もちろん、道東の雄大な大自然は、日本の他の地域ではちょっと味わうことのできないものであることには違いない。道路にしても、場所によっては地平線まで真っ直ぐに続く、まるでアメリカ映画にでも出てくるような道だ。

 しかも、運転しているドライバーが皆トロい(動作が鈍い)。「日本一車の運転が荒っぽい」と言われる大阪で生まれ育った私からいうと、北海道のドライバーはみんな「蠅が泊まる」ような運転である。ほとんど誰も走っていない道(たいていは2車線道路)をチンタラチンタラ50キロで運転して、しかも、後ろの車(つまり私の車)がいかにも追い越したそうにしている(終いにはライトをパッシングもした)のにもかかわらず、道を譲ろうともしない。みんなマイペースののんびり運転だ。ここが、日本一広い北海道民と、日本一狭い大阪府民(厳密には、関西新空港の511haを埋め立てたので、香川県を抜いて2番目になったらしい。せこ〜。)の違いかもしれない。大阪人が北海道に来たら、全員、時速120キロ以上で走るだろう。混雑する大阪の道ですら、連続して青信号が出ていれば、70キロ以下の車は迷惑がられる…。まぁ風土の違いと言えばそれまでのことであるが…。

 しかし、そこで感じたことは、大阪と北海道の文化比較というよりは、この「土建国家日本」のどうしようもない実態のほうであった。ともかく、「こんなところ(放牧地で、人間がある程度かたまって住んでるかどうか不明)まで、なんのために道が要るんや?」と聞きたくなるようなところにまで、立派な道路がついている。しかも、冬期は積雪のために工事ができないからかどうかは知らないけれど、あちらこちらで道路補修工事中であった。「道路を立派にする前に、ドライバーに機敏な運転を教えろ」と思わず叫びたくなった。

 環境問題から言っても、あまり必要でない所にまで、道路を付けると、都会から多くの観光客が押し寄せて、せっかくの手つかずの自然が破壊されてしまう。その意味では、知床半島の先端部に道路を付けていないのは賢明な措置である。有名な観光地である「カムイワッカの湯の滝」など、マイカー通行制限があり、途中で全員、有料のバスに乗り換えさせられ、未舗装の山道を30分程走ってやっと到達できる「秘境」の趣である。おかげで、エゾシカやヒグマと人間とのトラブルもなく、共存できている。他の国立公園でも、同様の措置が執られることを望む。


▼植民地支配の片鱗を北海道で見る

 文化財の多い近畿地方に住んでいると、北海道の歴史の浅薄さがかえって新鮮な驚きである。もちろん、ここで言う「歴史」とは、大和朝廷以来の天皇制国家の「都」を中心とした歴史観でいう「歴史」のことであって、普遍的な歴史という点では、世界中のどの地域へ行っても、そんなに違わないことは言うまでもない。何もアイヌなどの先住民の例を持ち出さなくても、縄文時代には、普遍的に文化の中心は明らかに東日本にあった。弥生時代以後のこの列島を見ると文化の中心は、北九州から近畿地方へと移り、近代に入ってまた東京を中心とする東日本へと移ったことはいうまでないが、最も「文化財」のたくさんある飛鳥時代から江戸時代中期までという基準で見ると、歴史の中心は明らかに近畿地方であった。

 興味深いことに、いかにも、明治時代の取って付けたような神道国教化政策の痕と思しき神社がそこかしこで見られた。当然のことながら、北海道(当時は蝦夷地)には、内地のような「神社」は存在しなかった。ところが、明治期になると、盛んに神社が建てられた。たぶん、日本が植民地支配を試みた朝鮮・満州・台湾・南洋の各地もよく似た事情であっただろう。全国の神社の中では決してポピュラーなタイプではない伊勢神宮の神明造りをプロトタイプとして、各地に、皇威の及んでいる象徴として「○○神宮」という神社(神社を支えるコミュニティーのない神社を神社と呼べるかどうかは別として、建造物やそこで営まれる儀礼そのものは、神社そのもの)が、建立され、その周囲の辺境地域には、そのまたコピーのようなお宮が盛んに建てられたのであろう。そもそも、雪の多い北海道では、屋根の構造が本土のものとは異なっていて当然である。私が、道ばたで見つけたいくつかの神社は皆、朱色のトタン屋根にコンクリート造り、屋根の千木や鰹木だけは神明造り風の不思議な、しかも、本当に氏子コミュニティーがあるのだろうかというような神社だった。


典型的な北海道タイプの神社

 その他にも、以外だったことは、相当な「僻地」へ行っても、携帯電話(私の場合、NTT DoCoMo)が良く通じたということである。国後島を眼前に望む根室海峡に真っ直ぐに突き出した砂州(狭いところでは幅50メートルもなく、本土から十数キロも海中へ突き出している細長い低湿地で、もちろん両側は海)である野付崎の先端でも、良く聞こえた。アンテナは北海道本土にあるはずだ。この分だと、たぶん国後島や歯舞群島でも、北海道に面した場所では、日本の携帯電話が通じるに違いない。知床半島の自然観察センターでも、大阪の出版社から、原稿を催促する電話がかかってきた。まさに「IT時代の驚異(脅威)」である。


