高野連 何様のつもり
01年8月25日

レルネット主幹 三宅善信

▼自治体すら"指導"できる高野連

 今夏の第83回全国高等学校野球選手権大会で、西東京代表の日大三高(日本大学第三高等学校)が初優勝したことを記念して、地元の町田市が8月25日に予定していた祝賀会が、24日夜になって急遽、中止された。日本高校学校野球連盟(高野連)が「派手な行事は避けてほしい」と学校と市に対して指導したためである。町田市では会場を移し、優勝"祝賀"会ならぬ、優勝"報告"会を行うこととし、市の職員が市内各所に掲示されていた祝賀会の案内看板を慌ただしく書きかえるなど、深夜まで対応に追われた。中止の"指導"は、24日の夕方に、東京都高野連を通じて学校と町田市に伝えられたそうだ。

 東京都高野連によると、「優勝祝賀会などは校内で行い、"派手なことは避ける"というのが高野連の方針。市民祝賀会があるということを把握するのが遅れ、直前になっての"指導"となった」と説明している。連絡を受けた主催者側の市では、開催場所をJR町田駅前の商店街特設会場から、同市役所前の駐車場に変更。選手達が寺田和雄市長への優勝報告表敬訪問を行った時に、そのついでに簡単な報告会(祝賀会の言い換えに過ぎない)を開くことになった。町田市では、優勝を祝って商店街が計画した記念セールも、高野連の"指導"により中止したということになっている。同様の措置が、初めて決勝に進出し、惜しくも準優勝に終った滋賀県代表の近江高校についても通達された。

 しかし、このことは、よく考えてみれば矛盾を孕んでいる。高校野球の開催前あるいは開催中には、朝日新聞社と組んで大々的に高校野球のキャンペーンコマーシャルをやっている高野連が、大会が済むと同時に、そのような「囃し立てる行為はまかりならん」というのである。「自分たちがする囃し立て行為はOKで、第三者がする行為はまかりならん」というのは、論理的におかしいことはないだろうか? しかも、優勝した日大三高は、その名前が示す通り、一私学の高校である。ある私学がどのようなことを教育しようと、はっきり言ってその学校の勝手である。さらに、私学であるということは、地元の町田市立ではないということであり、町田市は高野連に対して、何の関係も、貸しも借りもないわけである。いわんや、近所の商店街が何をしようと、全く近所の商店街の勝手のはずである。これらの高校野球連盟に加盟している学校でもない地方自治体とか民間の団体企業に対して、高野連は、何を根拠にして"指導"する権利があるというのだ。高野連とは、いったい何様なのだ。また、町田市は、なぜこんなバカげた"指導"を唯々諾々として拝聴するのか?


▼田中康夫知事ですら拝聴する高野連の勅命

 実は、今回の高校野球選手権大会での高野連の"指導"は、この優勝祝賀会のことだけではない。長野県代表の塚原青雲高校の応援に、田中康夫長野県知事が駆け付けた時にトラブルが起きた。良い意味でも悪い意味でもトラブルメーカーである田中康夫氏が関わっていたので、大きく報道されたから、ご記憶の方も多いであろう。選挙目当てということもあるのか、地元の高校が甲子園に出場した時に、知事だの市長だの町長だのが、甲子園に応援に行くことはよくあることである。ただ、今度の場合は違った。田中康夫という、石原慎太郎と並んで超有名な知事が甲子園のスタンドに来たのである。しかも、田中知事はトレードマークの「やっしー」の着ぐるみと一緒に甲子園のスタンドに現れたのである。これに対して、高野連がいちゃもん(難癖)を付けたのである。

 田中康夫知事の趣味の善し悪しは別として、田中知事は"神聖な"県議会で答弁する時も、知事の襟元には「やっしー」の小さなぬいぐるみがトレードマークとして付けられている。県議会という公の場ですら認められている(地方議会の中には「服装規定」なるバカげた制度があるところが多い)田中知事のトレードマーク「やっしー」について(何度も言うようだが、私はあれは趣味が悪いと思うが)、何の権限があって、高野連が、田中知事が「やっしー」を連れて応援に来ることを拒む(注意する)権限があるというのだ。理由はまたいつもの通り、「高校野球の応援に相応(ふさわ)しくない」ということである。

 それでは、高校野球の応援に相応しい応援というのは、いったい何をもって相応しい応援といい、何をもって相応しくない応援というのか? すべてマニュアルに書かれ公表されているのか? それとも、その時その時の高野連のお手盛りで基準を決めるのか? そういえば、今春の選抜大会から、新たに"21世紀枠"なる訳の分からない基準を導入して、ますます自分たちの恣意性を高めてようとしていた。こんなもの、官僚のお手盛りか、もしくは戦前の軍部のように、「批判は許さない。基準は自分たちが作る」ということを通しているつもりなのか? だいいち、高校野球のスタンドには入場券を購入さえすれば、誰が入ってどんな応援をしてもいいはずだ。もちろん、公序良俗の範囲というものはあろう。素っ裸で応援するとか、焚き火をするとか、大音響を発するとか、常識的に考えて許されない行為というのはあるであろう。しかし、多少変わった服装(着ぐるみも含む)を着てこようが、髪の毛を変わった色に染めようが、そんなものお客の勝手である。


▼大政翼賛的メディア

 私は子供の頃からの高校野球廃止論者であるが、一時ほどの人気は落ちたとはいえ、ドーム球場全盛のご時勢に、この酷暑で連日35度を超える屋外で、運動するには熱中症が極めて危険だと言われるこのバカ暑い大阪の夏に、一日中、外で野球を(応援も)するなんてこと自体、正気の沙汰とは思えない。もしこれで、将来ある若者に事故があったらどうするつもりだ。誰が責任をとるつもりなんだ。私が学んだ高校は、関西有数の進学校だっただけでなくオリンピックの金メダリストを何人も輩出した文武両道の私学であるが、経営者が高野連の尊大な態度に平伏すのが嫌だったのか、あるいは、費用対効果の効率を考えたのか、決して野球部だけは創ろうとすらしなかったのは、今から思えば大いなる見識と言える。

