『ダイナソー』にみる米国人の宗教意識
       00年 12月27日
 
レルネット主幹 三宅善信

▼単なる「優れたCG技術」の作品か?

  先日、話題のディズニー映画『ダイナソー(Dinosaur=恐竜)』を観た。確かに、最新のデジタル技術を全編に用いたヴアーチャルリアリティ映像の質は素晴らしい。しかし、映画を見終わっていくつかの重大な問題が気にかかった。もちろん、どの作品にも制作意図やカラー(好み)がある。そのこと自身は全く問題ないのであるが、だからといって、制作者の意図というものに全く気づかずに、ただナイーブに「素晴らしい映画だった!」と感嘆するようでは、もし、制作者が悪意をもって観客になんらかの刷り込みを狙っていたとするなら、まんまと填(は)められてしまうことになる。さっそく、映画館で売られているPlaying Bill(パンフレット)と同作品を配給している東宝のサイトをチェックしてみたが、やはり、どちらにもこの重要な点については一行も触れられていなかった。そこで、今回の「主幹の主観」はこのアメリカ映画の意図について考察してみる。

  具体的な問題点について触れる前に、この映画を観ていないひとのために、映画のあらすじを記しておく。舞台は約6000万年前の白亜紀の地球。そこには恐竜たちの楽園があった。物語は草原の「巣」に産み落とされた1ダース程のイグアノドンの卵がまさに孵化しようとしているところから始まる。その時、ジャングルから突如として、凶暴な大型肉食獣のカルノタウルス(瞼の上に角状の突起があるため「肉食の牡牛」の意。『ジュラシック・パーク』でお馴染みのティラノサウルス=暴君竜と外形がよく似た恐竜)が現れ、逃げ回る草食恐竜たちで辺りは大混乱に陥る。すべてのイグアノドンの卵は踏み散らかされ、たったひとつだけが残ったが、その卵も、小型の肉食恐竜オヴィラプトルに持ち去られる。その卵をジャングルの中で二匹のオヴィラプトルが奪い合っている隙に卵は川に落ちて、大型の水棲恐竜たちの脚下をすり抜けるようにして流れて行く。文字通り危機一髪の連続だ。まさに滝壺に落ちようとしていたその卵を翼竜のプテラノドンがかっさらって、彼女が営巣している沖合の孤島の断崖にある巣の「雛」のために持ち帰るが、最後の瞬間にその卵を落としてしまい、卵は、運命の出合いとなるべきキツネザルの一族の目の前に落ちてくる。



孵化する瞬間、卵の中から最初に見たものはプリオだった

  キツネザルたちがこの思わぬ物体を興味津々で取り囲んでいたその時、卵が割れて中から可愛い赤ちゃん恐竜(この映画の主役であるイグアノドンのアラダーが誕生する。キツネザルの母猿プリオは、この赤ちゃん恐竜を一目見て母性を刺激されたのか「自分の子として育てる」と決意するが、長老ヤーは「この子は将来に大きな災いをもたらすだろうから見殺しにしろ」と諭すが、最後にはプリオの情熱に負けて、恐竜の赤ちゃんをキツネザルの家族の一員として育てる。この辺のくだりは、ジャングルに置き去りにされた人間の赤ちゃんをゴリラが育てる『ターザン』と同じである。「恐竜の子孫」と言われる鳥類でも、孵化した時に最初に見た動くものを自分の親だと思ってその後を着いて行くといういわゆる「刷り込み」がなされるそうだから、この赤ちゃん恐竜もキツネザルのことを実母だと思ったのであろう。「恐ろしい大トカゲ(=恐竜) 」のいない――それ故に、原始的な哺乳類がひっそりと棲息することができた――孤島において、瞬く間に数年の歳月が経過し、アラダーは見かけは立派なイグアノドンの青年であるが、心はキツネザルたちの兄弟として成長した。猿たちの恋の季節、キツネザルたちは一斉に配偶者を求めて行動するが、アラダーの兄弟分でドジなキツネザルの青年ジーニーと実は恐竜であるアラダーだけは、どうしても配偶者にありつけず、淋しい思いをする。他のキツネザルたちがロマンチックな「初夜」を過ごす日に、あまりにも唐突に、地球の歴史(生命誌)を揺るがすことになる大事件(event)が勃発した。


▼大隕石の衝突は決断を迫るための契機

  後に、陸海空と地球上のいたるところに君臨していた恐竜の絶滅に繋がったといわれる白亜紀後期の巨大隕石の衝突(deep impact)であるが、彼らには何が起こったのかは知る由もなかった。この辺の映像は、本当に圧巻である。誰も見たことのない巨大隕石(もし、現在、そのような"事件"が起きたら、人類もあっと言う間に絶滅すると考えられる。それをテーマに創られた映画が『ディープ・インパクト』であり、『アルマゲドン』である。これらの作品については、2年前に『アルマゲドン:神によって選ばれた国アメリカ』で、詳しく論じたので説明は省く。



