「ものつくり大学」って、なぁに?   
       01年 2月11日
 
レルネット主幹 三宅善信

▼河野"害"相

  経済不況の脱却という重要な課題があるにもかかわらず、21世紀冒頭の通常国会は、旧態依然とした「KSD疑惑」という政治家と業界との癒着と、「機密費流用事件」という公務員のモラルハザードを見せつけられて、うんざりしている国民は私だけではあるまい。先週、とある公益法人の許認可に関する問題で総務省の幹部と面会する機会があったが、彼の名刺を見て驚いた。表には「総務省○○○○」と印刷してあるが、英語で書かれた裏面には"Ministry of Public Management, Home Affairs, Post and Telecommunications of Japan"と印刷されていた。彼と出会った外国人が、これを文字通り訳せば「日本政府の公共事務(総務?)+内務(地方自治?)+郵政+電気通信を司る官庁」って感じになってしまう。これで意味が通じるのだろうか? 中央官庁の統廃合だって、看板を付け替えただけで中身は変わっていない。まるで、同じ経営者なのに店名だけコロコロ変える歌舞伎町の風俗店と変わらないではないか…。

  まず、「機密費流用事件」であるが、わざわざ語るのもバカバカしい。河野外相は自らの答弁に論理矛盾を感じないとしたらよほどどうかしている。「来年度から機密費を減額するつもりか?」と質問されて、「円滑な外交を行うための必要な経費なので、減らすつもりはない」と答えておきながら、松尾容疑者(前要人外国訪問支援室長)が相当額の公費をネコババ(公金横領)したことを認めて(警察に告発までして)いる。そうすると、実際に使った機密費(野党も、機密費が必要であることは認めている)は、「当初予算―横領分」であったことは、幼稚園に通っている愚息でも計算できる。つまり、来年度の機密費予算は、その「差額」だけで十分なはずである。こんなつまらない問題で審議が停滞していること自体、"国益"という点から見ても大いなる損失である。

  こんなもの、一旦、謝って「私の監督不行届でした。来年度の機密費は大幅減額します」と言って、野党の"顔"を立ててやればいい。松尾容疑者が悪事を働いていたのは、過去数代の外相時代を通してだったのだから、形の上で謝るのは河野外相であったとしても、"犯罪行為"そのものについては、誰も河野氏個人の責任だとは思わないはずだ。しかし、事件として発覚した後の対応が悪いのは、河野氏そのものの責任である。そうして、ほとぼりが冷めた頃に、またぞろ増額すればいいだけだ。その頃には、争点も変わっているはずである。もちろん、機密費事件とは別に、日本の"国益"のためには、ロシアや北朝鮮との交渉能力を見ても明らかなように、外相としての適性を欠く河野氏の一刻も早い更迭を私が希望しているのは、かねてから何度も書いているとおりである。


▼神道政治連盟は森政権の鬼門

  次に、「KSD(ケーエスデー中小企業経営者福祉事業団)疑惑」についてであるが、読者の皆さんも、3〜4年前に盛んにTVにオンエアされていたKSDのコマーシャルを覚えておられるであろう。財津一郎扮する零細企業の社長と、彼のことを「社長」と呼ぶ妻(彼女が「専務」だったりする)との掛け合い形式で状況(怪我の保証であったり、社員旅行の共済であったりとテーマは変わるのだが)は進み、最後に「KSD KSD なんで〜しょか〜♪ 詳し〜いことは判らな〜い♪」とBGMが流れるのである。文字通り、自分で自分のことを「詳しいことは判らない」と揶揄しているのである。よくできたCMである。もし、本当に「詳しいことが判って」しまったら、困ったことになってしまう財団法人だからだ。

  この件についての具体的な"疑惑"の追求(賄賂の授受の有無や犯罪としての立件)も、私にとっては関心がない。ただ、現代日本社会における宗教のあり方を問題にしているレルネットとして関心があるのは、この「KSD疑惑」で名前の挙がっている政治家(逮捕された前参院議員の小山孝雄容疑者および元労相村上正邦自民党前参議院議員会長ならびに額賀福志郎前経済財政担当大臣)は、3人とも宗教教団と関連の深い議員であることが判明していることである。

