ニッポンのお家芸とは
       00年 09月23日
レルネット主幹 三宅善信

▼シドニー五輪で"お家芸"は復活したか?

  シドニーオリンピック柔道男子100キロ超級決勝「篠原・ドゥイエ」戦の判定を巡っての議論が喧(かまびす)しい。曰く「完全なミスジャッジで負けた篠原選手が可哀想だ」、「なぜ、あんな(高度な技を見極める)技量のない人物を大事な決勝戦の審判にしているのか?」、「日本柔道連盟(あるいはJOC)は、国際柔道連盟(あるいはIOC)に抗議して(誤審)判定を取り消させるべきだ」等から、「篠原選手、君が本当の金メダリストだってことは(日本中の)みんなが知っている!」といった精神主義的な意見まで百花斉放の感があるが、どれも、極めて「日本的」な意見で、私にとってはそちらのほうが興味深い。

  アトランタオリンピックでの「歴史的惨敗」から苦節4年…。「お家芸復活」を目指してシドニー入りした日本柔道選手団は、競技初日の"YAWARAちゃん"こと田村亮子選手と"Mr.ミキハウス"野村忠宏選手の"ダブル金"で、最高のスタートを切ることができた。特に、文句無しに"実力世界一"と言われながら、バルセロナ五輪・アトランタ五輪と、2大会連続決勝戦で負け"悲劇のヒロイン"を演じた田村選手が晴れて金メダルを獲ったことは、大多数の日本人がわがことのように喜んだ。「わが身をすり潰すほどの苦行を行う巫女(ふじょ)としての田村亮子」という萬遜樹氏の分析『日本人と神事としてのオリンピック』は、この点で的を射ている。インタビューで「皆様の応援のおかげで勝てました(本当は、本人が世界一努力したから勝てたに決まっている)」を連発する田村選手は、立候補すれば当選間違いなし(この国では、政治こそ「まつりごと」そのものだ)である。政治家が人気取りのつもりで「県民(国民)栄誉賞」など出していると、数年後には「最年少の女性知事誕生」なんてニュースで足下を掬(すく)われるかもしれない。なにしろ、彼女の投げ技は世界一なんだから…。

  初日の"ダブル金"を見て、気の早いメディアは、早速「お家芸復活!」と囃し立てた。途中いろいろと、それなりのドラマがあったが、終盤に来て、男子100キロ級の井上康生選手の「亡き母に捧げる優勝」で、シドニー五輪の日本柔道のドラマは、まさに「絵に描いた」ような完璧な展開となった。演出家がいても、なかなかあれだけのドラマは書けない。平成の御代に入って以来、金融ビッグバンやIT革命の嵐が吹き荒れ、日本の"お家芸"のはずだった経済がまったく振るわず、相次ぐ青少年による後味の悪い事件ばかりが続き、自信喪失に陥っていた日本人が、久々に味わうことができた「伝統的な価値観」の中で安心を取り戻すことができる至福の共有空間であった。


▼現場対応がなっていない選手やコーチ

  ところがである。この完璧なまでのシナリオは、千秋楽の舞台の幕がまさに降りようとした、その瞬間に起こった大どんでん返しによって吹き飛んでしまったのである。言うまでもない「ドゥイエ・篠原"ミスジャッジ"事件」である。もちろん、柔道家でもなく当事者でもない私は、技の優劣や個別の判定について云々する立場でもないし、また、能力もない。しかし、篠原選手や上村・山下コーチといった当事者たちのその場での振る舞いや、事後の日本柔道連盟の対応、さらには、マスコミの報道姿勢から国民一般の反応については極めて興味深いので、この点については、これまで数々の「日本文化論」を展開してきたレルネット主幹としては、論じなければなるまい。なぜなら、あの日、TVの画面を通して数千万人の日本人が目の当たりにしたシドニー五輪のエキシビションセンター(柔道競技場)での光景とほぼ同じことが、日本(政治・経済その他)に関わって、世界中で毎日のように展開されているからである。