大移動を開始した恐竜たち

  ともかく、一瞬にして砕け散ったキツネザルの楽園から、這々(ほうほう)の体(てい)で逃げ出したアラダーと数匹のキツネザルたちは、いのちからがら大陸へ泳ぎ着くが、その大地(実は、アラダーの故郷)も既に、緑の森は(隕石衝突の劫火で)焼き尽くされ、とても恐竜が棲める場所ではなかった。しばらく行くと、アラダーたちは数百等の恐竜の一団を出くわした。アラダーたちは初めて「本物の恐竜」を見た。彼らもどこかからいのちからがら逃げ出してきた恐竜たちであったが、まさかアラダーに、特殊な過去(他の恐竜を知らずにキツネザルに育てられた)があったとはつゆ知らず、「お前たちも早く逃げろ!」と言う。アラダーが「どこへ行くのか?」と尋ねると、「自分たちも良く知らないが、群の指導者クローンに従ってゆくしかない」と言われた。アラダーたちは疑問に感じたが、狡賢(ずるがしこ)い中型肉食恐竜のヴェラキラプトル(『ジュラシック・パーク』の「主役」の恐竜)が集団で襲ってきたので、ともかくアラダーたちもこの一団に追従して行った。



お婆さん恐竜との出合い

  恐竜集団のボスであるクローンは、アラダーと同じイグアノドンであるが、十分に成熟した経験豊かなオス恐竜であった。恐竜集団には、イグアノドン以外にも、鶏冠のある大型草食竜のパラサウロロフスやダチョウに似た足の速いストゥルティオミムス等がいたが、その最後尾に、ベイリーンという名のブラキオサウルス(超巨大な草食竜。かつてはブロントサウルスとも呼ばれた)とイーマという名の鎧竜スティラコサウルス(トリケラトプスに似ている)という2頭の年老いたお婆さん恐竜がいた。アラダーたちは、すぐにこの2頭のお婆さん恐竜と親しくなった。冷酷なボス恐竜であるクローンは、疲れて歩みの鈍くなった2頭を置き去りにしようとする。確かに、辺り一面は草一本生えていない砂漠であり、凶暴な肉食恐竜に襲われたら身を隠す所もない。しかも、後ろからは、ヴェラキラプトルやそれより遥かに恐ろしいカルノタウルスが追いかけてくる。群全体のいのちの安全を考えたら、年老いて足手まといの恐竜1頭や2頭を置き去りにするという判断は間違っていない。しかし、恐竜の社会の掟を知らない青年アラダーは、そのことを群のボスクローンに抗議するが、当然、一笑に付される。その課程で、クローンの妹ニーラは、「変わった恐竜」アラダーに興味を抱く。後に、この2頭は結ばれることになるが、これは「お決まり」の筋書きだ。



イーマを助けて励ますアラダー

  せっかく探し当てた水の配分などを巡って、クローン(名前からして、合理的な科学技術を想起させる)および彼の忠実な副官ブルートン(現実主義のローマの政治家ブルータスを想起させる)たちとアラダーは悉く対立するが、そのプロセスで、今まで考えてもみなかった行動を取るアラダーに、ニーラは次第に心を寄せて行くようになる。しかし、アラダーは、敢えて身の危険を犯して年老いた恐竜ベイリーンやイーマと行動を共にする決心をする。この辺りは、とっても「ヒューマンな」展開だ。クローンを突き動かしているのは、群のリーダーとしての自覚と、どこかにあるといわれる恐竜たちの楽園"生命の大地"へ到達することへの希望である。弱者を切り捨てながらどんどんと進むクローンの一行からは、取り残されたアラダーたちには次々と危険が待ちかまえているが、経験豊かなお婆さん恐竜とキツネザルという知能の高い哺乳類という奇妙なコンビで次々と危機を回避したアラダーたちは、カルノタウルスに追われて偶然、逃げ込んだ洞窟を通り抜けることによって、結果的には、クローンたちの集団より先に、"生命の大地"に辿り着く。この辺りの画面の描写は、手塚治の『火の鳥:黎明編』のクライマックス、部族抗争と火山の爆発によって「住むべき世界」を亡くした一組の若い男女が、いのちからがら洞窟を抜けて果てに辿り着くカルデラに囲まれた緑の大地に到達した時のイメージそのものである。


▼『出エジプト記』そのもののストーリー

  一方、過去の経験の積み重ねから敷衍(ふえん)することによって、正しい道順を選択し、大集団を導いてきたクローンたちの群は、"生命の大地"の目前まで到達するが、本来の入口である峡谷が、崖崩れによって通行できなくなっており、立ち往生してしまう。クローンは絶望の淵にたたき込まれた群れを励まし、断崖越えを強行しようとするが、正しい道を発見したアラダーが戻って来て、「崖越えは無理だ。私が見つけた道を使え」と主張するが信じてもらえない。そこへカルノタウルスが登場し、クローンはボスとして果敢に戦うが殺されてしまう。そして、新しいリーダーとなったアラダーに先導された恐竜たちの群は、無事、すべての恐竜の希望の楽園である"生命の大地"へ辿り着いて、新たな恐竜界および哺乳類(キツネザル)の先祖になる。というのがこの映画のあらすじである。「弱肉強食」という生物界の合理的な原則よりも、不合理な希望を信じて行動を起こすことと要求するキリスト教の世界観丸だしである。

