鶏林(ケリム)望見D -- 韓国人の歴史:「近代」を失い、奪われた「国民国家
01年09月24日
萬 遜樹



(五)朝鮮の近代、あるいは近代の中の朝鮮

▼王朝末期の朝鮮

 ようやく「近代」を叙述するところまで来たが、ここまで辛抱強くお読み頂いた方々はいかなるご感想をお持ちだろうか。ご憤慨の向きや初めて知って驚きをお覚えの方もいるだろう。先述の通り、前近代史とは「国民史」ではない。王朝史であり、それは文化を含めて、主として支配者たちの内外興亡史である(異質の両者を無理やりにつなごうとするのが「民族史」という神話である)。だから、統治に「成功」した王朝国家には、下克上や地方割拠などの社会変化は無用なのである。

 19世紀後半の段階での李朝について整理しておこう。まず改めて確認しておくが、日本が明治維新を果たした直後に出会った朝鮮とは、西欧諸国や日本が経験した「封建制」なぞを経ない「王朝国家」だった(中国も同じ)。言わば、後醍醐天皇の建武新政が成就して、再び律令王朝国家がそれからずっと続いていたような政治状態だったわけだ(誤解のないよう急いで付言しておくが、わが江戸時代と同様、政治停滞と社会進展の遅滞とは必ずしも並行するものではない)。

 次に、まもなく500年にも及ばんとする中央集権と文治主義であるが、これらは中央志向と地方分断、それに両班の急増と軍隊の弱小化を生み出していた。現在のソウルは一千万人以上が住む大都市で、韓国の全人口の実に25%を占めているが、これは李朝期からの延長なのである。また、他に比べ、ソウルでのホワイト・カラー(現在の「文官」)就業への集中も目立っている(注)。中央がすべてを決定していた李朝では、地方はそれぞれタテに中央につながり、つながろうとしていた。後ちにも触れるが、それが義兵の蜂起にまで貫かれ、ついにヨコに連帯した抵抗や独立運動にまで成長することができなかった。

(注)次に書くことからも含めて、韓国人には実業蔑視の傾向が今もある。特に自営的な商工業に就き続けることには心理的な抵抗があるらしい。日本的な「何代にも続く職人」なぞは侮蔑の対象であっても尊敬のそれにはならないのである。ある意味では、朝鮮人とは古代ギリシャ市民のように「働かざる人」である。

 また、両班でなければ仕官できない閉鎖性は、いつしか「自称」両班を急増させていた。17世紀までは総人口のせいぜい7%だったものが、19世紀後半期には49%にもなっていた。人口の半分が「支配階級」の国家なぞ前代未聞である。ただし、両班=任官ではなく、多くは仕官浪人であった。両班自身は他の生業に就いてはならず、それがためにまた任官をめぐっての中央までタテにつながる党争を激化させていたのだ。

 軍事力については本稿でも散見してきた通り、元来は隋を撃退した高句麗、唐を排除した新羅はもちろん、その後も結局は屈服したとは言え、最強のモンゴル帝国とも戦ってきた尚武の国である。しかし、国際安定と国内での文官優越主義は、武官や軍隊の軽視を極端にまで押し進め、日本を含めた近代欧米諸国に出会ったときには、最早、自力で国家防衛できる軍隊は存在しなかったと言うに等しい状態だった。それが「宗主国」清に、またある場合には日本やロシアに庇護や後見を求めなければならなかった理由である(注)。

(注)近年の、例えば金泳三政権が「文民政権」ということを強調したのは、「文民統治が正統政権」という李朝の歴史が国民の無意識的な受容の前提になっているからである。また、軍事軽視は現役政治家を含めた社会上層子弟の「兵役拒否」としていまも続く。

 本節ではもう一つだけ述べたい。それは「実学」である。形而上学たる朱子学に対して、制度論や技術論など経験的・実証的な「形而下学」たる学問の流れを言う。17世紀以降に盛んになり、開化運動の一つの源流となった。特に「北学派」(西洋人も出入りする清の都・北京から先進文物や技術を学ぶという主張から他称された)の実学者であった朴趾源(パクジウォン)の孫が、後述の朴珪寿(パクキュス)である。また、実学とは中人階級(実務官僚)の学問でもある。彼らは開化運動を媒介することになる。

