祀られるべきはA級戦犯?
01年 5月16日


レルネット主幹 三宅善信

▼小泉・眞紀子人気は民度の低さの証明

  発足時の内閣支持率が80%以上という驚異的な数字を挙げた小泉純一郎政権が誕生した。前の政権(森内閣)の評判が悪すぎたので、誰がやっても見栄えがするという点では得をしているような気がする。発足直後に起こった「金正男(と思われる人物!)の偽造旅券による入国未遂事件」などのアクシデントも無事回避し、なんとか軌道に乗ったかに見えたが、田中眞紀子外相VS外務官僚との確執など、"劇場型"内閣としては、国民の政治への関心を喚起せしめたという点では功績大である。TVの国会中継の視聴率も2倍以上に跳ね上がったそうである。もっとも、この政権の2大表看板である「純ちゃん眞紀子ちゃんを虐めるような意地悪な質問をする野党議員は悪い奴」というような短絡的な有権者やメディアが出てくるようでは、この国の民主主義は終わっている。公権力を執行する立場に就いている以上、公私の区別なく、徹底的に批判の目に晒されるのが、公権力を腐敗させない唯一の方法だからだ。批判されるのが嫌ならば、政治家なんぞにならねばよい。

  しかし、国会論戦で野党各党が小泉純一郎首相や田中眞紀子外相を批判、追及したとたん、抗議電話やメールが党や質問に立った議員に殺到する現象が起き始め、野党各党が対応に苦慮しているそうだ。民主党の鳩山由紀夫代表は16日の記者会見で、「国民が過剰に反応している。虐めているつもりはないし、国民の方も冷静に議論に耳を傾けてもらいたい」と強調したが、「小泉人気」「眞紀子人気」は、この国の民主主義を危うくしかねない新たな波紋を生じ始めている。民主党によると、同党の菅直人幹事長が衆院予算委員会の質問に立った14日は、午後2時の質問開始直後から抗議電話やメールが民主党本部や同党のホームページに殺到。同日だけでメールは約100通に達したそうだ。このうち「感情的な批判」が約6割に上ったという。菅氏のホームページにも、質問開始直後から抗議メールが相次ぎ、その数はこの日と翌日で140通に…。目立ったのは「こんな人が質問しているとむかつく。単細胞に見える」「意味の分からん質問をだらだらとするな」「眞紀子さんはよくやっている、外務省を改革しようとしているのを民主党は邪魔する気か」などの内容だったそうだ。

  こういう一種の"異常事態"に対して、菅氏は「危ういものを感じる」と懸念を示し、「応援しているから厳しい質問をしないでくれというのは、イチローを応援しているから甘い球を投げてくれというのと一緒。それでは、小泉政権は本物にならない」と指摘した。「日本人の政治意識のレベルは、民主主義には達していない」と一貫して主張してきた私の意見が、まさしく現実によって証明されたようなものだ。勘違いしないで欲しい。私は社会進化論者ではないので、西欧型のいわゆる「民主主義」が至高の普遍的制度とはもとより考えていない。それどころか、世界中の諸地域において、それぞれ育まれてきた諸文化があるのだから、世界中が「民主主義化(西欧化)」するのでなく、それぞれに相応しい、「身の丈に合った政治制度」を執行するほうが、それぞれの民族にとって、幸福の度合いは大きいと考えている。日本人の場合は、ずばり「幕藩制度」がベストだと考えているが、今回の趣旨は、幕藩制度を論じることではないので、問題提起に止めておく。