 あの、どんなにマスコミに叩かれても、野党の議員に叩かれても平然と反論している田中知事ですら、高野連の大会本部から「部活動に相応しくない服装である」と注意されて、翌日、「今度は私らしく"しなやかに"応援したい」と述べたという。バカも休み休み言え! と言いたい。今大会の期間中(超高校級として)、この秋のドラフト会議の超目玉と言われる宮崎県日南学園の寺原隼人投手が、記者のインタビューに対して、意中のプロ野球球団を挙げたと受け取られるような報道が一部に出たことについて、高野連が注意したらしいが、このことだって、大きなお世話といえば大きなお世話である。まぁ、現在、寺原投手が高校野球連盟に加盟している日南学園の野球部に所属している選手であるということからすれば、そのことに対して高野連が口を差し挟むということは大目に見てやってもいいが…。

 ただ、公正な選挙によって選ばれた県知事や行政が責任を持ってする応援や祝賀行事に対して、私的な団体に過ぎない高野連が"指導"するなんてことは、そのこと自体あってはならないことであるし、また、その高野連のことを唯々諾々と聞き入れる長野県知事や町田市も間違っている。高野連や主催者の朝日新聞は、自分たちに都合のいいことは囃し立て、自分たちに都合の悪いことは鎮めようとする。まるで、戦前の軍部と、軍部の手先になって大政翼賛的に日本が戦争へ突入して行くことを、国民を煽り立てて後押したくせに、戦後は「平和」という言葉をなんとかのひとつ覚えみたいに唱えてきた新聞社の構造は全く変わっていない。


▼高校野球という鎮魂行事 

 2年前、私は『8月の鎮魂歌』という作品において、「甲子園の球児は、なぜ純情でなければならないのか?」ということについて考察した。そして、その中で、「高校野球は一種の"鎮魂"行事である」と結論づけた。したがって、同じ高校生のスポーツ大会でありながら、サッカー部の所属する全国大会(お正月に国立競技場で行われる大会)と、野球部の所属する全国大会とでは、選手の髪型から応援の仕方に至るまでまるっきり異なるアナクロニックな対応をしているということも述べた。その中では、選手の暴力事件や不純異性交友(死語だ)といったいわゆる不祥事は一切御法度だし、高野連からの"勅命"には皆、平身低頭してこれを聞き入れることを前提として成り立っている宗教行事だと言った。

 あの訳の解らない怒鳴り声の選手宣誓しかり。また、試合に負けたチームが、甲子園球場の土を有難がって袋に入れて持って帰る儀礼しかり。まさに、イスラム教におけるメッカ巡礼の如き精神の高揚を余儀なくさせる。全国一律(現在は、北海道と東京都だけは2枠)の県単位の出場枠というのも、何かかつての県単位で編成した徴兵制を連想させるものである。

 もちろん、宗教の世界では、この囃し立てたり、鎮めたり、ということによる「非日常的時空」の演出ということが、意識してかしなくてかは知らないが、これまで行われてきたことは事実である。たとえば、神道における祭。われわれ一般の市民が関わる部分というのは、だんじり祭りの山車曳きのような祭のどんちゃん騒ぎの部分だけであるが、普通、神道における祭の前には、神事に従事する人達の厳格な「物忌み」が行われた後、そのことによって蓄積された「聖なるエネルギー」を一気に爆発させるという形で祭が行われるのが一般的である。一般の参加者は、このエネルギーを分けてもらうために祭に参加するのである。この祭では、往々にして御神輿を乱暴に担いだり、御神輿同士をぶつけあったり、川に飛び込んだり、崖から物を落したり、一種の「憑きモノ」が付いたような行動を多くの人が行い、エネルギーを発散させる。


▼祭は、日常←→非日常の移動装置

 そして、その後は、「直会(なおらい)」という神人共食を行って、人々は日常の時空へと回帰し、静けさを取り戻してゆくのである。いわゆる「あとの祭」という状態になるのである。直会とは、まさしく非日常から日常への直りあいを表わしているのであろう。人が死んだ時に行われる一連の葬送儀礼、あるいはその後の会食等も、いわば日常と非日常とのスイッチの切替えの儀礼であった。先程の神道の祭と同様、このエネルギーの高揚感と、日常の閉塞的社会とは、実に上手く演出され、コントロールされて、繰り返し繰り返し行われてきた。しかも、これらの伝統的な祭は、同じコミュニティーに属する人たちの間の、共通の相互に了解されたルールの下において行われてきたのである。

 しかるに、現代における擬似的「祭」というものは、これと大きく異なる。まず、その祭に参加する人が、ある一定のコミュニティーの構成員だけでなく、全国民、あるいは全世界に対して開かれている。そのことは同時に、人々がその祭に対して「共通の認識というものを持っていない」ということを表わしているのである。オリンピックしかり、あるいはいろいろな世界的なイベントしかりである。しかし、また、この「共通の認識」を持たないがゆえに、祭の主催者は、事前に社会に対してこの祭のルールというものを明確に成文化した形で公表、周知、徹底せしめる義務がある。これをせず、「寄らむべし。知らしむべからず」といった官僚の様な態度を保持することによって自分たちの権威を守ろうとするのは、およそパブリックな立場とは言えない。何十年にもわたってこれを行っている団体が、他ならぬ「高野連(高野山ではない!)」なのである。読者の皆さんは、本件についてどう思われるか?


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