  村上正邦議員は、昨年4月、急病に倒れた小渕総理(当時)に取って代わった森政権の擁立(『総理大臣の欠けたときは…』)を密室の協議でお膳立てしたいわゆる"五人組"の一人である自民党の有力者である。「KSD丸抱え候補」と言われた小山孝雄氏は、参議院議員に当選するまでは、長年、この村上氏の議員秘書をしていた。この2人と関係の深い宗教団体といえば、伊勢の神宮を本宗と仰ぎ全国8万神社を包括している神社本庁である。その神社本庁の政治担当の関連団体が「神道政治連盟」である。神社本庁の公式サイトに拠れば、神道政治連盟とは、"「神道精神を国政の基礎に」を合言葉にして結成された神社界を母体とする団体です。皇室の尊厳護持(そんげんごじ)、正しい政教関係の確立、教育の正常化等の活動を通じて、国民の幸福、日本の繁栄、さらには世界の平和に寄与することを目的としています。"とある。

  小山孝雄容疑者と村上正邦参議院議員は、共に、神道政治連盟の推薦議員(2001年1月1日現在)であり、神社本庁の神道政治連盟に対する政治家側の相対(カウンターパートナー)組織である「神政連国会議員連盟」の中心人物である(最近になって"推薦"を取り消されたらしい)。現在の会長は、自身も地元の神社の神職を務める綿貫民輔衆議院議長だが、事務局長はつい最近まで小山氏が務めていた。神政連結成時には、村上参議院議員の秘書として小山氏はその組織形成に深く関わりを持ち、神政連にとってとりわけなじみ深い議員であった。この両人に、(神社本庁の価値観に基づく)道義国家の確立、教育の正常化、道徳教育の確立、自虐史観の廃止等の極めて道徳的な活動を政治の場面で行ってもらうことを期待していたのだから、神社本庁としても、「踏んだり蹴ったり」である。

  そういえば、昨年5月15日の森総理の"神の国"発言も、この神道政治連盟結成30周年記念祝賀会(小渕"前"総理のお通夜の日)の際に飛び出したのだから、森政権にとって神道政治連盟はまさに"鬼門"である。敬して遠ざけたほうが無難であろう("神の国"発言についての私の見解は、『森を見て木を見ず:「神の国」論争』をお読みいただけるとありがたい)。


▼創価学会が自民党に突きつけた"踏み絵"

  次に、KSD疑惑の責任を取って、就任したばかりの閣僚を辞任した額賀福志郎前経済財政担当大臣であるが、同氏は、小渕政権の内閣官房副長官(当時)として、疑惑が指摘されている「(KSDの"オーナー"古関忠男前理事長が推進していた)ものつくり大学の設置に有利になるように、総理の演説草稿を作成した」と疑われている。本件(の犯罪性・倫理性)についても、私は関心がない。なぜなら、各種団体から陳情を受けるのは、議会制民主主義国家の議員の活動の範囲内だと考えるからである。故田中角栄元総理や故竹下登元総理の例をみるまでもなく。有力な議員には、勝手にロビイストのほうから集まってくるものだ。問題は、その課程において「受託収賄などの違法行為」が行われたかどうかにかかっている。私だって、国会議員や府会・市会議員に対して、しょっちゅう陳情や意見交換を行っているが、いつも"お土産なし"で行く(あるいは来る)から、問題がないだけだ。自民党最大派閥である経世会のホープとして、「10年後の首相候補」と言われた額賀代議士だけに、いろんな個人・団体が同氏の元に近づいたのであろう。