▼以降のアウトライン

 ここで、これ以降の猫の目に変わる政局について見通しを与えておきたい。いくつかの軸がある。主軸になるのは、支配層内での「衛正斥邪」(尊華・鎖国攘夷)対「開化・独立」の流れであろうか。非支配層や地方では農民運動、農民を巻き込んだ地方儒生による義兵運動が起こり、中央上層へ錯綜した圧力が掛けられる。さらに、国外からは清と日本とロシアが当事者として李朝末期の王室を激しく動揺させ、それらすべてを他の欧米諸国が取り巻いて、朝鮮のためではなく自国権益のためにその動向を注意深く監視していた。

 鎖国攘夷策は1876年、日本への開国によって破れて、近代化への試行錯誤が始まる。しかし82年の旧軍反乱を機に、宗主国・清の干渉が強まり、頭越しに日清の相克が深まる。中央上層での政治闘争に農民闘争が加わり、「革命」情勢はいよいよ錯綜し、干渉者日清両国は勝手に戦争を始める。これを勝ち抜いた日本のやり口に対して、義兵が蜂起するが、統一行動にまでは至らない。一方、国王はロシア公使館へ逐電してしまう。自らの西方政策の貫徹にはもはやロシアを排除するしかないと腹を括った日本はロシアに戦争を挑み、ついに朝鮮(大韓)を併合してしまう。

 近代日本は確かに侵略者となってしまうが、初めから「狼」であったわけではない。津波のように押し寄せる欧米列強から、揺籃期にある近代日本をいかに守るかが至上命題であった。その一つが中国との宗属関係を断ち切った朝鮮の中立化あるいは友好国化であり、その前提として自国防衛のできるだけの近代化があった。最悪のシナリオは、中国にしたように欧米列強(とりわけロシア)が朝鮮を食いちぎってそこを軍事基地化し、その近接の地から日本に襲来することであった。西郷隆盛らの「征韓論」とはそういう焦りであった。

▼大院君の執政---「衛正斥邪」の時代

 1860年、第二次アヘン戦争とも呼ばれる対清侵略のアロー号戦争は、英仏軍が首都北京を占領し、屈辱条約を呑ませることで終結した。同年、ロシアが沿海州にまで進出し、朝鮮国境と接境した。また、フランスが策動するカトリック信仰の布教も盛んであり、言うまでもなくこれは侵略の尖兵として活動していた。しかし中央は外戚による勢道政治という腐敗の中にあった。63年、王家傍流の高宗(併合直前まで在位)が即位し、これで外戚がかわった。そしてこの国家的危機に際し、65年、王の父・興宣大院君が摂政に就く。

 大院君は「名君」であり、同時に「暗君」であった。大院君は、私的土地所有を拡げて農民を搾取していた腐敗両班と不良儒生の温床であり、各地に乱立していた書院を大整理し、民衆の喝采を浴びた。また、両班内の党派や出身地による差別を撤廃し、自らのための人材を抜擢した。それから、豊臣軍によって焼失したままであった王朝のシンボル景福宮の再建を、財政逼迫にもかかわらず、多くの人民を使役して強行した。間違ってはならない。これらはすべて王朝専制の復古政治であり、中央集権的君主制の強化であった。その方向で国難を乗り切れるという浅慮であった。

 対外政策にそれは明白となる。66年以降、カトリック教徒への大弾圧を始めた。9名のフランス人神父が処刑、8000人以上の信者が惨殺された(注1)。同年、アメリカのシャーマン号が通商を求めて平壌に、またフランス軍艦が報復に江華島に向かうが、それぞれを撃退する(注2)。これが「衛正斥邪」の思想である。正(=儒教)を衛(まも)り、邪(=異教)を斥(しりぞ)ける。中華の正統たる朝鮮を正としそれ以外を邪とし、華夷秩序を守ることである。ここから「攘夷」が出る。しかし、それ以上に致命的な問題は、客観情勢を峻拒している自己中心的な世界観である。

