李下に冠を?:発射事前予告のできない理由
 
1998/9/8

レルネット主幹 三宅善信


9月4日になって、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)政府は、「去る8月31日に発射されたのは人工衛星であった」と表明した。ことの真偽は別として、そのことによって、北朝鮮政府は、「日本政府およびマスコミによる弾道ミサイルテポドンの日本向け発射事件に対するリアクションは過剰だ。われわれは平和目的の人工衛星を打ち上げただけなのに、日本はこれを勝手に敵対行為のミサイル発射だと決め付けた」と言って、これを批判してきたが、笑止千万である。

それなら、即日(8月31日)、日本側から「弾道ミサイルの日本向け発射実験(今でも私は「威嚇攻撃」だと思っているが、一応、マスコミ報道の表現を用いるとすると)に対する抗議」を受けた時に、なぜ、初めから「あれは人工衛星の打ち上げでした」と言わずに、「アメリカの核の傘に守られた日本のミサイルがわが国に向けられてセットされていることへの報復だ」というような思わせ振りな表現をしたのか。「平和利用(『金日成将軍の歌』や『金正日将軍の歌』なるものの電波を出して地球の周回軌道を回ることに何の平和的意味があるのか知らないが)」というのなら、余計に周辺国へ事前に発射予告をすべきであろう。万が一、(切り離されたロケットの一部の)着水地点に船舶が航行していたり、あるいは、軌道上に民間航空機が飛んでいたりしたらどうするつもりなのであろうか?大事故につながる可能性もある。それとも、事前に発表できない理由でもあるのであろうか?百歩譲って、北朝鮮当局の言うように「平和目的の人工衛星」であったとしても、彼らには、事前に発射予告をできない理由があるのだ。

その理由とは、一般に社会主義(全体主義独裁国家)においては、諸々の情報が極端に隠蔽されているから、ロケットの打ち上げのように、ある程度の失敗のリスクを伴うような行為は、事前に発表せずに、「成功」を確認してから後に「大成功であった」と発表されるのが常である。失敗した時には、失敗を認めずに、初めから打ち上げそのものが「なかったこと」にされるのである。したがって、打ち上げ「成功率は100%」ということになるのである。これがもし、日本や欧米なら、「○○1号」の次に2回失敗して、その次にやっと成功したとしたら、そのロケットの名前は「○○4号」というふうになる(つまり欠番が生じる)はずであるが、全体主義国家の場合、2号と3号は「なかったこと」になり、「○○4号」が「○○2号」ということになって、「人民の大勝利!」というふうに公表されるのである。世の中に「常勝」ということはありえない。横綱でも全勝優勝なんて滅多にできない業だ。「常勝」を標榜する連中はすべて眉唾と考えてよい。これが、「有人宇宙船」だったら、哀れ2号と3号の乗組員は、文字どおり「空の藻屑」と消えて(消されて)しまい、へたをすれば機密保持のために 家族にも連絡されずに、亡命とか失踪の汚名を着せられてしまうことにもなりかねない。そして、「○○4号改め2号」の飛行士たちが「人民の英雄」として称えられるという構造になっている。したがって、北朝鮮という国では「(失敗するかもしれない)打ち上げ実験を事前に公表できるはずがない」という恐ろしく傍迷惑な行為が行われることになるのである。

今回の「テポドン騒動」は、百歩譲って北朝鮮当局の主張を信じたとしても、このようなひどい話になるのである。もちろん、私自身がいうまでもなく、日本政府もその他の常識的な国々も、北朝鮮の言うことを信じているものはほとんど皆無だ。やはり、威嚇行為として、三陸沖に弾道ミサイルを発射したのであろう。もしそうとしたら、国際法上も許すべからざるもっての外の行為だ。こういう国のことをアメリカでは「ならずもの国家」と呼ぶそうである。このような国に「食糧援助」など必要はない(長年、私は、アジア・アフリカ・ボスニアなどで「人道援助」活動を支援してきたが、北朝鮮だけは、何度頼まれても「ノー」と答えてきた)。この国に食料援助などしても、われわれの願いである「飢えた子供たちに食料が届く」とは、とても信じられない。それどころか、かえって軍部や現政権を生き長らえさせるだけだ。

それよりも、一般民衆にはお気の毒であるが、経済封鎖をして、一刻も早く現体制を崩壊させることの方が、長い目で見ればみんなのためになる。ちょうど、目先の混乱を避けるために「破綻しかかった銀行に公的資金(税金)を投入する」ようなものだ。根本的解決を先延ばしにした一時凌ぎの対処療法に終始していては、かえって後で「高いこと」につく。潰すべきものは、銀行でも国家でも、一刻も早く潰すことが、結局、当事者も含めてみんなの利益になる。ここで、注意すべきは、よく日本のマスコミで言われるような「悪いのは一部の政治家や軍人であって、かわいそうな一般民衆は被害者である」という主張であるが、とんでもない。悪逆な独裁者の支配にいのちを懸けて闘わず、ニッコリ笑ってマスゲームを演じている民衆にも大いに責任はある。そもそも、民主主義というものは、多くの先人たちの犠牲によって獲得されてきた制度であって、国民の自助努力のないところに民主主義は根づかないものだ。

