VOA(ボイス・オブ・アフガン
01年11月20日
萬 遜樹
 

 異文化人にとは言えども、同時代人によって自分たちの命を自ら捨ててまでも叩きつけたい憎悪を突きつけられたアメリカ人およびその同調者たちは、世界に対する倫理と責任について何か一つだけでも果たして学んだのであろうか。答えは「否」と言わざるを得ない。真実は意識的な言語として語られるものではない。それは無意識的に選択した行動にこそ密かに現れている。

 テレビ・ニュースの映像は、先週13日に北部同盟軍によって「解放」されたアフガンの首都カブールの喜びに満ちた人々を映し出している。タリバンに強要されていたというあごひげを剃り落とす男性、戒律のため全身を覆い隠していたブルカを脱ぎ捨てた女性、さらには禁じられていた音楽が流れされ、女性のブロマイド写真売り場に群がる人々が…。一方、進軍した北部同盟軍によって処刑されたタリバン兵の屍体を映し出すのも、もちろん忘れてはいない。

 これらの選択的な映像は何を物語っているのか。人間は見たいものしか見られない。アメリカ人はこのような映像を見たがっていたのだ。あやしげな異教の禁圧から解放され、自由を謳歌する人々を(ただし、アメリカによって教導されなければならない少し遅れた世界の人々を)。これらの映像は、否応なしに「アメリカ的な社会」の正しさを物語ってしまう。そして「われわれアメリカ人は正しかったのだ」と自己確認し、自己満足しているのだ。

 しかしながらこれらの映像は一つの事実ではあっても、ことのすべてやアフガン人のすべてでは決してない。そこをクローズアップ映像によって、他を包み隠してしまうのはアメリカ的な常套広報手法なのであるが、ここでは他の事実の存在にさえ気づかずにほとんど無意識的にカメラが向けられ放映されているのだろう。嗤うべきは、アメリカ人でもない者たちまでが無知の上塗りをして「わがことの喜び」としてこれらの映像を無批判に受け容れていることだ。

 カブールはアフガンでは特殊な町なのである。「禁断の果実」欧米文化を知ってしまった町なのだ。だから、ここの住民たちが「自由万歳!」と叫んでも少しの不思議もない。ただし、アフガン人のすべてがこうでは決してないのだ。カブールはアフガンの首都ではあっても、その国民の日常生活や価値観を代表するものではない。アフガン一般には「市民生活」なぞないのだから。(だから、カブール「市民」との呼称は間違いないが、アフガン「市民」とは何事か。ここにも「見る者の価値観」が如実に表明されている。)

 ハリウッド映画を観れば分かるのだが、アメリカ人はいかなる時代(太古〜SF)、どんな人種や民族であろうと、人間が本来的に希求する価値観は現代アメリカ人と同様であると考えている。そこからはずれる場合は、アメリカによって教導されなければならない、未文明の「野蛮」に留まっている人種や民族である。面白いことには、アメリカに対抗し得るほど「進化」した「敵」は、アメリカ的文明と価値観を熟知しており、その「悪」の立場にあえて立つ者たちである。そもそも、アメリカの決めつけるタリバン像は正しいのか。悪のテロリストとしての「ビン・ラディン」とは「アメリカ人」ではないのか。

 日本人がとても言えた義理ではないが、アメリカ人というものは異文化の「水平的=共時的」理解ができないのだ。「最高の宗教」であるキリスト教布教を旗印にアメリカ大陸になだれ込み、結局は「宗教的=文明的に遅れた」インディアンを殺戮や抑圧したヨーロッパ人は、キリスト教に基づく直線的な文明観を持っていた。マルクス主義もそうなのだが、彼らの考えでは、文明は進歩・発展するものであり、その頂点に立つものが欧米文明なのである。この近代文明観はいまも死んではいない。

 タリバンの全面崩壊が伝えられているが、アフガン人はアメリカによって「解放」されたのであろうか。実は、この命題自体が奇妙である。アメリカはタリバン政権の打倒をアフガン人から求められ、戦争を始めたわけではない。ご存知の通り、勝手に非戦闘員(国民)を巻き込んだ空爆を始めたのだ。確かにアフガン人はタリバンの禁欲的に過ぎる政策に苦しめられてはいただろう。しかしアメリカと北部同盟による「解放」とは何であろうか。

 タリバンとは、パキスタン系のイスラム私学校生による軍隊であり軍事政権である。要するに、青臭い堅物集団なのである。だからこそ、果てしない内戦を続けていた、いまは「北部同盟」を形成する諸派を排して、新興タリバンを国民が「支持」したのであった。アフガン国民はタリバンの言わば「成熟」をこそ期待していたのであり、「北部同盟」(まもなく解体せざるを得ないが)主導の新政権、ましてやアメリカの攻撃や干渉を望んでいたわけでは決してないはずだ。世界の現実は実に理不尽なものである。ビン・ラディンならずとも、爆弾の一つでも炸裂させてみたいものである。


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