▼参議院選挙で圧勝する秘策教えます

  7月の参議院選挙で圧勝できる良い方法がある。何が何でも選挙に勝ちたい政党の指導者は私のアイデアを採用するがよい。森政権下の自民党忌避現象に焦って、投票用紙に「自民党」と書かなくても良いように、急遽ルールを変更した比例区で、画期的に得票を得るマジックである。候補者の個人名を書くという、以前の「全国区」のような制度に逆戻りした今回の「非拘束名簿式」の比例区選挙で(有権者1億人で投票率50%として計算すると)、改選議席数25議席のところへ、もし、100人立候補したとしたら、1候補当たりの平均得票数は50万票ということになり、政党別のドント方式による比例配分なので、一概には言えないが、第1党の候補ならば、約75万票を獲得すれば、当選確実になると予測できる。しかし、投票所の現場へ行って、多くの国民は迷うであろう。100人もの立候補者の名前がズラーッと書かれた名簿を見て、誰かの名前を選ぶという作業は、衆議院総選挙の際の最高裁判事の国民審査よりも、難しい。誰の名前を書いていいか判らない、公明党と共産党の支持者以外の圧倒的多数の有権者は、「小泉純一郎」とか「田中眞紀子」という名前を書いてしまうだろう。

  もちろん、これらの名前は無効票となってしまう。毎選挙毎の無効票は10〜20%あるそうだが、そのほとんどは、白紙か立候補していない有名人の名前だそうであるから、今回の参議院選挙に限っていえば、これらの連中のほとんどが「小泉純一郎」とか「田中眞紀子」と書くに違いない。そこで、大躍進したい政党は、「小泉純一郎」とか「田中眞紀子」という全く同姓同名の別人をその政党の比例区候補者に仕立て上げるのである。何も本名である必要もない。選挙用の登録名であればよい。横山ノックも西川きよしも芸名を登録名にして立候補(当選)していたではないか…。すると、投票用紙に「小泉純一郎」とか「田中眞紀子」と書かれた無効票、たぶん、小泉が全得票数の10%、眞紀子が5%は獲得すると予想されるので、これらの名前の「無効票?」の合計得票数が750万票の最大得票名となり、比例区の全議席のうちの10議席(750万÷75万=10)という40%の議席を簒奪することができる(実際には、第1党に有利なドント方式のためにもっと増えて、13議席ぐらい稼げる)のである。これで、単独過半数の獲得間違いないの万々歳である。選挙で勝つための方法を教えてほしい政党関係者はすに私のところを尋ねてくるがよい。もっといい秘策も授けてあげよう。


▼「官=公」にあらず

  総理大臣になった小泉氏への個人的評価は別として、レルネット主幹として最も気にかかのは、小泉氏の靖国神社に関する発言である。周辺諸国(および公明党)に配慮して、靖国神社への参拝について触れることを避けてきた近年の自民党首脳であったが、小泉氏は、先の自民党総裁選に打って出たときから、積極的にこの問題に触れてきた。日本遺族会の会長を務めた橋本龍太郎氏ですら、総理大臣就任中はこの問題を避けてきた嫌いがある。私は、日頃、靖国神社にお参りなんかしたこともないのに、閣僚になった時だけゾロゾロと参拝するような連中は軽蔑しているけれど、さりとて、日本遺族会の会長まで務めた人が、総理大臣になった時だけ参拝しないというのも理解できない。要するに、これらの政治家は、日本の繁栄の礎となった戦没者への畏敬や追悼の念といったものではなく、単に、遺族会の"票"を期待しているだけの輩のように思えてしようがない。あと20年もすれば、高齢化の進む太平洋戦争の遺族はほとんど消滅しているだろうから、選挙の票も期待できなくなり、政治家は靖国神社なんか見向きもしなくなるであろう。もう一度、戦争でも起これば話は別であるが…。