ここで、読者の理解のために「弾道ミサイル」なるものの性格について説明しよう。かつて、米ソ冷戦真っ盛りの頃に盛んにいわれたのが「ICBM大陸間弾道ミサイル(Inter-Continental Ballistic Missile)」だ。このミサイルは、文字どおり射程距離が「地球の裏側まで届く=大陸間」大型ミサイルである。米ソ共に数千発以上実戦配備をしていた。しかし、このミサイルの弱点は、発射装置(打ち上げ施設)のある正確な場所が敵国の偵察衛星に丸分かりだということである。先制攻撃(First Strike)に使えばものすごい破壊力を有するが、これでは、「○○国が先制核攻撃した」と国際社会から批判を受けるので、現実には使いにくい兵器だ。第一、戦争になれば、これらの核ミサイル発射施設は、真っ先に敵国からの攻撃に晒されるであろうから、その意味でも有利な兵器とはいえまい。

そこで、開発されたのが「SLBM潜水艦搭載型弾道ミサイル(Submarine Launched Ballistic Missile)」である。数ヶ月間も海に潜ったままでどこにいるのやら判らない原子力潜水艦に核ミサイルを塔載すれば、相手国にとっては脅威だ。これだと、国際的に批判を受ける「先制攻撃」をせずに済む。地上(地下サイロ)に配備されているICBMが相手方の先制攻撃されても、潜水艦からの報復攻撃(Second Strike)をすることができるので、双方(例えば、米ソ)の間では、本当の意味で「核抑止力」が機能したが、ところがもし、一方の国がFirst Strikeの能力しか持たない場合は、その核兵器は先に使用した場合にのみ効果があるので、そういう国はとても危険である。そういう意味では、現核保有国(米・露・英・仏・中)の内でも米露両国以外は、Second Strike能力が劣る。いわんや核兵器の保有数が限定されているインド・パキスタンはそれだけ First Strikeの危険性が高い。

このように、核兵器(生物・化学兵器も同様)の開発そのものよりも、運搬手段(ミサイル・戦略爆撃機等)の開発の方が大変なのだ。そのミサイルにも3通りある。8月にアメリカがアフガニスタンとスーダンを攻撃した時に使用した「巡航ミサイル」は、ジェットエンジンを利用して超低空で水平飛行し、GPS(カーナビと同じ人工衛星を利用した正確な位置確認システム)を利用して目標に正確に命中するミサイル。2番目は、湾岸戦争の時にイスラエルがイラクのスカッドミサイル攻撃を迎撃したアメリカ製のパトリオットに代表される「迎撃ミサイル」。これは、偵察衛星や早期警戒機等の監視システムと連動して、敵がいつ攻撃をしかけてきても瞬時に発射して(当然、燃料は充填しっぱなしが可能な固体燃料)、相手のミサイルが噴射する熱線等を赤外線センサーで感知してこれに命中させるもの。そして、問題の「弾道ミサイル」である。開発された順番からいえば、こちらの「弾道ミサイル」が最初であり、およそ40年の歴史がある。射程距離の大きいものは、2段式・3段式ロケットになっており、燃焼制御がしやすい液体燃料が使われることが多いが、これは発射直前に超低温の液体燃料と酸化剤 を充填しなければならないため、発射準備段階に入ったら、相手(の偵察衛星)に察知される可能性が高い。

それでは、この「弾道」とはどういう意味であろうか? その軌道が、いわゆる「放物線」を描いて飛行するミサイルという意味である。ほとんど垂直に近い角度で打ち上げられ、一旦、大気圏を出て、低高度の地球周回軌道(宇宙空間)を飛び、再び大気圏に突入し、目標にほとんど真上から落下して命中するタイプのミサイルである。北朝鮮は、「8月31日に打ち上げられたのは、2段式の弾道ミサイル『テポドン』ではなくて(平和目的の)人工衛星である」と主張しているが、基本的には、弾道ミサイルと人工衛星は同じ技術である。弾頭(ロケットの先頭部分)に核(生物・化学)兵器等を装着しているものがミサイルであり、弾頭に観測機器や放送設備を装着しているものが人工衛星と呼ばれるものである。また、一旦、地球周回(楕円)軌道に乗ってから減速し、大気圏に再突入(落下)してくるのが弾道ミサイルであり、そのまま地球周回軌道に留まるのが人工衛星である。だから、人工衛星打ち上げ技術のある国は、基本的に弾道ミサイルを持っているのと同じことである。「軍事目的の弾道ミサイルではなくて平和目的の人工衛星を打ち上げたのだ」と出張しても、決して「言い訳」にはならない。

特に、静止軌道とよばれる正円軌道の特定地点に衛星を「止める(地球の自転速度と同じ速度で飛行させることによって、見かけ上「止まって」見える)」技術は難しく、日本の気象衛星「ひまわり」などはこれに当たる。それどころか、日本は現在、独自の火星探査衛星も飛ばせているし、「おりひめ」・「ひこぼし」両人工衛星による自動ドッキング実験にも成功したので、米・露・欧州連合に次いで(軍事転用可能な)人工衛星技術については世界で4番目の実績を有しているのだ。

