水と安全はただ:池田小学校事件に思う
01年6月28日


レルネット主幹 三宅善信


▼「き○がいに刃物」

 「日本人は、昔から"水と安全はただ"と思って暮らしてきました」イザヤ・ベンダサン(?)の代表作『日本人とユダヤ人』で紹介されている有名な科白である。私は、この本をたしか中学1年生の頃に読んだ覚えがある。年齢的には少し早熟な話題かもしれないが、読書家の父の元には、毎週のように書店から十冊単位で本が届いていたから、私が育った家では、本棚に並んでいる本だけでもゆうに数千冊はあったと思う。また、この頃、祖父の友人に、モーリス・アイゼンドラスという著名なラビもいた。私がこの本(『日本人とユダヤ人』)からどれほどの思想的影響を受けたのかは定かでないが、不思議とこの科白は記憶に残っている。事実、その数年後には、同志社大学の神学部でユダヤ教やキリスト教のことについてそれなりに勉強することになったし、この4年間にわたって当『主幹の主観』コーナーで、ある意味で「日本人論」と呼ばれる分野の営みを行ってきたのだから…。

  江戸時代以来、日本という社会が極めて「安全な社会」であったことは、世界的に見ても希有なことであろう。下克上の戦国時代は、豊臣秀吉の「刀狩り」によって終焉を告げ、特に徳川幕藩体制が確立された家光将軍期(寛永年間)以後、武士の刀は戦闘用の武器というよりは、「武士(国家公務員もしくは地方公務員)」であるということの身分証明証のようなものであった。ほとんどの侍は、人を殺傷する目的で抜刀したことなんか生涯に一度もなかった。その意味では、現在の警官の持っているピストルのような存在だ。それくらい日本社会は「安全な社会」であった。そのこと自体は、いわば「自明の理」として多くの人が認識していたが、ベンダサン氏の指摘の優れていたところは、「日本人は、これ(安全保障)を無料だと思いこんでいる」と指摘したことであった。

  もっとも、昨今の日本社会は、先日(6月8日)、8人の児童が犠牲になった大阪教育大学付属池田小学校の事件と、その後の関係各方面の対応(校門を閉鎖したり、構内に警備員や防犯カメラを設置する等)を見る限り、「アメリカ並み」の危険な社会になってしまった感がする。私にも3人の小学生の子供がいるので、今回の事件は人ごとではなかった。大阪には、不幸にも今回の事件の現場となってしまった池田以外にも、天王寺と平野に大阪教育大学付属の小学校があるが、事実、愚息の幼稚園時代の同級生の中には、優秀な成績で付属池田小学校に行ったお子さんもあり、その子自身は殺されなかったけれども、親御さん共々、相当なショックを受けられたことかと思う。

  幸い、愚息たちの通っている小学校は、安全対策がきちっとしていることでは有名な学校である。今回の事件の起こる数日前(6月3日)の父親参観の際にも、珍しくキチッとした身なりをして学校に行ったが、うっかり指定のIDバッジを付け忘れたばっかりに、校内は既に数百人の父親がウロウロしているというのに、校門で警備員から厳しくチェックされてしまった。だが、これくらいの厳しさがあってもいいと思う。校内に入ったら、40分の間に3学年(クラス)を見て回らなければならないので、駆け足で教室から教室へと飛び回っていたが、途中、階段で校長先生と出くわしたら、「日曜日のお忙しいところ(参観に来ていただいて)恐縮です。3クラスを回られなければならないので大変ですね」と声をかけられた。さすがに有名私学、たいしたものである。一般の家庭とは逆に、私が日曜日が特に忙しい職業であることや、子供が3人ともこの学校にお世話になっていることをしっかりと把握しているのだ。私は、ずっと以前から、アメリカの幼稚園や小学校のように、子供を親が送り迎えできるように、公立学校にも父兄用の駐車スペースを設けるべきだと主張してきた。


ロンブロゾの謎

「ロンブロゾ!」この書き出しを一瞥(いちべつ)しだけで、この後の展開が予測できた人は最後まで読む必要はない。私と同じ感性の持ち主であるから…。また、たとえそこまでゆかなくとも、「ロォ〜ンブ ロゾォ〜!」と声に出して読んでみて、ある画面が頭の中に浮かんだら、その人は、少なくとも私と同じ時代に少年期を過ごした人であるに違いない。1967年にTVで放映されていた『黄金バット』(戦前の紙芝居ではない)で、悪の権化「ナゾー」が登場するときに必ず発する"呪文"のようなものである(厳密には、彼のフルネームがロンブロゾ・ナゾー博士というらしい)。このナゾーという謎の人物(?)は、それぞれ異なった色をした4つの目を持ち、左手はバルタン星人のようなニッパー型、下半身は小型円盤という、かなり変わった風采の悪の首魁であった。もっとも、「正義の味方」の黄金バットも、全身髑髏(ドクロ)姿の上に、いかに相手が悪人とはいえ、「アハハハハハハッ…」と笑いながら、これを退治(殺)していったのが、妙におかしかったが…。