(注1)いまソウルの中心地に建つ明洞聖堂(カトリック教会)は、1897年5月の完成である。ちなみに「崇儒排仏」の李朝では、仏教僧侶は弾圧されてついには賤民扱いとなるが、17世紀前半からは漢城の都城内への出入りも禁止されていた。その撤廃措置は1895年のことである。
(注2)欧米列強の案外あっさりとした撤収は、他の戦略地域(例えば中国)に比べて緊急性と重要性を優先的には感じていなかったからである。しかし日本にとって「朝鮮問題」は戦略的に第一優先事項であった。

 近代化を進める「仮洋夷」日本の修好(開国)要求国書は、先述のようにその「華夷秩序」をはみ出す形式であるが故に拒否された。中国のみを「皇帝」とする華夷秩序では「天皇」は「日王」であったのだ(注)。そんな字句にこだわるようなことは止め、実を取った議論と政策を進めなければいけないと主張したのが、開化派の開国論者・朴珪寿である。にもかかわらず大院君は、朝鮮以上に混乱していてそれどころではない清に臣下の礼をとり、外交政策の指南を求めた。こうして大院君は朝鮮近代化の一機会を喪失してしまったのである。

(注)この「日王」という呼称は、「華夷秩序」とは無縁なはずの戦後も、そして表音文字ハングルが全盛となり「皇」の漢字を気にすることのない現在でも一部で続けられている。

▼日本による開国から清による再属国化まで

 1873年、大院君は王妃(閔妃)の外戚閔氏によって降板させられる。勢道政治の復活である。日本はこの機を捉えて、朝鮮に開国を迫る。東アジアにおける権益に対して多大の関心を持つアメリカは、シャーマン号以降も何度か開国要求を試みていたが、未だ達することが出来ずにいた。日本は「洋夷」アメリカの支持を得て、「ペリー提督の故知にならう朝鮮の平和的開国」に邁進する。事実、釜山や江華島への「砲艦外交」(砲撃)と、宗主国・清を牽制することによって日本は朝鮮の開国に成功するが、この考えは「倭夷」の「仮洋夷」への変貌と断じるに足る。一方の朝鮮は、旧知「倭夷」との近代的形式による「旧交」回復にすぎないと高を括っていた。

 76年、ともあれ開国した朝鮮は日本と清に外交使節や留学生や視察団を送り、情報収集を行なって近代化策を学び始めた。また、日本の要求で79年に釜山、80年に元山、遅れて83年には仁川(現在は国際空港がある)を開港する。閔氏一族は保身以外に主体的な国策をついに持たなかったが、政権は守旧派を抱えつつも、ひとまずは開化派主導でゆるゆると進み始めた。しかし、根本的には清への事大主義は続き、これは95年の日清戦争後の下関講和での宗属関係解消、さらに97年の「大韓」の「皇帝」宣言まで自ら克服できなかった。

 81年、旧軍から80名を選抜し、近代軍としての訓練を日本軍教官の下で始めた。このとき、国軍は旧式銃を持ったわずか二千数百名であった。82年、この新軍設置への危惧やこれまでの不満が旧軍兵士の中で爆発し、漢城で暴動を起こす。これに民衆や新軍までが呼応し、官庁や閔氏の屋敷、日本公使館を襲撃し、王宮に乱入した。壬午軍乱である。反乱軍は復古派の大院君を呼び戻し、摂政に復帰させた。これに日本は軍艦を繰り出し対処に乗り出すが、その前に、排除された閔氏政権が宗主国の清軍を王都に招き入れたのであった。

 清は暴動を鎮圧した後、大院君を天津に拉致・抑留し、閔氏政権を復活させる。清はその後も首都・漢城を軍事制圧し、さらに宗属関係を明記した近代的な通商条約を結ばせ、中国式の近代化に導いた(注)。ここに日本が意図した、朝鮮の清からの独立と日本主導の近代化策は頓挫する。一方、政界内では従来の「党争」ではない、初の近代的「政治的対立」が生起していた。これまで朝鮮の政治とは、開化派も含めて「王朝政治」の振れの範囲内にあったのだが、これに異を唱える政治的勢力「独立党」が登場したのだ。