  一昨日(5月14日)の衆議院予算委員会で、与党自民党の久間章生政調会長代理(元防衛庁長官)が靖国神社への公式参拝について決意を質したのに対し、小泉首相は「尊い犠牲に心から感謝したい。首相として参拝する。よそから言われてなぜ中止しなければならないのか、いまだに解らない」と述べ、中国・韓国などアジア近隣諸国の反発があっても、参拝の考えに変わりがないことを強調した。首相はさらに、「公式とか非公式とかという議論が解らない。私には24時間SP(警護官)が付き、私生活はない。公用車で行ったとか言われても、判らない」と述べ、「公人中の公人」である総理大臣の参拝が、公式参拝か否かを区別すること自体に意味がないとの考えを明らかにした。また、野党民主党の菅直人幹事長は、『日本国憲法』第20条(いわゆる「信教の自由」と「政教分離」の問題)との絡みで、20条の第3項には、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」とあるが、内閣総理大臣は紛れもない国の"機関"なのだから、総理大臣の靖国神社への参拝は"宗教活動"にあたるのではないか? と…。小泉首相の「靖国参拝」への見解を質(ただ)した。そして、どういう訳か(中国や韓国が主張している)「A級戦犯の合祀」については、チラッと臭わせただけであった。

  中曽根康弘総理の"公式"参拝以来、毎年8月になると繰り返されるイシュー(issue)に総理大臣(閣僚)の靖国神社参拝問題がある。この日、靖国神社に詰めかけたマスコミ関係者は、閣僚の姿を見つけたら、馬鹿のひとつ覚えよろしく「公式参拝ですか? 非公式参拝ですか?」という愚にも付かない質問を繰り返す。聞かれた閣僚も、馬鹿みたいに「公人としてではなく、私人として参拝した」などという訳の分からない言い訳をしている。「私人として」と答えた閣僚に対して、取材陣はさらに「それならどうして公用車で来られたのですか?」という質問が飛ぶ。聞くほうも聞かれるほうも日本語の使い方を間違っている。「官=公」だと思いこんでいる。外務省の「機密費」をネコババした松尾某のごとく「官=私」というケースもあれば、官職に就いていない一私人が公(public)のために貢献することだっていくらでもある。正しい日本語(漢語も)は、「官」の反対語が「民」、「公」の反対語が「私」である。決して、「私」は「官」の反対語でなく、「公」は「民」の反対語でもない。マスコミも含めて世間一般は、「公私混同」ならぬ「公官混同」をしているのである。社会科のひとつに「公民(citizen)」という科目があるではないか…。左官屋さんは、「官」はついても民間の職人だし、公文式も、「公」はついても民間の学習塾である。


▼正式参拝と玉串料の関係

  マスコミは、そもそも神社というものへのお参りの仕方についての常識がなさ過ぎる。救済のための公式である「教義」を説く(それ故に、その宗教施設には必ずプロの宗教家が居て「教導」してくれる)仏教やキリスト教の寺院や教会への参拝(法要・礼拝出席)と異なり、神社への参拝というものは、基本的には本人の「勝手参り」の参詣である。その証拠に、仏教やキリスト教の場合は、必ずといってよいほど、寺院や教会堂の施設の中に入ってから、参拝する。ところが、神社の場合、参拝者は(本殿の)屋外に留まり、その神社について何か(教義)を聞く訳でもなく、勝手に賽銭を投げ込んで、ご祭神(祭神名すら知らない場合が多い)に「今、○○が参ってますよ」と知らせるために、紐のぶら下がった鈴を鳴らすのである。柏手(かしわで)を打つのも同様の理由と考えられる。仏教やキリスト教の聖職者は、参拝してきた人間に向かって教えを説くのであるが、神社の神職は、参拝者のほうではなく、ご祭神のほうに向かって祝詞(のりと)を上げるだけである。参る側の公式も非公式も糞もない。参られる側(ご祭神)はそんなことに関心を持っていないからである。

  ただ、神社であるとすれば、「正式参拝」という参拝の仕方がある。これは、一般のいわゆる「勝手参拝」と異なり、まず手水を使って手と口を漱(すす)ぎ、神主から修祓(お祓い)を受けた後、昇殿(といっても、本殿ではなくあくまで拝殿に)し、玉串を奉奠(お供え)する。それ故、神社への奉献金のことを「玉串料」というのである。その際、神主から、自分の名前の入った祝詞(のりと)を上げてもらったり、神饌(しんせん)物を神前に供えてもらったり、神楽を奉納したりするというオプションが付くこともある。こういう参拝の仕方を、神社界では「正式参拝」と呼んでいるが、この呼称はあくまで、神社側からの区別であって、参拝する側の人物が「公人」であるか「私人」であるかには、関係ない。むしろ、関係あるとしたら、それは、その人が「玉串料」を供えたかどうかに関わっているといったほうが、より実態に即している。「内閣総理大臣」と記帳したかどうかなんかは問題ではない。