 私は長年、この"呪文"の意味が気になっていたが、つい最近、癌治療で著名な外科医平岩正樹医師のエッセイ『手術室の独り言』を読んでいて、思いがけずこの"呪文"の意味を知った(同医師も、ずっと疑問に思っていたそうだ。他に、私が意味を知りたいと思っている"呪文"といえば、『魔法使いサリー』の「マハリク・マハリタ!」がある。どなたか意味をご存知の方があれば、教えていただきたい。音感からすると、サンスクリット語系のような気がするが…)。なんと、ロンブロゾは実在の人物だった。19世紀末のイタリアの犯罪学者だそうだ。「犯罪者には一定の外見上の特徴がある」と説く、いわゆる「犯罪者生来性説」である。今から百年ほど前(明治30年代)には、彼の学説はかなり多くの人から支持された。そう言えば、今でも、『水戸黄門』などの時代劇を見ていても、「悪役」の人は必ずと言って良いほど、登場した瞬間から「悪者」と判るような顔つきにメイクが仕立てられているではないか…。この説を実証するため、博士は、処刑された多くの犯罪者の頭蓋骨標本を集めて、その詳細部まで計測し、自説を実証しようとしたそうである。もちろん、顔つきと犯罪性向になんら相関があるとは考えられないから、ロンブロゾ博士は、フランケンシュタイン博士同様、現代の社会通念からすれば、ちょっと危ない「マッド・サイエンティスト(mad scientist)=き○がい博士」以外の何者でもないように思われるが…。

  ところが、この「き○がい博士」の説は、形を変えて、現在でも広く信じられているのである。ある意味では、百年前よりもはるかに普遍的、かつ、法制度としても公認されつつ自己増殖を繰り返しているのである。それは何かといえば、「犯罪者病人」説である。ロンブロゾ博士曰わく「心の病が人を犯罪へと導くのである」と…。本日(6月28日)、たまたま、「連続幼女誘拐殺人事件」の控訴審で、宮崎勤被告に対して、1審同様、死刑判決が下されたが、むしろこれは例外的な判決である。これらの猟奇事件が起こったときには必ずといってよいほど、「心神耗弱(喪失)状態にあった容疑者の責任能力の有無」が問題にされ、事実、この種の事件のうち9割までが、精神鑑定の結果「責任能力なし」と判定されて、不起訴処分となり、司法のネットワーク(裁判と、有罪の場合の刑罰)にひっかかりもせずに、「無罪放免」とされるのである。


▼世論に迎合して 宅間守容疑者をスケープゴートに

  しかし、よくよく考えてみると、この(心神耗弱状態)という発想そのものに無理がある。嘘だと思うのなら、自分が誰かを殺す場面を想像してみるがいい。夫婦喧嘩でも三角関係のもつれでもいい、ほとんどの人にとって、自分の目の前にいる人を刺し殺す瞬間は、激昂してわれを忘れ、必要以上に何十回も刺したりするではないか…。あるいは、正気に戻った時には、なぜか血みどろの出刃包丁を握っていて、目の前には死体が転がっていたとか…。これを心神耗弱状態と言わずに、なんと言うのか? 『ゴルゴ13』の主人公ような「殺し屋」でもなければ、クールに人なんて殺せるものではない。しかし、「普通の人」が誰かを殺せば「殺人犯」と呼ばれ、精神科に通院歴のある人が誰かを殺せば「責任能力なし」とされるのは、どうも合点がゆかない。殺しの瞬間は、どちらも同じような精神状態であると思われるからである。

  今回の大阪教育大学付属池田小学校の事件でも、事件発生後、半日くらいして、宅間守容疑者が「向精神薬を10回分1度に飲んだ」と伝えられた瞬間から、いくつかのTV局は、容疑者の顔にモザイク処理を施したりした。全人口の2%にも達しない精神病患者の重要犯罪に占める割合が、全放火事件の14.4%、全殺人事件の8.4%にものぼり、つまり、それだけ社会全体の安全にとって危険な因子になっているというのに…。もちろん、精神病患者の予防拘束などは、人権の点から見ても以ての外だが、さりとて、今回の宅間容疑者のごとき触法精神病患者が、まったく自由に歩き回ることを認めている以上、一般市民にとって、誰が危険な人物(重要犯罪を繰り返す可能性の高い人物)であるかということを知る権利があると思うのは、私だけではあるまい。