(注)このときの駐朝大使は袁世凱である。なお、このあと欧米列強とも次々に修好条約が締結されていった。

▼独立党のクーデタ---政治の近代改革への試み

 独立党とは、金玉均(キムオッキュン)、朴泳孝(パクヨンヒョ)、徐光範(ソグアンボム)らを指す。ちなみに、事大開化(体制内改革)派にとどまった政治家には、金弘集(キムホンジプ)、金允植(キムユンシク)、魚允中(ヲユンジュン)らがいる。開化・独立党への流れは、実学に発する。前出の朴珪寿、また中人階級の実務官僚である劉鴻基(ユホンギ;医師)と呉慶錫(オギョンソク;訳官)らの薫陶を受けたサラブレッドたちが、独立党の金玉均や朴泳孝らである。なお、彼らは福沢諭吉にも直接、自主・独立の意義を教えられていた。

 84年、金玉均らはついにクーデタを決意する。日本の後援を期待していたが、対抗する清がベトナム問題でフランスと戦争中であったからだ。金玉均は後ちに決めつけられたような「日本党」ではなかった。英公使や米領事とも盛んに意見交換し、世界情勢を見極めている。欧米は、朝鮮半島へのロシア南下を清と日本が防ぎ、これを英以下が支援するという態勢を望んでいた。金玉均はこうした列強のバランスの中での中立独立を企図していた。事実、この時点で日本が朝鮮を単独支配できる力はなかった(注)。

(注)日本は、依然「眠れる獅子」と目されていた清との直接対決を慎重に回避していた。また、日清戦争勝利後も、三国干渉に従わねばならなかったように、半島周辺での日本のプレゼンスは列強には叶わぬ程度のものであった。

 日本公使の支援を受けながら守旧派の閔氏高官を殺害・排除した金玉均らは、新政治綱領を発表する。上からのブルジョア(近代市民)的政治改革であった。ところが、袁世凱ら率いる1300名の清軍がその日の午後には王宮に進入してきた。百余名の日本兵はなす術なく撤退し、王を清側に引き渡した朴泳教(パクヨンギョ)や洪英植(ホンヨンシク)らは清軍に殺害され、竹添日本公使を始め金玉均や朴泳孝らは漢城を脱出し、仁川を経て日本へ逃走した。これが甲申政変である(注)。

(注)以上(以下もそうだが)の相次ぐ政変劇は、日清両国や朝臣たちが全くの独断専行でしたことではない。ほとんど一々、たとえ形ばかりであろうとも王の裁可を仰ぎ、それに基づいての行動なのである。残念ながら、そこには微塵も叡慮(王として国の行く末を思う主体性)が見られない。もちろん、王を取り巻く閔氏一派については言うべき言葉を持たない。

 かくして自主独立改革路線の芽は、内外の「協働」によって摘まれた。事件は一応、日清両国軍が半島から撤退する痛み分けの天津条約(85年)で収拾された。すると閔氏一族は、今度は昨年に修好条約を結んだばかりのロシアに接近を始める。ロシアはアフガニスタンでイギリスと衝突していた。ロシアの東アジアへの南下を怖れる英軍は、半島南方の巨文島を占領し、これに備える。宗主国・清の李鴻章は、閔氏牽制に大院君を帰国させるとともに、朝鮮監視役として袁世凱を送り込んだ。時間は、清とロシア(91年シベリア鉄道建設に着手)のにらみ合いのまま推移していく。

▼甲午農民戦争と日清戦争

 甲申政変から自主独立へ向けてはほとんど無為の十年を経た1994年、金玉均は上海に渡航するが、そこで閔氏派刺客の手にかかり暗殺され、その死体も「親日派」(国賊の謂)として切り刻まれ晒されるという凌辱刑を受ける。その翌月、甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、その戦火は日清戦争に飛び火していく。

 東学とは、1860年に慶尚道慶州の没落両班・崔済愚(チェジュウ)が創始した天人一如を宗旨とした教えである。それは西学たる天主教は言うまでもなく、支配学たる儒学儒教をも異端とする、東国朝鮮農民のための「朝鮮教」であった。60年前後に高まっていた社会的危機感を受け、民衆的基盤に拠る啓示として立ち現れた。東学は武闘を否定したし、目指すところは身分制度を宗教的に止揚した平等社会の実現であった。しかし教祖は「左道乱正」というまさに儒学のみを正学とする異端の罪で64年に処刑された。これを第二代・崔時亭(チェシヒョン;二人は親子ではない)が受け継ぐ。