ある会で同席した額賀官房副長官(当時)と筆者

  私がここで述べたいのは、安物の政治倫理などではない。考察してみたいのは、政治と宗教の関係である。日光東照宮に宮司を務める名門額賀家の出身である額賀代議士は立正佼成会が母体の佼成学園卒であり、同氏の実兄は最近まで、佼成出版社に務めていたくらいの立正佼成会関係者である。だから、今回、事件として大きく取り上げられたというのは、下司の勘ぐりであろうか? 自民党と連立を組んでいる公明党(と、そのバックボーンである創価学会)から、自民党執行部に突きつけられた、いわば"踏み絵"ともいうべき…。秘書の交通違反もみ消し疑惑の影響で、昨年6月の総選挙で落選した白川勝彦前代議士などは、"反創価学会"の急先鋒であった。最近の一連の「不祥事議員」に共通するのは"反創価学会"というレッテルである。もし、そうだとしたら、政治と宗教の関係について、ゆゆしい事態である。誤解がないように言っておくが、私自身は反学会でもなければ親学会でもない。ただ、白川氏の政治家としての資質については、TVや雑誌でしか同氏の発言を聞いた(読んだ)ことがないので、正確なことは言えないが、側聞する限りにおいて、同氏の論理的思考の構成力には大いに疑問を感じてはいるが…。


▼宗教教団と政治との関わり方

  これまで何度も書いてきたように、憲法の定める"政教分離"の原則というのは、この国においてしばしば誤解されているような「政治と宗教の分離(Separation of Politics and Religion)」という意味ではなくて、公権力が特定の宗教団体のことを支援したり、抑圧したりしてはいけないという意味の「教団と公権力の分離(Separation of Church and State)」という意味である。ある宗教が、その教義に基づいて「世直し(社会改革)」を行おうとするのは、宗教教団として至極ごもっともな欲求である。それらの動きが高じて、政治団体(政党や○○議員連盟等)の結成が行われることも当然である。たとえば、脳死による臓器移植について反対する教団があったとして、彼らが『臓器移植推進法』に反対するために、政治的行動をとるといいたケースを考えてみれば分かり易いだろう。事実、 大本など「ノン・ドナーカード」の街頭配布や何百万人もの反対署名を持参して国会へ請願を行っている。なんら問題はない。

  問題なのは、中央・地方を問わず、公権力の側の宗教教団への不適切なアプローチである。東京都や大阪府などの大都市圏ではずっと以前からそうであったが、細川内閣以来、創価学会をバックボーンとする公明党が国政レベルで"与党"になったことの意味(弊害?)は大きい。公明党も政党である以上は、公権力を執行する立場である与党を目指すのは当然である。どこかの政党のように「清貧(であるが故に正論を吐ける)でありさえすれば、万年野党でもいい」などというのなら、政治家なんぞにならないほうがましである。ただ、年々、増大する一方の「無党派」層の市民に対して、集票力が衰える一方のゼネコン・農協・中小企業経営者など(による締め付け)を主な支持母体とする自民党が危機感を感じている自民党執行部にとっては、政党本部の命令に忠実な「集票マシーン」を有する公明党の魔力は垂涎(すいぜん)の的(まと)らしい。一度、この味を覚えたら止められなくなってしまう、いわば"麻薬"のような存在である。私が批判しているのは、こういう手段を使ってまで、権力の中枢に居続けたいと思っている一部の与党幹部である。政党はあくまで、政策を有権者に提示して、この優劣(有権者の選択)によって政権を争うのが、議会制民主主義の根本理念であるはずである。

  公明党も公明党で、最近は、自民党からのこういう扱いに慣れてしまったために、本来の「庶民の味方」というスタンスからだんだんと乖離して行き、近い将来、創価学会員以外のいわゆる"F(フレンド)票"を失うことになるであろう。ただ、現時点としては、連立与党のまさに要の位置にいるので、自民党執行部に対して、次々と"踏み絵"を要求することができる。それが表面化しているのが、昨今の「KSD疑惑」のもうひとつの顔であると私は考えている。