  今回の事件の一連の報道を見ていて、おかしいと思われるところは他にもあった。すなわち、事件発生後数日してから、また、報道のスタンスが一変したのである。宅間容疑者のこれまでの自己中心的行動が次々と明るみに出てくるや、マスコミは「今回、宅間容疑者のしでかした事件は、(罪を逃れるために)精神病患者を装っていただけ」という論調に一変した。これまで、こういった(精神病患者による)理不尽な殺人事件が起こるたびに、「人権! 人権!」と慎重な対応をファナティックに主張していた法務省当局、日弁連、精神病関係者(学会や患者の会等)、それにマスコミ各社などが、宅間容疑者ひとりをスケープゴートとして切り捨てにかかってきたのである。曰わく、「日頃からわれわれが主張しているように、心神耗弱状態の人には(刑事)責任能力はない。ただし、これを装った悪逆非道の宅間守の場合は別だ!」といった感じである。世間一般から澎湃(ほうはい)としてまき上がる「8人ものいたいけな子供たちを平然と刺し殺した"鬼畜"宅間守に極刑を!」という声に迎合しつつ、なおかつ、自分たちの既得権益(「心神耗弱状態の人には刑事責任能力はない」という教説)を守ろうという姿勢が見え見えである。


▼「水はただ」でなければならない

  最後に、今回の事件の背後にあるもののどこに、日本人論的(文明批評的)な要素があるのであろうか? 本論の最初に書いたこと(曰わく、「日本人は、昔から"水と安全はただ"と思って暮らしてきました」)に大いなるヒントが隠されている。戦後、一直線で"右肩上がり"で成長してきた日本経済が、天井を打とうとしていた1988〜89年にかけて、東京都と埼玉県で起きた宮崎勤被告の「連続幼女誘拐殺人事件」にわれわれは大きな衝撃を受けたことをご記憶のかたも多いだろう。宮崎被告は、ただ単に、見ず知らずの4人の少女を暴行の上に殺害しただけでなく、その一部始終を撮影したビデオテープや焼き殺した子供の遺骨を被害者の親御さんに送りつけたり、遺骨を食べたりするという異常行動を取ったのである。このような事件は、それまでには考えられなかった。

  世界的にも、「ベルリンの壁」崩壊に端を発する東欧社会主義圏のドミノ倒し的解体や、「バブル崩壊」に見られる市場経済の矛盾の露呈は、広範囲において「アノミー(anomie=規範秩序の崩壊)」状態をもたらせた。その後の日本社会が辿った道については、いまさら触れるまでもないだろう。「奇跡の戦後復興」を成し遂げたはずの経済は、「失われた10年」によって「第2の敗戦」という状態になってしまったし、東京の地下鉄で無差別殺人事件を起こした「オウム真理教事件」をはじめ、小学生がターゲットをなった須磨の「酒鬼薔薇聖斗」事件や伏見の「てるくはのる」事件など、もうとっくの昔に、「日本は世界一安全な社会である」という神話は崩壊してしまっているのである。

  私は、ここで奇妙な符合に気が付いた。そういえば、この頃(バブルのグルメブームが一世を風靡した頃)から、この国においても「瓶詰めされた水」をわざわざお金を出して買うようになったな、と…。1970年代の後半、私が初めて欧米へ出かけるようになった頃、一番驚いたことのひとつが、エビアンなどの瓶詰めされた水が、実際にビールやジュースよりも高価だったことである。ヨーロッパの河川は水質が悪く、水道水が飲めないというようなことを聞いたが、理屈では理解できたとしても、感覚ではどうしても納得しがたいものがあった。ところがどうだ。それから十数年もしないうちに、日本でも、「六甲のおいしい水」などと称してペットボトル入りの水が売られるようになった。近頃では、携帯電話同様、小さなペットボトルの水を持ち歩いている若者は多いし、本当に効果があるやらないやら訳の判らん「海洋深層水」なるものまで販売されている始末である。

  つまり、日本は「水と安全がただ」な国ではなくなったのである。逆説的な言い方をすれば、今日の閉塞的な日本の社会状況を打開するための切り札は、「安心してただの水が飲める国」にすることではないかとさえ思う。そういえば、その昔、『ひょっこりひょうたん島』の「海賊の巻」シリーズでこんな挿入歌があったのを鮮明に覚えている。「へい、ほほぅ、へい、ほほっ! きじるしキッドがいいました…」

 


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