 異端であった東学農民は、地方官吏や悪徳両班から絶えず不当な収奪と迫害を受けていた。これへの抗議と教団合法化を求める集会を幹部が92年に開き、数千の農民が各地から参集した。次いで、王への直訴団が王宮に参じ、同時に日本他の各国公使館には「斥倭洋」の書が掛けられた。翌93年の集会には実に二万の農民が全国から参集した。そして集会はしだいに異国排斥運動への熱を高めていった。政府は集会に威圧と懐柔をもって臨み、解散を促していた。

 94年、全羅道一郡主の不当徴税に対して、怒り心頭に発した教団一幹部が一千名の農民を率いて郡衙(役所)を襲い、逃げ遅れた役人に懲罰を与えた上に、農民に武装させた。政府は特使を送り説得に当たらせるが、この対応に不満を持った農民がさらに蜂起し、一万名に膨れ上がった農民軍は政府軍800名を破り、全羅道都・全州を占領する。堪らず閔氏政権は清に鎮圧を要請するが、先の天津条約により、清とともに日本も軍を進めた。

 政府はここに農民軍の幣制改革案(一部反封建改革を含む税制法制改革要求)を容れて、両者に和約が成立し、農民軍の撤退が始まった。次は日清両軍である。しかし同時撤兵は日本によって拒否された。日本軍は居座り、朝鮮の政治改革を断固要求した。この十年は日本を変えていた。日本はある決意をもって、半島に出兵していたのである。改革への具体策は出ず、ついに日本軍は王宮を占拠、閔氏一派を追放、海軍が清と交戦を開始(日清戦争勃発)、大院君を執政に据えて金弘集内閣を成立させる。これがたった五日間の出来事である。

 日清戦争下、東学農民軍は「斥倭斥化」(日本と開化の拒絶)を掲げて第二次蜂起を起こすが、日本・政府連合軍によって掃討されてしまう。95年、日本の勝利に終わった戦争講和が下関で行なわれ、この条約第一条に清・朝の宗属関係の廃棄、すなわち朝鮮の自主独立が明記された。日本は長年の念願の一つをやっと叶えたわけだ。しかし皮肉なことに、この対清勝利において、かえって日本の半島政策の変質が露わになる。以後、日本は朝鮮の保護国化を進めていくのだ(注)。

(注)嘘だと思うだろうが、日清戦争中時点でも日本は朝鮮の保護国化の方向をあらかじめ決めていたわけではなかった。閣議記録によれば、陸奥外相提出の四案のうちの一つがそれであったが、政府として明確な選択は出来ていなかった。

▼甲午改革の挫折

 金弘集内閣は、96年に金弘集ら自身が民衆に打ち殺されるまで四度にわたり組閣された。94年からの、甲申政変を引き継ぐ一連の政治近代化への努力を甲午改革と称する。上手くいけば立憲君主制となるはずのものだったと思う。これが自主独立の最後のチャンスであった。しかし高宗を頂点とする守旧派の抵抗は大きく、第二次内閣には海外亡命中であった旧独立党の朴泳孝と徐光範を呼び寄せもするが、そこに三国干渉が起こり、日本の後退が余儀なくされる。遼東半島の返還は、代償としてロシアの進出を意味していた。

 第三次内閣ではロシア後援のもと、閔氏派が勢力を回復していた。またも手詰まりとなった日本政府は武官・三浦公使を送り込む。短絡に閔氏=閔妃としたのか、三浦は日本人グループを使嗾し、閔妃を殺害してしまう。ともあれ、閔氏派と親露派を排除した第四次内閣が成立する。このあと布告された政令の一つに断髪令(儒教に反する重大行為)もあった。ここに国母殺害と開化反対が結びついて、「衛正斥邪」を唱える地方儒生が農民を巻き込んで義兵として各地で立ち上がり、反日武力闘争となっていった。

 この情勢を見て、親露派はロシアと結託して高宗をロシア公使館へ遷した(ここから断髪令の中止も発せられた)。万事休す。金弘集は自ら望んで漢城街頭で、それに魚允中も打殺され、金允植は配流された。こうして、独立党は愚か開化派まで抹殺され、朝鮮の自主近代化は事実上ここに終焉した(無知からとは言え、自ら閉ざしたのだ)。ロシアの保護国化への道をよろよろと歩み始めた朝鮮では、開化派の流れをくんだ最後のともしびとでも言うべき『独立新聞』なるものが96年に発行され、独立協会が結成される(実はこの新聞による近代化運動は、福沢諭吉が支援した『漢城旬報』に始まる)。