  私は、これまでいくつかの神社に「正式参拝」したことがあるが、記帳なんかした記憶がほとんどない。仮に、記帳したとしても、氏名の横に書く肩書きは、あくまで職業欄のようなものと理解している。その職業が、内閣総理大臣であろうが、○○株式会社代表取締役であろうが、それはあくまで、その人の職業名に過ぎない。それが、官職であるか否かは関係ない。もちろん、当然のことながら、玉串料はポケットマネーから出すべきである。総理大臣(閣僚も)が移動するのに「官」用車を使うのは当然のことである。それが、仮に「私用」であったとしても、「総理大臣の職務は24時間」だから、いつどこで何が起こるか判らない以上、いつでも「公用」に切り替えられるように、スタンバっておく必要があるからだ。もちろん、同行する秘書官や運転手の給与、ガソリン代も「官」が支払うべきものである。ただし、玉串料(香典でも)だけは別である。いくら少額であっても、これを「官」費で賄うのは憲法違反である。20条の第1項に、「…いかなる宗教団体も、国から特権を受け…」とあるからである。参考までに、日本国憲法第20条を記しておく。


第20条(信教の自由、政教分離)
 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。


▼靖国神社とは、いったいどんな神社なのか?

  さて、「主幹の主観」シリーズの愛読者の皆様なら、ここで問題になっている「靖国神社」なる神社がどのような歴史と性格を有している神社であるのかは十分ご承知であろうが、一応、靖国神社の概要を、同神社の広報文に準拠して記すと:
「靖国神社は、明治2(1869)年に明治天皇の思し召しによって、戊辰戦争(徳川幕府が倒れ、明治の新時代に生まれ変わる時に起った内戦)で斃(たお)れた人たちを祀るために創建された。初め、「東京招魂社」と呼ばれたが、明治12年に「靖国神社」と改称されて今日に至っている。後に嘉永6(1853)年、アメリカの海将ペリーが軍艦4隻を引き連れ、浦賀に来航した時からの、国内の戦乱に殉じた人たちを合わせ祀り、明治10年の西南戦争後は、外国との戦争で日本の国を守るために、斃れた人達を祀ることになった神社」である。

  因みに、靖国神社が発表している「靖国神社御祭神戦役・事変別柱数」によると:
明治維新 7,751。西南戦争 6,971。日清戦争 13,619。台湾征討 1,130。北清事変 1,256。 日露戦争 88,429。第一次世界大戦 4,850。済南事変 185。満洲事変 17,175。支那事変 191,218。大東亜戦争 2,133,760。 合計 2,46 6,344 柱(平成12年10月17日現在)。
だそうである。ご祭神数だけで言えば、この国に霊幸(たまさき)わう八百万の神々のうち、なんと、合祀祭神数が250万柱にもおよぶ「神々の第1党」にもなれる大勢力である。そして、このことは、近代の日本国家の繁栄がどれだけ多くの尊い人命の犠牲の上に構築されてきたかを示すメモリアル施設でもあるのである。

  ここまでなら、諸外国にも、『○○戦犠牲者の碑』だとか『無名戦士の墓』とかいった類の施設がたくさんある。しかし、靖国神社が主張しているところの以下の表現が、中国や韓国を初めとする諸外国ならびに民主党をはじめ多くの野党関係者をイライラさせているのである。すなわち:「大東亜戦争が終わった時、戦争の責任を一身に背負って自ら命をたった方々もいます。さらに戦後、日本と戦った連合軍(アメリカ、イギリス、オランダ、中国など)の、形ばかりの裁判によって一方的に"戦争犯罪人"という、ぬれぎぬを着せられ、無惨にも生命をたたれた1068人の方々…靖国神社ではこれらの方々を「昭和殉難者」とお呼びしていますが、すべて神さまとしてお祀りされています。靖国神社は国民みんながお参りする神社です」という文書の中に出てくる、いわゆる「戦犯の合祀」問題である。