  まず、当の篠原選手のあり方についてである。もし、自分の技が完全に「一本勝ち」だったと確信しており、なおかつ、審判(主審)のミスジャッジならびに(選手の獲得ポイントを示す)電光掲示板の「表記が間違っている」と思ったのならば、その場で、主審に抗議して、試合の続行を拒否すべきである。そのことによって、審判団に注意を喚起することができるし、仮に、主審がその抗議を聞き入れず、(試合再開の命令に応ぜず)「警告負け」を宣言されたら、それはそれでよい。「私(篠原選手)とあなた(主審)との間に見解の相違があった」ということを、白日の下に晒すのである。交通事故を起こした時と同じで、自分に分があると思ったら、警察が来るまでの間できるだけ大騒ぎをし、周りの人々にアピールをして有利な証言を確保することである。そこからの仕事は選手自身ではなく、柔道連盟やIOCの仕事である。しかも、観客やTV桟敷の「世論」を味方につけることができる。篠原選手のように、試合再開に応じてしまえば、審判の判定(誤審)を認めてしまったことになる。いわんや、試合後、畳から降りてしまっては(試合終了を認めてしまっては)なんにもならない。抗議の意味を込めて、試合後の表彰式は欠席すべき(表彰式の欠席したからメダルを剥奪されるということはない)だし、試合後の記者会見で「自分が弱かったから負けただけです」というような発言は、日本的情緒主義の世界では「潔し」と喝采されるかも知れないが、国際的にはほとんど絶望的な発言である。

  次に、現場にいた柔道日本選手団の監督やコーチ陣の対応が問題外である。毎オリンピックごとに、「国際審判のレベルが低いので判定(決め技への評価や反則行為の見極め)が正確でない」という声(TV中継の解説者はたいてい元監督やコーチである)を聞く。確かに、素人であるわれわれがTV画面を通して視ていてもおかしい判定がある場合がある。オリンピックで出てくるような選手は、世界のトップクラスの選手なのだから出し合う技も紙一重だろう、それを見抜く審判もトップクラスの人材でなければならないのは当然である。しかし、現実はそうではないのだから、ミスジャッジが起こる可能性だっていくらでもある。日本柔道が"お家芸"として勝つことが宿命づけられているのなら、選手の技を鍛えるのと同等のエネルギーを割いて、試合中ならびに試合後の「抗議」の仕方のマニュアルを作り、これを現場のスタッフに徹底させるべきである。できれば、国際試合の際には、外国語の堪能な法廷弁護士を「抗議専門コーチ」として雇うべきである。いわんや、山下コーチの「(問題の技は、一本勝ちではないまでも)"有効"(の表示)が篠原に付くはずなのに、ドゥイエのほうに"有効"(の表示)が付いているのは、きっと電光掲示板係の間違いだろうから、そのうちに訂正されるだろうと思っっていた」なんて、論外である。電光掲示板の表示が間違えていると思ったら、即、試合を止めて確認すべきである。


▼"名将"上田監督

  そもそも、柔道の試合について、TVの画面を視ている国民はいうまでもなく、選手やコーチ、柔道連盟関係者に至るまで、大きな勘違いをしていることがある。いくら、試合中の号令が「MATE(待て)!」や「WAZA-ARI(技有り)!」と日本語(由来の用語)であったとしても、そのことと彼ら(外国人選手や関係者)の「論理が日本的である」ということとは、決定的に異なる。"柔道"と"JUDO"は別物なのである。われわれだって、野球をするときには「アウト・セーフ」と言い、麻雀をするときは「メンタンピン・イーペーコー」などと言いながらゲームに興じるが、そのことと、英語や中国語がしゃべれたり、いわんや、論理がアメリカ人的であったり中国人的であったりすることとは、全く別物であることは明らかである。「ちょっとでもミスジャッジをしたら、審判(役員)生命にかかわるようなクレームが浴びせられる」というプレッシャーを相手に与えることも作戦のうちだ。大相撲の立行司(「結びの一番」を裁く、木村庄之助と式守伊之助)が、常に脇差しを携行しているのは、「もし、差し違え(ミスジャッジ)をしたら切腹します」という覚悟で審判をしていることのシンボルである。もちろん、現代では「切腹」はしないが、それでも「差し違え」の場合には、相撲協会に「進退伺い」を提出することになっている。