 独立協会は甲午改革を継承する自主独立や近代改革を講演会等でも訴えて市民運動的な啓蒙活動を行なうが、そのような基盤のない一般民衆からは遊離した存在にすぎなかった。それでも彼らは、農民を巻き込んだ義兵運動を起こせる儒生たちとは決して手を組もうとしなかった(統一戦線の不在)。しかしながら、立場を問わず沸き上がる自主独立へのナショナリズムは王を動かして、97年には王宮への還御、さらに自ら「皇帝」となり「大韓帝国」の成立を宣したのであった。ここにようやく形の上では朝鮮は「独立国」となった。

 なお、政府批判を続けた独立協会は98年、弾圧によって壊滅するのであるが、その批判の一つとは王と政府がロシア公使館にあったとき、鉱山や鉄道といった国家利権を密かに欧米列強に売り飛ばしていたことに対してであった。日本は転売によってだが、そこから鉄道に関しては日露戦争までに三つの利権を得ている。京仁鉄道(漢城−仁川間、1900年開通)、京釜鉄道(漢城−釜山間、1904年開通)、京義鉄道(漢城−遼東へ通じる義州間、1905年開通)である。この三つの鉄道によって、日本はロシアと戦い、朝鮮を支配・併合するのである。

▼日露戦争から大韓併合まで

 98年、三国干渉の分け前が清から配分される。そのうち、ロシアは当の遼東半島で旅順・大連を租借する。別にイギリスは九竜半島等を租借している。1900年、義和団事件が起こり、列強連合軍がこれを鎮圧するが、その後もロシアだけは満州に四千の兵力を駐留させ、以後実質占領状態に入る。1902年、ロシア南下阻止で国益が一致した日英は軍事同盟を締結する。同年、シベリア鉄道が完成し、南進政策のインフラが整う。幾度かの直接交渉も決裂し、1904年、日本軍が旅順港内のロシア艦隊を攻撃し、日露戦争に突入する。

 戦争必至の段階(事実、その翌月に開戦)になって、朝鮮は「中立」を宣言した。これには日露両国はもちろん、アメリカも承認せず、日本は漢城に軍を進め、事実上保護国化を認めさせる議定書を調印させる。戦争は翌年の日本海海戦で日本の勝利で終わるが、その講和条約は米国大統領が仲介しポーツマスで結ばれた。実はこれは「出来レース」である。東アジア侵略に出遅れたアメリカは、朝鮮開国以来、自らの代行者・尖兵として日本の行動を承認・後援していたのである。この日本によるロシアの満州からの駆逐もアメリカが望む所であったのだ(注)。

(注)イギリスも日本による朝鮮の保護国化を承認していた。戦争後も、第二次同盟が継続された。ところが、この直後の満州鉄道共同経営問題から、満州地域における国益は相反するようになり、ついには日・米英戦争に至る。ここには、一つの戦争(国益の実力による争奪構図)が次の戦争(国益の対立構図)を招くという構造が如実に見て取れる。

 1905年、米英の支援を得た日本は戦争終結後、改めて保護条約を朝鮮と締結するが、そのやり方は朝鮮政府の閣僚一人一人に剣をもって迫り、呑ませるという異常なものであった。こうして韓国総監府が設置され、初代総監に伊藤博文が就任する。それに対して、最大の反日勢力である儒生が農民を組織し、またも義兵として立ち上がる。一方、愛国啓蒙運動と呼ばれる諸団体が独立協会を引き継ぐ国権回復活動を展開する。しかしその階級的限界性や党派性、その末路まで独立協会と同じだった。各団体は民衆からは遊離しており、また大同団結して統一戦線を生み出すことはないまま、弾圧されていった。

 1907年一月、日本公使館が総監府となり、三月には列強の駐韓公使は撤収する。六月、オランダ・ハーグで開催の「万国平和会議」に、高宗の密使が「日本による韓国の主権侵害」を訴えようと突如現れるが、議長国ロシアは外交権のない韓国人の出席を拒否した。日本は政府に抗議し、高宗は自ら退位し、七月に最後の純宗が即位する。さらに、保護国化をいっそう進める第三次協約が結ばれ、その秘密条項に基づき、八月からは大韓国軍の解散を行なった。