▼金で買える比例代表の議席

  ただ、宗教界の「反学会」連合ともいえる「新宗連」すなわち、「信教の自由」・「政教分離」・「宗教協力」・「国民皆信仰」などを活動目標にして1951年に立正佼成会やPL教団を中心に結成された財団法人新日本宗教団体連合会の側も、昨今の「自民=公明蜜月時代」という政治状況を黙って見過ごしているわけではない。昨年6月の総選挙で、東京地区において"親学会"派にスタンスを変えた自民党の有力議である島村・与謝野・深谷各氏といった大臣経験者を見せしめ的に落選させている。これなぞ明らかに、当該選挙区において新宗連側がこれまでの自民党支持から、野党第一党である民主党の候補を支持した結果である。さらに、先の都知事選において、野中広務幹事長(当時)ら自民党執行部が公明党と組んで擁立した前国連事務次長明石康氏に対抗して、法華経を信仰している石原慎太郎氏を擁立し、これを都知事に当選せしめた勢力の重要な要素に新宗連があることはいうまでもない。石原都知事は、立正佼成会の関連団体である「明るい社会づくり運動」の現役会長でもある。

  何度も言うように、私はこの状況自体を批判しているのではない。国民の多くがこの事実を知らずに、政治的選択を行っていることを問題にしているのである。さらに、宗教団体と政治との関係において、もっと危険な状況はというと、現行の比例代表制という選挙システムの弊害である。かつての参議院「全国区」制の時代には、これまでに名前が出た教団以外にでも、百万人以上の信者を有するような巨大教団――真言宗・浄土宗・浄土真宗(東西両本願寺)・曹洞宗・天理教・霊友会等――ならば、する気にさえなれば、自前の議員を当選させることはできた。しかし、現在のブロック別の比例代表制というシステムでは、もっと中規模の(新宗教)教団にとっても、わずか数万人分の党員費用(数億円)を建て替えることによって、比礼代表名簿の上位に自前の候補をランクづけることができ、それがそのまま国会議員の議席を金で買うことができるからである。事実、そのようなことを行っている教団をいくつか知っている。これなぞ、全く今回の「KSD豊明会」と同じシステムである。その意味でも、現行の比例代表制という選挙システムは早急に改善(廃止)すべきであると考える。


▼梅原猛流「ものつくり大学」の理念

  さて、そのような「金で買われた議席」によって、議員になった小山孝雄前参議院議員が、その「返礼」として行った(とされる)のが、例の"ものつくり大学"という妙な名称の新設大学への巨額(数十億円)の「補助金」という名目での公的資金の注入である。当大学は、本年4月開校を目指しているらしいが、開校前にこれだけのスキャンダルにまみれてしまっては、とても学生が集まるとは思えない。これで、当大学が破綻したりしたら、それこそ、注入された公的資金がパーになってしまう。

  もっとも、私は、「ものつくり大学」というネーミングそのものは気に入っている。日本社会は急激に少子化が進んでいるというのに、ここ十数年ほどの間に山ほどの新設大学が開校した(早晩、そのほとんどは経営に行き詰まるだろう)が、これらの多くは、建学の精神などあまり深く考えずに、ただ容易に「国際」だの「情報」だの「福祉」だのいった流行言葉を冠しただけの"大学"であるが、そのほとんどは、偏差値から言っても"Fクラス"(受験したほとんど全員が合格するという高校レベル以下)のどうしようもない"大学"で、たとえ卒業したとしても、公務員はおろかまともな企業にはとても就職がおぼつかなく、大量にフリーターを創り出すだけの「大人(社会的責任を果たす)になれない青年」のための遊園地のごときものである。

  その点、件の「ものつくり大学」には、(旧)経営者の邪な魂胆は別としても、立派な建学の理念がある。「人寄せパンダ」として名前を貸されているだけかもしれないが、「ものつくり大学」初代総長に就任された哲学者で文化勲章受章者でもある梅原猛氏は、『ものつくり教育への感慨』と題して、以下のように述べている。