  ジャッジへの抗議の仕方について、これまで私が、日本のスポーツ史上で(TVを通して)目撃した最高の実例は、1978年のプロ野球「日本シリーズ」第7戦(10月22日)での出来事であった。実は、この試合が、「デーゲーム(昼間の試合)」であるという不利な条件であるのもかかわらず、現在の方式で視聴率というものが計測されるようになって以来、プロ野球中継史上最高の視聴率45.6%を稼ぎ出した試合であった。しかも、読者の皆さんが想像するような巨人や西武といった人気球団同士の対戦ではなく、どちらかというと「地味な球団」として知られていた阪急ブレーブス(現オリックス)とヤクルトスワローズとの試合だというのだから驚きである。この試合は、4時間20分にもわたってフジテレビで中継された。通常、野球の試合は平均3時間程であるが、この試合がなぜ4時間20分もかかったかお判りであろうか? もちろん、プロ野球中継史上最高の視聴率が出た上に、それが長く続いたのだから、放送局やスポンサーはウハウハであったであろう。以下、少し長くなるが状況説明をしよう。

  日本のプロ野球は、1965年から73年にかけて、"ON砲"を擁した"川上巨人"が「9 年連続日本一(V9)」の金字塔を打ち立てた。その間の"影の主役"がかの阪急であった。巨人がV9を行っていた期間中、闘将西本監督率いる阪急が5回もパ・リーグを制覇して、巨人と戦ったが遂に一度も日本一になることができなかった。しかし、その阪急ブレーブスが、名将上田監督に代わってから、1975年から77年にかけて見事、リベンジを果たし「3年連続日本一」の栄冠を勝ち取った。そして、問題の1978年、阪急はまたまたパ・リーグを制覇し、巨人のV9にも及ばんとする「黄金時代」を築かんとしていた。そこへ、立ちはだかったのが、知将広岡監督率いるヤクルトスワローズである。1950年の球団創設(当時は国鉄スワローズ)以来、一度も、リーグ優勝すらない弱小球団であったヤクルトがこの年、広岡監督の指揮下でセ・リーグ初優勝をしたのである。戦前の予想は、過去10年間に8回も日本シリーズで選手権を争った阪急が圧倒的に優位であった。


▼「現場」の指揮官のすべきこと

  ところが、この年(1978年)の日本シリーズで、プロ野球の歴史を変える判定騒動が起きた。その時の両軍のバッターとピッチャーの名前は忘れたが、試合の終盤に、ヤクルトの選手が打った大ファウルをセ・リーグの平光線審が、"ホームラン"と判定したのである。VTRで何度再生された画面を視ても、打球はレフトのポールの外側を通過(つまりファウル)したのだが、当時の審判団は頑として判定を変えなかった。日本シリーズ第7戦の終盤という非常に大切な局面であったので、当然のことながら、阪急の上田監督が血相を変えてベンチから飛び出して来て、猛烈に抗議した。プロ野球の監督(選手も)に抗議は付きもの(時には、審判に暴力を奮って退場させられる者もいる)であるが、多くの場合は(味方の志気を鼓舞したり、観客に「私はここまでやりました」とアピールするための)パフォーマンスであるということは否めない。その証拠に、たいてい5〜10分程抗議をすると、試合再開に応じている。「没収試合」などという珍事は、プロ野球史上ほとんどない(たとえあったとしても、優勝に関係ない消化試合)ことからも明らかだ。しかし、上田監督は、日本シリーズという大舞台で、しかも、プロ野球史上最高の視聴率を出したゲームで、没収試合覚悟の選手全員の引き揚げ(守備に着かさない=試合再開ができない)を敢行したのである。