 反日義兵軍は旧軍兵を受け容れ、これと合流して運動は高揚期を迎える。日本側資料によれば、反乱は全国でのべ十四万名以上の兵力をもち、戦闘は2800回以上にわたった。対する日本軍は実は数千名程度だったが、義兵は地域党派ごとの小部隊で戦っており、各個撃破されていった。義兵もまた地域を越えたヨコへのつながりを持てず、大同団結は出来なかったのである。1907年、一度だけ一万名規模の義兵軍が漢城に迫ったことがあったが、そのときは総大将の父の訃報が入り、儒教に従う孝行息子は躊躇なく戦線を離脱し、服喪のため帰郷してしまった。

 さしもの反日義兵も1909年には日本側の掃討作戦によってしだいに退潮を迎えるが、それがテロ戦術に走らせ、前総監・伊藤博文は凶弾に倒れた。翌10年、日本は大韓帝国をついに併合する。もちろん「対等合邦」なぞではなく、吸収合併したのであった。大韓皇帝は再び「王」となり、大韓は「朝鮮」に戻った。総監府は朝鮮総督府となり、第三代総監改め総督には陸軍大臣兼務の寺内正毅が就き、駐在憲兵司令官であった明石元二郎(注)が警務総長となり、武断総督府が発足したのであった。

(注)この明石元二郎とは、日露戦争前夜のヨーロッパで日本勝利のためのあらゆる攪乱工作(例えば、レーニンを始めとする反ロシア帝政を標榜する政治集団やテロリストへの資金提供など)に当たってその勇名を馳せた同氏のことである。


(六)言葉足らずの終章

▼主は飼い犬に似ていき、やがて滅ぶ

 日本の「近代」を開いた明治政府の軍事を含んだ外交とは、こうして見ると「朝鮮問題」であったことが分かる。維新直後の開国国書や征韓論から始まり、その一つの結末である朝鮮併合が成った二年後に、明治時代は終焉するのである。犬は飼い主に似ると言われるが、逆もまた真ではないか。乱暴な喩えだが、大日本帝国の最期は大韓帝国のそれに似ている。自らを中華ならぬ「神国」と見なし、「大東亜共栄圏」という華夷秩序を夢見て、南蛮たる「鬼畜米英」を「洋夷」として戦っていた。

 朝鮮実学派の思想は言わば「和魂洋才」であるが、日本の近代化が欧米文物を採り入れることによって成ったことを忘れ、英語を「敵国語」と断じてその文化を学ぶことすら禁じるようになったとき、客観事実を無視した精神主義が生まれ、あるがままを直視できない独善主義の虜となってしまう。「仮洋夷(=欧米モドキ)になった近代日本も洋夷(=欧米)との矛盾の中で滅び、東アジアに禍を招くだろう」との儒者・柳麟錫(ユインソク)の予言は真実となったのである。李朝の弊はわが日本も犯した弊である。

▼三・一蜂起

 1919年、高宗が逝去するが、その死は日本人が毒殺したものだという噂がまことしやかに広まった。その葬礼が三月三日に挙行されることになっていたが、その二日前の三月一日、京城と名を改められた都市で「独立宣言書」が突如空高く舞い上がった。民衆は「独立万歳」の歓声を上げ、その声はたちまち全国に波及していった。朝鮮が始まって以来の、党派と地域を越えた全国民的な国権回復要求運動であった。初のナショナリズムの宣揚であったと言ってよい。

 この三・一蜂起には、これまでの運動すべてと、様々な改革に倒れた死者の魂が流れ込んでいる。朝鮮の諸戦線は、日本に併合されることによって、ようやく大同団結することが出来たのであった。遅かりし、あまりにも遅かりし…、と慚愧せねばなるまい。思想と、政治や現実は違うものである。しかし李朝の政治家=両班=儒学徒には、常に理論的正義(思想)しかなかった。彼らは決して卑怯者ではなく、頭の固い愚か者だったのだ。