 "日本人は古来からものづくりの達人でした。源流は縄文時代にさかのぼります。縄文土器や土偶、木を材料にした建築及び彫刻技術です。この伝統は稲作文化に伝承され、稲作農業国の中でもとりわけ水準の高い国になりました。そして明治以後、欧米から工業文明を受け入れるときにふたたび形を変え継承されました。
 その後、日本はそのひたむきな勤勉さと英知によって、世界に冠たる技術立国に発展しました。ところが近年、この永年にわたり培ってきた伝統が衰退しつつあると言われています。この大学は、このような歴史背景のもとに大きな社会的要請を受け、期待と使命を担って創設するものです。
 「もの」をつくるということは、青年期における貴重な「体験」であり、「感動」であります。「手は表にあらわれる脳」だとも言われます。「もの」をつくることは、手先ではなく、頭脳の発達と人格の形成の面からも普遍の意義をもちます。
 この大学は、21世紀の新しい理想に燃えて創る大学です。この理想に共感し、意欲にあふれた学生諸君が全国から入学してくれることを待ち望んでいます。"


▼モノつくりこそ日本文化の本質

  まさに、そのとおりである。さすがに、梅原猛先生だけのことはある。設立認可を貰わなければならない文部省(現文部科学省)や、補助金を頂戴しなければならない労働省(現厚生労働省)の官僚たちが理解できる形に「レベルを下げて」書いたから、このような表現になったのだ。この文書には、さらに隠された裏の意味がある。それがまさに、本「主幹の主観」コーナーにおいて、1年半前に上梓した『「もののけ」の正体とは?』で展開した論理の中身そのものである。比較的簡潔にまとめられた文章なので、是非、ご一読いただきたい。

  日本文化の深層に流れる基本理念は、縄文人からポケモン(アニメ)に至るまで、一貫して「山川草木すべてのものは"いのち"という霊性を有する」というアニミズムの原理である。日本語では、ヒトの霊性を"タマ"と呼び、ヒト以外のすべての物が持つ霊性を"モノ"と呼ぶ。このモノとは、「もののけ(物の怪)」のモノであり、「ものがたり(物語)」のモノであり、「「もののふ(武士)」のモノであり、「ものしり(物知り)」のモノである。人類の歴史が始まって以来、ヒトはその手で、自然界にあった数多の物を加工し、その物体に対して、それが自然界で有していたのとはまた異なる新たな機能(いのち)を与えてきた。このいのちが自ら表出する時、ニッポン人はこれに"モノ"という名前を与えて、この働きを大切にしてきた。長年、自らの"手の延長"として使い親しんだ道具(当然、これは"モノ"を有する)を捨なければならないときに、われわれ(先祖)は、針供養や筆供養といった慰霊祭を心を込めて丁寧に行ってきた。だから、道具がまだ本来の機能を有しているのに、これを亡きものとして粗末に扱うことを「勿体ない(モノの本質を失わせる)」という表現を用いて、これを厳しく戒めてきたのである。

  現代日本社会の衰頽は、"使い捨て"文化(物質主義)を旨とするアメリカを中心とした「グローバル経済」というまやかしに惑わされ、物質に"いのち"を与え、ヒトが、この"モノ"と共に生きてゆく日本文化の本質を忘れたところから始まっていると言っても過言ではない。神社本庁も、欧米列強との対抗上――皮肉なことに彼らの手法をそっくりそのまま用いることによって――確立された国家主義的なイデオロギーを一刻も早く放棄し、江戸時代以前のニッポン人が普遍的に有していた「アニミズム的"モノ"の世界へと回帰すべきである」と、その政治的主張を転換されたほうが、遥かに「国体護持」にも有効的であると私は思っている。その意味でも、「"もの"つくり大学」には、退廃した日本社会を復興させるために一筋の光明を与えることができる可能性があったのに…。選挙制度が生み出した弊害である政官業の癒着と、それに巣くうリヴァイアサン(Leviathan=巨大な魔物)たちによって喰いものにされたことをつくづく残念に思う。


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