  もう20年以上昔のことなので、イニングやアウトカウント、さらには、その時、投げていたピッチャーや問題の打球を飛ばしたバッターの名前などは、正確には記憶していないが、それも、上田監督の猛抗議というインパクトがあまりにも強烈だったからだろう。たぶん、30分以上も「中断」した。もし、この試合(日本シリーズ最終戦)が「没収試合」などとなると、TVの放映権をはじめ、神宮球場の入場券の払い戻し、優勝祝賀行事のキャンセルから、阪急百貨店の優勝セールの取りやめ、さらには、それらの関わる各種損害賠償訴訟すら起きかねない。まさに「前代未聞」の出来事に発展したであろう。上田監督一人が辞任して済むというようなレベルを遥かに越えた球団の存続にまで関わるような、まさに予断を許さない事態となった。たまたま、最終戦ということで、両軍のオーナーや球団社長をはじめとするお偉方、それに、優勝チームにペナント(優勝旗)を渡さなければならないので、金子コミッショナー(プロ野球機構を統括する最高権力者)まで来ていた。上田監督の猛烈な抗議(もちろん、決して暴力は使わず言葉だけ)に、とうとう最後には、金子コミッショナーがグランドに降りてきて、上田監督と直談判となった。

  監督とコミッショナーの力関係といえば、軍隊で譬えれば、前線の一隊長と一国の大統領(最高司令官)との関係のようなものである。直接、話をしたこともないような身分上に「雲泥の差」がある。しようと思えば、罷免どころか銃殺刑(球界からの永久追放)にすら処すことができる。いわば、そんな差があるのに、上田監督は堂々と持論を展開し、しかも、集音マイクを通じて聞こえてくる「上田君状況をよく考えたまえ!」というコミッショナーの恫喝と、大阪弁丸出しの上田監督の「せやけど(お言葉ですが)コミッショナー…」というやりとりに、ドキドキしたのは私だけではあるまい。最終的には、コミッショナーの裁定で判定は覆されず試合は再開し、ヤクルトが初優勝を遂げた。当時、大学生であった私は、その時以来、日本一の名監督は上田監督だと思っている。たまたま阪急電車の定期を使って通学していたので、あまり観客の入らない西宮球場や西京極球場によく通ったものだ。ブレーブスの試合以外は観たこともない。その後十年程して、阪急球団がオリックスに身売りし、また、わが家から歩いてゆける距離のところに、大阪ドーム(近鉄バッファローズの本拠地)ができたが、私の中でプロ野球観戦は封印されてしまった。因みに、この時、"裁定"を下した金子コミッショナーが「公正」な人物であったか否かは、図らずも、その数週間後に行われたドラフト(新人選択)会議の際の江川投手の巨人入団を巡る「空白の一日」事件での同コミッショナーの"裁定"によって露見した。


▼千葉すず不選考問題の本質

  話がシドニーオリンピックからだいぶん逸れてしまったが、私が言いたかったことは、今回の柔道決勝「ミスジャッジ」事件において、このようなやりとりがあったであろうか? 人間が審判をする以上、ミスジャッジは付きものだし、もっと言えば、主観もかなり入る。問題は、ミスジャッジをしない(させない)ことではなくて、ミスジャッジが起きた時に、どういうふうに対処するかを予め決めておくことである。もちろん、本件について、日本柔道連盟がキチッとした仕事をしていたとは思えない。今回の「事件」で言えば、現場に国際柔道連盟の会長を引きずり出すことができたのか? あるいは、IOCのサマランチ会長の耳にまで、本件を届かすことができたのか? あるいは、会場の観客やTVの中継を視ていた世界中の人々に、今回の問題点を理解させることができたのか? 等々こそが本当に大事なことである。これらのことをキッチリとできて、初めて「お家芸」と言えるのではないか。それを、ただ単に「○○を始めたのはわれわれだ」と言うだけでは、決して「お家芸」とは言えないのである。