  このストーリーを読んで、賢明な読者の皆さんは、もう既にお気づきになられたであろう。そう、完全に旧約聖書の『出エジプト記』のお話である。1ダースの卵の内の1つというのは、もちろん、アブラハム(人類の祖先)から分かれた12部族の内のひとつがイスラエルであるということを暗示している。産み落とされたイグアノドンの卵が、数々の幸運の積み重ねによって(恐竜より遥かに賢い)キツネザルに育てられることになるという件は、エジプトにおける「奴隷(ユダヤ人)の子」として産み落とされたモーゼは、小さな葦舟に乗せられてワニなどがいて危険なナイル川に流されるが、運命の悪戯か、子供を亡くしたばかりのファラオ(王)の妃に拾い上げられ、ファラオの子供(王子)として育てられるという話に、大変、よく似ている。

  その後の、群を率いて、本当にあるのかないのか判らない"生命の大地"を目指して、砂漠を横断してゆく話は、もろに「出エジプト」の話すのものだ。途中で、多くの試練があり、「こんな(いのちの危険を犯す割には、結果が保証されていない)苦労をするくらいなら、エジプトで奴隷をしていたほうがましだ」という人たちが、モーゼから離反しかかったり、する辺りもそっくりである。そして、最後には、「選ばれたもの」たちだけが"約束の地=カナン(現在のパレスチナ)"に到達できるのである。そして、神を信じて、モーゼに着いていった人々は、神ヤハウエと新しい契約『十戒』を結ぶのである。


▼アメリカ=新しいイスラエル

  ユダヤ・キリスト教的常識が、社会の背景にあるアメリカ人が、この映画を観れば、十人が十人とも、今私が触れたような観点を必ず、心のどこかにおいて観ることになるだろう。また、それが「制作者の意図」ともいうべきもののひとつであることは言うまでもない。しかし、本エッセイの冒頭に述べたように、映画館で売られているPlaying Billにも、同作品を配給している東宝のサイトにも、そのようなことは一言も触れられていない。ただただ、「最新のデジタル技術を駆使した素晴らしい映像のマジックである」というようなコメントの羅列である。もし、映画の価値を映像技術の上下でもって評価するのなら、十年もすれば、全てのハリウッド映画は、本作品よりも「凄い」技術になっているであろうし、また、十年前の全ての映画は、本作品よりも「駄作だ」ということになってしまう。しかし、そんなことはあり得ない。映像技術は、映画の価値を決めるひとつの要素に過ぎない。それよりも、作品全体を貫く、哲学ともいうべきものについてもっと思いを寄せて観賞すべきであろう。

  アメリカ合衆国という国は、いうまでもなく「移民」によって人工的に「創られた」国である。「気がついたら自とそこに国があった」という日本とは、明らかに性格を異にする国家である。英国(欧州)において、社会的に虐げられていた人々が、「新しいイスラエル(約束の地)」という希望を託して、全ての財産を投げ出して「紅海(大西洋)を横断して」辿り着いた大地であり、聖書の世界(アブラハムは、パレスチナにいた人々――背徳の都として「ソドムとゴモラ」を滅ぼした――をなんの心の痛みも感ぜずに滅ぼしている)と同様、そこにどのような先住民(いわゆる「インディアン」)がいて、彼らがどんな文化をしていようと、そんなもの、神聖な使命を帯びている自分たちからすれば一考の価値もないものとして、これを積極的に殲滅していった。

  ソ連から共産主義を取り去ることによって、その連邦が崩壊してしまったの同様、現在のアメリカ合衆国から、この建国の理念ともいうべき「宗教性」というものを抜きされば、ほとんどその統合が不可能になるくらい、この国家が「新しいイスラエル」という概念に縛られていることに気づかない日本人が多すぎることを、私は本当に不思議に思う。私の言うことが信じ慣れないのなら、ドル紙幣に「In God We Trust(神の下にわれわれは結集する)」と記されていることをどう説明するのか? また、「合衆国という教会」の大祭司である大統領が、演説の最後に必ず曰う「God Bless America(アメリカに神の祝福あれ)」という台詞は、どう理解すべきなのか? 私がこれほど言っても、この国の宗教性について、疑いの念をお持ちの方がいるとしたら、来年(2001年)1月20日のジョージ・W・ブッシュ新大統領の就任式の様子を、ノーカット版のBS放送で視ていただきたい。日本の一般の放送局(地上波)ではカットされている部分(ちょうど、その時は、NHKなら解説委員の解説。民放ならコマーシャルが入る)の中に、牧師の説教や参列者による賛美歌の合唱が行われるのである。まさに、プロテスタントの教会での日曜礼拝そのものである。これが、「政教分離(Separation of Church and State)」を憲法修正第1条に仰ぐ、この国家の大統領の就任式の光景である。パレスチナ問題で、アメリカが常にイスラエルの味方をすることの淵源はここにある。


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