  事実、靖国神社参拝に対する小泉首相の国会答弁に対して、16日、早速、陳健・駐日中国大使がクレームを付けた。陳大使は、国会内で自民党の山崎拓幹事長と会談し、小泉純一郎首相が8月15日に靖国神社参拝を表明していることについて、「A級戦犯が合祀されており、日本の政治指導者の参拝は、日本政府の過去の歴史への対応が問われる問題だ。中国として事態の推移を注意深く見守っている」と懸念を伝えた。 また、崔相龍・駐日韓国大使も同様の抗議を行っている。そのことに対して、多くのメディアも、小泉首相の姿勢を批判している。


▼A級戦犯こそ祀られるべき

  しかし、これらの「A級戦犯合祀反対派」の人(国)たちは皆、日本文化の本質を理解していない。この国では、ある人が死んでしまえば、その人が生前どんなに悪いことをしたかどうかは全く問題ではなくなってしまうのだという本質が理解できていない。善人であろうが悪人であろうが皆、「死んだら仏(神)さんになる」と思われているのが基本中の基本だ。親鸞聖人も言ったではないか「善人なおもて往生を遂ぐ、いかにいわんや悪人をや」と…。西欧のように、(政治犯が既に自然死してしまっていた場合)亡くなった人の死体を掘り起こしてギロチンにかけ直すようなことは、われわれの皮膚感覚ではあり得ない。この国では、死体遺棄罪はかなり重い罪に問われるのだ。

  特に、政治・軍事的な争いに破れて殺された人の魂は懇ろに鎮めなければならないのである。さもなくば、その戦後処理によって利益(幸福)を得ている人々に対して、殺された人々の魂が怨霊となって祟られると広く信じられてきたのである。むしろ、敗者の鎮魂と名誉回復は、勝者(現政権の為政者)の最重要課題とでも言えるのである。日本一の出雲大社に祀られた大国主命(大和朝廷によって「国」を取り上げられた)しかり、法隆寺に祀られた聖徳太子(太子の死後、一族皆殺し)しかり、平安京遷都がらみの政争で冤罪に問われ、死後祟道天皇の号送られ、御霊神社に祀られた早良皇子しかり、天神様(天満大自在天神)となった菅原道真しかり、神田明神となった平将門しかり、この国の歴史において、「神」として祀られた人の多くは、争いに敗れ「罪に問われて憤死した」人々である。

  これらの人々の霊を慰め、怒りを守護に変換させるための装置こそが、「神格化」なのである。現政権の為政者は、このことを真剣になさなければ、この国ではうまくいかないのである。生前、その人が何をしでかしたかなんて、怨霊の祟りへの恐怖から比べたら、問題じゃない。諸外国がなんと言おうと、「A級戦犯」をこそ、懇ろに鎮め祀らなければならないのは、現在の平和と繁栄を享受するわれわれの責務なのである。遙か縄文時代以来、アニミズムと先祖崇拝に生きる日本人にとって、必須の宗教的振る舞いである「鎮魂」の精神が、先の大戦でご迷惑をかけたとされる近隣諸外国から理解してもらえないのであれば、その意味で、靖国神社という紛らわしいネーミングを変更し、もとの「招魂社」と戻せばいいと思うのは、私だけではないであろう。この鎮魂という日本人の振るまいは、わずか百数十年の近代の所産である天皇を中心としたナショナリズムのごとき安物の思想なんかじゃなくて、縄文以来の日本人のメンタリティに連綿と流れる宗教性であって、このメンタリティをこそ諸外国に理解してもらう努力をこそすべきではないかと思う。



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