  今回の「事件」の周辺を観ていて、本当に「日本的」問題が多数見え隠れする。もし、オリンピックでの審判の選出方法や競技規則について、国際柔道連盟のあり方に問題があるというのなら、日本柔道連盟はそのことの「改善」に向けて、もっと真剣に努力すべきである。そもそも、陸上や競泳あるいは射撃のように「客観的な数字(記録)」で競う種目と、体操・シンクロ・柔道・レスリングのような審判員の「主観的なポイント(得点)」で競う種目とでは、アプローチの仕方はまるで違っているはずだ。体操・シンクロの選手なんか始めから審査員の印象を意識して"演技"している。ことの善し悪しは別としても、現行のルールで大会が行われる以上、柔道やレスリングの選手も、当然、審判の印象を"意識"した試合運びを考えるべきだ。もちろん、現場の監督やコーチ陣も…。それが嫌で、あくまで伝統的な「一本勝ち」にこだわるのなら、日本柔道連盟は国際ルールの「改善」に向けて不断の努力をなすべきである。それができないような役員なら、そんな役員はいらない。それが実際には、JOCの古橋会長をはじめ、各競技別団体(日本○○連盟とか日本XX協会とか)の役員ときたら、たいていは、かつてのその競技の第一人者だった人がその役職に就いている。競技者としての能力と管理者としての能力は全く別物のはずなのに…。

  本気で改革をなす気があるのなら、人事をオープン化し、明文化されたルールに準拠して競技団体の運営を行うべきである。しかし、これが日本人にとって最も苦手な分野であることは、「千葉すず不選考問題」の際にも明らかである。もちろん、大蔵省をはじめとする官僚の裁量による行政指導も同根である。読者の皆さんは、CAS(スポーツ調停裁判所)はなぜ、千葉選手の訴えを却下し、結果としては日本水泳連盟側の主張に沿った裁定を下した(つまり、千葉選手の訴えを却下した)かご存知であろうか? 千葉選手の訴えは、「五輪代表選手選考の基準が明確でなく、日本水連の恣意的な情状によって自分が代表選考から外されるという"差別"によって不利益を蒙った」というものであった。それに対するCASの裁定は、「特に、千葉選手だけが"差別"的に扱われたのではない」ので、却下であった。しかし、そのことは、決して日本水連が言うような意味での「勝訴」ではなく、「日本水連は、どの選手に対しても、客観的な基準によってではなく、恣意的情状によって代表選考を行っていたので、特に、千葉選手だけが"差別"された訳ではない」から却下された。という、驚くべき内容である。「全員を差別すれば、それはもはや差別とは言わない」というのは、「国会議員全員に賄賂を贈れば、それはもはや賄賂ではない」という、リクルート裁判のような論理である。恐らくCASのメンバーは、日本水連ひいてはJOC(古橋JOC会長は日本水連の会長でもある)のことをバカにしているであろう。


▼こんな"お家芸"はもうたくさん

  しかし、この手の戯(たわ)けた話は、日本の政治・経済・文化の多方面にわたって、実は、世界中で毎日のように、起こっている。日露間の北方領土交渉にしても、日米間の各種の交渉にしても、日中・日韓・日朝等の二国間交渉(協議)や、G7(先進国)蔵相・中央銀行総裁会議や、WTO(世界貿易機構)や国連をはじめとする主権国家間の各種交渉事から、三菱自動車やブリジストン(米国ではFire Stone)タイヤのリコール隠し問題をはじめ、毎年のように繰り返されるダンピング訴訟等といった経済問題。さらには、Windows等のコンピュータソフトやTVの放映権や音楽・映画等の著作権、ヒトゲノム解析をはじめとするバイオ関連の諸特許権裁判等、ほとんどの問題において、日本側が「敗訴(罪人扱いをされる)」したり、多額の和解金を支払わされて、国民が汗水垂らして働いて得た財産の多くを、労せずして外国(政府・企業等)に持って行かれているのが現状であろう。

  こんなネガティブな"お家芸"は、もうたくさんだ。国民全体としての遺失利益が多すぎる。少なくとも中等教育以上のレベルにおいては、教科書や参考書に記されていることを正確に覚えたり(まさに「入試問題」がそうだ)、教員の指導に素直に従う(まさに「内申書」がそうだ)青少年に対して高い評価を与えるより、教員のミスや矛盾を指摘したり、少数派の側(不利な側)に立って、「黒」を「白」と言いくるめられるレトリック能力(ディベート能力)をこそ評価した教育に切り替えるべきである。そうすれば、21世紀には、この国が1990年代に失った多くのものを取り戻すことができると思う。その意味でも、今回のシドニーオリンピックは、良い試金石と言えよう。


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