▼公共事業見直し検討会

 このような思いを胸に北海道から帰ってみると、この「土建国家」にしては珍しく、「公共事業見直し論」が永田町で高まっていた。しかも、今回は、野党からではなく、亀井静香政調会長をはじめとする自民党執行部のほうからである。つい最近の衆議院総選挙で、ばらまき政策による財政金融危機を心配し、公共事業削減を求めた野党に対して、「公共事業無しには、回復の兆しが見えだした景気が失速してしまう」と言って、農村部の票を確保しようとした「責任政党」を自称する自民党が、今度は、「思い切った公共事業見直し」を主張するとは…。いったい選挙公約はどうなったというのだ。有権者を愚弄するにも程がある。30議席以上を失いながら、「自公保で過半数を維持したから、森内閣は国民の信任を得た」などと寝ぼけた釈明をしたのは、いったいどこの何奴だ。こんなにコロコロと基本政策が変わったのでは、国際的にも信用をなくしてしまう。否、既になくしきってしまっている。



図抜けた顔のでかさの亀井政調会長と筆者

 そもそも、政党(政治家)たるもの、基本的な政策は、そう簡単に変えていけないと思う。少なくとも、ある公約を掲げて選挙の洗礼を受けたのなら、最低限、次回の選挙までは、事の善し悪しは別として、ひとつの政策を貫くべきである。選挙民はそれらの結果をまた評価して、次の選挙の投票行動の指標とするのである。しかしながら、この国では、公約の変更どころか、選挙の後で政党を変わる議員までいる。私の知っている代議士で、前回の総選挙から今回の総選挙までの3年8カ月の間に、社民党→民主党→自由党→保守党と、4つの政党を渡り歩いた猛者もいる。政治家たるもの最低限、数年間は、ひとつの政策を固執し、もし、その政策を実施したことによって現実(安全保障・景気対策・社会福祉等)が悪くなったら、その責任を取って辞めればいい。ところが、この国では、不都合が生じると、手のひらを返したように、看板だけをすげ替えるので、最終的には誰も責任を取らない体制になってしまっている。この「無責任体制」に対する考察は、拙論『この国のかたち』で詳解したとおりである。

 それでは、なぜ、この時点で急に自民党内に「公共事業見直し検討会」が作られ、風向きが逆方向になってしまったのか? まさか、田中角栄金権土建政治の後継者であり、完成者であった竹下登元首相の死がターニングポイントだったとは思わないが、少なくとも、シンボリックな出来事である。当然のことながら、県民一人当たりの獲得公共事業額日本一の島根県(竹下元首相の地元)の「中之海干拓事業」の中止決定は、そのことを目に見える形で現している。私は、もともと公共事業一本槍の景気対策については、多いに反対していた。戦後から1970年頃までならいざ知らず(公共事業は、その波及効果を含めると、投資した金額の何倍ものリターン=税収が見込めた)、2000年のこの時点で、国土の上で行う従来型の公共事業の有効性など、幾ばくのリターンが望めるというのか? むしろ、環境破壊などの点を勘案すれば、マイナス効果があると言っても過言ではない。自民党の「公共事業見直し検討会」は、ダムや干拓など、何十年が費やしてなお完成のめどが立たない事業を原則中止する考え方を打ち出した。路線転換が遅過ぎた感はあるが、とにかく一歩前進である。


▼省庁再編後の主導権争いが始まった

 しかし、公共事業を議員の政治基盤維持の重要な武器にしてきた自民党の「体質」を考えると、現在の動きを額面通りには受け取れない。永田町の政治家たちの目論見は見え見えである。ダムや干拓など地域住民の合意が得られなくなった大規模事業の中止によって、都市部を中心とした有権者(特に、政治的関心の高い「無党派」層)の人気回復を計る。しかし、そうすると、自分たちの裁量権であるところの公共事業費が全体として減ってしまう。それを防ぐために、巧みにIT関連事業の基盤整備を公共事業枠に組み込む。公共事業費の配分は、毎年の予算編成の中で「族」議員の腕の見せどころである。大いなる発展の可能性を秘めたITを取り込め(つまり、「IT族」の出現)ば、事業費はむしろ増やせるかもしれず、これから最も有望な先端産業を政治資金の土壌として育てることができる。だから、「建設国債の発行基準を変えてでもITを取り込もう!」と…。