▼失われたものを求めて

 実は、朝鮮(韓国)人にはいまも何もない。近代革命と自主独立はついに成らずに併合に至ったが、日本の敗戦、つまりは「光復」(=解放)も突然に天から降ってきた。亡国の中で「日本人」として連合国と戦った朝鮮に「戦勝国」の名は与えられることはなかった(サンフランシスコ講和条約にも参加していない)。その「独立」も他のアジア諸国と違い、アメリカやソ連を始めとする連合国がもたらしてくれたものだった。朝鮮の主権は未だ米ソの掌中にあった。国連による一時的な信託統治案が出るが、またも朝鮮の政治家たちは「正義」に固執してしまう。結果は南北国家の分立となり、さらに朝鮮戦争を招いてしまった。

 北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は李朝時代に逆戻りした「王朝」国家となってしまい、金首領への「孝」を第一としている。中国への「事大の礼」も続いていることはご承知の通りである。南朝鮮(大韓民国)では、高麗の一時期以来の軍人政権も経験したが、その恩(経済成長)も忘れ、いまは文民統治時代だと自画自賛している。政治的に中国を「宗主国」とできない韓国では、かつての「以小事大」ではなく「以大事小」がそれに取って代わって続いている。

 江戸時代、中華たる朝鮮から通信使が倭夷に使わされていたが、言わばこれをいまも続けているのである。「逆事大主義」とでも言うべき「反日」や「克日」こそ、中華たらねばならない韓国アイデンティティーのモノサシである。自ら「中心」であるためには必ず「周辺」が必要であるが、日本は韓国の現代的華夷秩序の「夷」なのである。韓国人にとって「失われたもの」とは「自主独立」であったはずだが、何も持てままの今、いつのまにか北朝鮮と同様に「王朝」を探そうとしているかに思われる(注)。

(注)韓国人によって記述された韓国史とは、韓国の現代的「華夷秩序」から見た世界の通時的解釈と言わざるを得ないだろう。そこでの日本の役割はいかに朝鮮が「中華」であったかという引き立て役あるいは悪役であり、いまもそうなのである。

▼エピローグ:1995年の風水

 1995年、韓国は光復五十周年を迎えた。記念すべき年だ。金泳三政権のときであったが、歴史の「立て直し」や「清算」を掲げて、政府事業として旧総督府の撤去や景福宮の復元などが始められた。そのうちの一つに「鉄杭除去」もあった。鉄杭とは、「日帝(注1)がわが民族精気を抹殺するために全国の名山のあちこちに鉄杭を打ち込んで地脈を断っ」ていたというもので、これを「1995年二月から全国で実態調査を行い、百十八本の鉄杭を確認し除去作業を行った」と、何と政府公式刊行物(注2)に載せてある。

(注1)「日帝」とは「日本帝国主義」という意味だろうが、韓国では略語ではなくてこのままで使われる固有名詞である。
(注2)『変化と改革---金泳三政府国政五年資料集』(全四巻。1997年12月発行)

 陰陽師系の魔人が地脈の竜の頭や尾を打ち、関東大震災を起こしたなぞという話などもある、荒俣宏氏の『帝都物語』を地で行く代物である。これがいまも韓国人に生き続けている風水地理説なのである。念のために申し上げておくが、除去された鉄杭とは山中での安全のための手すりや足場であったり、測量のための三角点設置に打ち込まれたものなどである。

 人間とは「科学」や「論理」ではない。日本人がある程度まで迷信の徒であるように、韓国人もそうであって何の不思議でもない。むしろ学ぶべきは韓国(朝鮮)人の民俗であろう。我流に言えば、「チョウセン民俗学」である。いまだ解決の光りさえ見えぬが、日韓の「歴史」問題も、そのままの歴史問題ではないことだけは確かである。


[主なネタ本]

『韓国の歴史/国定韓国高校歴史教科書』明石書店
金達寿『朝鮮』岩波新書
金両基『物語 韓国史』中公新書
岡田英弘『歴史とは何か』文春新書
姜在彦『近代朝鮮の思想』紀伊國屋新書(廃版) 未来社版  著作選版
姜在彦『ソウル』文春文庫
呉善花『韓国併合への道』文春新書
黒田勝弘『韓国人の歴史観』文春新書

(参考)

mjf-052 古代朝鮮・韓民族の形成とニッポン
mjf-055 「ニッポン」への道---「中国」というものと「朝鮮」という回廊

 


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