核爆弾の開発そのものは、先の印パ両国の核実験でも判るように、比較的容易な技術であることは先に述べた通りである。問題は、いかに濃縮プロトニウムをIAEA(国際原子力機関)やアメリカに見つからずに貯め込むかであるということも、9月1日付の拙エッセイ『とんだミサイル威嚇』で予告したとおりだ。実は、日本は実に巧妙な戦略で「原爆500発分のプルトニウムを既に確保していた」という私の指摘に驚かれた読者も少なくないであろう。もちろん、現在の日本は「非核三原則」にも見られるように、「核兵器不保持」ならびに「核の水平拡散への反対(NPT体制)」が国是であるが、このようなもの国会決議ひとつでいかようにも変更することはできる。技術的・経済的には、日本が「潜在的核兵器保有国」であることはいうまでもない国際的常識だ。その運搬手段である弾道ミサイルに応用できる人工衛星技術も確立している。

それでは、どうやって最大の難関たる秘密裏なプルトニウムの大量貯蔵を可能にしたのか? に触れざるをえまい。アメリカの強い後押しで、イラクや北朝鮮の「核開発をしているのでは?」と疑われている施設をIAEAは「査察」したことがあったが、IAEAの本当のターゲットは日本とドイツであった。第二次大戦後、敗戦国でありながら、高い科学技術と工業力ならびに経済力を誇る日独両国が、再び軍事大国となることを恐れた国連安保理の常任理事国を構成する戦勝国(米・英・仏・中・ソ)が、両国の足枷にしたのが「IAEA体制」である。事実、日独の全ての原子力施設(主に発電所)には、IAEAが設置したTVカメラがセットされており、24時間体制で「どれだけの核燃料(濃縮ウラン)が入れられ、どれだけ核廃棄物(プルトニウム他)が持ち出されたかをチェックされている。もちろん、日本の当局者はこのカメラに触れることも許されない監視下に置かれているのである。一見、日本が濃縮プロトニウムを貯め込むことは不可能なように思われる。

ところが、IAEAの監視の目を欺く大芝居が2年前に行われ、まんまとこれに成功したのである。それが、あの「高速増殖炉もんじゅ」の事故だったのである。マスコミ各社はあの事故を「動燃(動力炉核燃料開発事業団)のお粗末な危機管理体制」と批判したが、実は、あの事故こそ、世界の目を欺く「大芝居」だったのである。そもそも、米露や欧州連合ですら「技術的に困難すぎる」として、開発を諦めた高速増殖炉を、なぜ日本だけが巨費を投じて開発していたのか? それは「危険なプルトニウムが日本国内に溜まらないようにするため」という表向きの理由――いわゆる「核燃料サイクル確立計画」――であったが、あの事故でその計画が中断し、その間にも、数十機が稼働しているといわれる日本の原子力発電所では毎日、広島型原爆1発分のプルトニウムが行き場のない「核廃棄物」として「生産」されつづけているのである。あれから、まもなく2年、既に、原爆500発分のプルトニウムが青森県六ヶ所村の核廃棄物処理施設に備蓄されつつある。しかも、フランスに委託して「再処理」してもらっていた核廃棄物も、マスコミ各社やグリンピースなどの環境団体を焚き付けて、運搬船の航路妨害 をさせ、海外に持ち出すことの危険さをアピールし、結果的には、これまた、国内に暫定的に貯蔵されることになった。

これら一連の動きが、もし「仕組まれたもの」であったとしたら、マスコミはおろかIAEAや国連安保理も、日本政府にまんまと騙されたことになる。その証拠に、政府は、あれだけ巨費を投入して開発に固執した「もんじゅ」を一向に再稼働させようとしない(再稼働すれば、せっかく貯めたプルトニウムを燃料として「燃やさ」なければならなくなるから)ではないか。このことによって、従前から十分にあった運搬手段(人工衛星=弾道ミサイル)開発の技術力と資金力に加えて、核弾頭の原料まで手にしたことになる。在日米軍三沢空軍基地と六ヶ所村のある青森県(の沖)を北朝鮮がミサイルで威嚇したのが、今回の「テポドン騒動」だが、日本側がいつもに増して素早く北朝鮮を非難した背景には、このようなストーリーがあったのではないかと私は思う。日本政府は、今回の「テポドン騒動」を利用して、軍事偵察衛星(表向きは「多目的衛星」などと言っているが)の導入まで国民的合意を取り付けることにも成功した。

ある国が、軍事的な戦略のひとつとして核武装することの是非については、ここでは述べない(それぞれの国民が、倫理性やメリット・デメリットを勘案して自分たちで決めることである)が、もし、そうするつもりがないにもかかわらず、今回の北朝鮮のように、日本が国際社会からあらぬ嫌疑をかけられるような紛らわしい行為をすることは、まさに「李下に冠を正さず」の諺言が戒めるところの行為である。拙エッセイをきっかけに、「レルネット」ホームページ読者の皆さんも一度、考えてみてほしい。


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