 2001年1月からスタートする新行政機の「国土交通省」と「総務省」とのバトルが既に始まった。来年度予算の概算請求は8月からスタートするからだ。「国土交通省」とは、建設省+運輸省+国土庁+北海道開発庁が大型合併した旧「土建」官庁の集合体である。一方、「総務省」とは、自治省+郵政省+総務庁が合併した高度情報化社会の先端を目指す官庁であり、国民総背番号制の導入などが成功すれば、戦前の「内務省」をも凌駕する権力機構となるであろう。政治家や官僚たちは、決して国家の将来や国民のことを思って「公共事業を見直そう」と言っているのではなく、いかにしたら自分たちの権力構造を維持強化することができるか? にのみ関心があるのだ。50年も60年もの将来(つまり、自分は生きていない)の世代に負担をかけることになる赤字国債の償還のことなど、これぽっちも考えていない。

 もちろん、公共事業が国家の形成発展のある段階において重要な政策事項であったことは否定しない。否、むしろ評価すらしている。しかし、国民経済や個人情報がグローバル化した2000年の今時点において、日本一国の公共事業費が、他のG7諸国(米英独仏伊加の6カ国)の公共事業費の合計よりも多いのは、やはり異常としか言いようがない。

 古代エジプトのピラミッド建設の目的のひとつが、農閑期の農民に職と食を与えるための公共事業であり、決して奴隷に強制労働させたものではなかったという学説が、学会で広く支持されるようになって久しいが、古今東西を問わず、帝王たちによってこのような公共事業はしばしば実施されたものと理解している。秦の始皇帝もしかり、随の煬帝もしかり…。わが国にも一大公共事業を進めた帝王がいる。世界最大級の墳墓で知られる仁徳天皇がその人だ。神武天皇以後数代の天皇に関する具体的な記述が記・紀に記載されていない(後から、数合わせのために創られた天皇の可能性が大きい)が、仁徳の父にあたる応神天皇(「三韓征伐」で有名な神功皇后の皇子。神武のモデルか? 北九州から畿内に入り即位したという構造が似ている)あたりから具体的な記述が多くなるので、この辺りから実在の人物であるという定説である。仁徳の子とされる履中、反正、允恭以下安康、雄略天皇辺りは、河内に巨大な前方後円墳が林立し、中国の歴史書『宋書』にも「倭の五王」として紹介されている。この辺りの巨大古墳群は、ギザの3大ピラミッドにも擬せられる程の公共事業オンパレードである。


▼なぜ「仁徳」天皇なのか?

 なかでも、わが国最古の都市である「難波宮(高津宮)」に都した仁徳天皇は、その世界最大級の墳墓以外にも、大阪市内を南北に走る現在の上町台地(難波宮も四天王寺も大阪城もみなこの上町台地の上にある)の西側は、古代には大阪湾、東側は生駒山麓までの入り江(河内湖)であったが、この上町台地周辺の低湿地帯を最新の土木技術で開発し、難波堀江の開削、茨田の堤や横野の堤などを築いたりした公共事業好きの大王であった。というよりか、そもそもこの国は、神代の昔、大国主命(おおくにぬしのみこと)が、海中に突き出している岩場(小島)に縄を掛けて曳き集めてきて造った(国曳き)国土であるぐらいだから、元来の「土建国家」なのかもしれないが…。

 しかしながら、もし、公共事業好きの仁徳天皇が、国民の経済状況などの実状を考えずに、闇雲に巨大公共事業を推進していたのなら、当然のことであるが、不人気な大王となり、「仁徳」なんて立派な諡号を付けてもらえなかったであろう。河内に巨大古墳群を造った大王たちの中でも一際立派な諡号こそ、彼が為政者として心得るべき点は、十分心得ていたからだと思う。『大阪市歌』にも歌われているように、ある時、仁徳天皇が高津宮(たかつのみや)の高台から難波の街を見下ろした時、以前は、民衆の家々から夕餉を炊く煙が数多く昇っていたのに、全く煙りが昇っていない。驚いた天皇が側近に理由を尋ねたら、「民は苦しい生活をしております」と答えた。すると、天皇は直ぐに「3年間税金を免除するとうに」と言われた。政府の財政運営も大変であったが、なんとか3年が経過して、天皇が再び高台へ登ってみると、なんと家々からはモクモクと夕餉を用意する煙が昇っているではないか…。天皇は上機嫌で「民のかまどは賑わい増しぬ」と言われたそうである。

 要は、財政出動と減税のタイミング次第である。現時点では、経済波及効果のあまり望めそうにない公共事業に大金をつぎ込むより、個人の支出を増やさせる大幅な減税のほうが効果が大きいことは目に見えている。外形標準課税などとケチ臭いことを言わずに、試しに、「新しく企業を興した人には、いくら儲けても3年間の免税措置をとる」ということにしたら、あっと言う間に、新規創業が増大し、どの会社も社員がいないのだから、失業率も急激に好転すると考えられる。初年度から、雇用された社員は所得税を払ってくれるから、失業保険との「行って来い」で、国の赤字は大幅削減。一方、ニューリッチが多数出現し、時限免税措置を受けている彼らは、内需拡大につながる奔放な消費(消費税の増収)を行い、4年目からは、新規企業から法人事業税や創業者からの所得税など大量の税収が見込まれる。まさに、「民のかまどは賑わい増しぬ」ではないか。


戻る