映画『ラストサムライ』についての追記-
その批評は日本人のためのものであるか 
  04年01月11日
萬 遜樹


  映画『ラストサムライ』については、その後も多くの批評がインターネット上に寄せられている。しかし、なおも「日本人のための素晴らしい映画」という手放しの礼讃が目立つ。プロモーションサイドがこの線で広告し続けているのだから仕方がない面もあるが、できればもうご勘弁願いたいものだ。

  そんな中で、筆者がこれはと思う批評を見つけた。それは《アメリカの贖罪と救済―『ラスト・サムライ』の中の「インディアン」》と題して、中澤英雄東京大学教授が1月8日付けで「萬晩報」(よろずばんぽう)からリリースされたものである。これについてコメントしておきたい(なお、以下は筆者流の解釈なので、中澤氏ご自身の正確な意見はリンク先の元テキストをご覧あれ)。

  中澤氏はこの映画を、筆者と同じく「対インディアン戦争を描いたアメリカ映画」(かっこは引用ではない。以下同じ)と見る。そして、アメリカ人の観点に立って、『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(以下『ダンス』と略記)と対比させながら論じる。氏は、『ラストサムライ』には『ダンス』の視点を超える「インディアン文化」に対するアメリカ人の再評価が描かれていると考える。

 『ダンス』は、インディアンを「野蛮」視してきた、それまでの「西部劇」的な見方(騎兵隊が「文明」側)から、インディアン文化を対等の異文化として理解し共感する見方へとアメリカ人を解放した。そして『ラストサムライ』ではさらに、アメリカ文明への「インディアン」文化の優越を描いていると。つまり、アメリカ人は場所(日本)と「インディアン役」(「野蛮」=「最後の侍たち」)を置き替え、もう一度『ダンス』を作ったのだ。

  確かに、主人公オールグレンの記憶のフラッシュバックとして、執拗にインディアンたちへの虐殺が登場するし、オールグレンはインディアンの生活をノートに克明に記している。勝元らが「鉄道」を襲うのは日本人にはいぶかしいが、「これは西部劇だ」という示唆だと理解できればすぐに合点がゆく。それに、最後のシーンでオールグレンが武士村落(つまりインディアン部落)へ向かう姿(=インディアンへの同化)は、『ダンス』のラストを想起させるものだった(アメリカ人の対インディアン評価への1つの結論)。アメリカ人にとっての「インディアン」が隠されたテーマなのだ。[注]

[注]この映画を「テーマがわかりにくい」という人がいる。日本人としてはもっともな反応だ。「日本人をインディアンにした映画」だとわからなければ、何だかよくわからないだろう。

  この、「ラストサムライ」(最後の侍たち)とは実は置換された「インディアン」だったという鮮やかな解釈によって、なぜ武士村落がインディアン部落風だったのか、最後の決戦が西部劇風だったのか、西南戦争をモデルとしながらも実際の日本らしくない日本、ジャパニズムによる日本でよかったのかなど、もやもやしていたすべての謎が氷解するだろう(勝元らが、インディアンも使い、実際の反乱武士軍も用いた鉄砲を一切使わず、時代錯誤の戦国騎兵隊であるのもジャパニズムのなせる業である)

  もう1つ興味深かったのが、文中に「伝統と近代」を「精神と物質」に重ねる記述があったことだ。アメリカ人には自分たちが精神性を失っていて、むしろインディアンの方が精神性(映画ではそれが「武士道」に置換)が高かったのではないか、という反省があると。こう言われると、一部のアメリカ人と、アメリカ人と同様に精神性を失った日本人に、なるほどこの映画が評価されるわけだと大変よく納得できる。

 要するに、中澤氏も『ラストサムライ』は「アメリカ人によるアメリカ人のためのアメリカ映画」とおっしゃっているわけだ。この映画が屈折しているのは、インディアンへのトラウマを胸に秘めた主人公がそれを克服・昇華するためにわざわざ日本に来て、その地の「インディアン」たちとの体験を通して、初めてそれを実現する内面ドラマという設定にある。日本人には「日本」が全面に出過ぎていて、真のテーマが見えにくい。

  それがトム・クルーズ演じる主人公を表面から隠し、主役がまるで勝元(渡辺謙)のようだという日本人の見方を生んでいる。しかしそう言うのはこの映画が「アメリカ人のためのインディアン映画」なのだということを理解できていないということの表明なのだ。それにしても、中澤氏は慧眼である。アメリカ人以上にこのアメリカ映画を理解した一人だろう。だが残念ながら、誤解してこれを観るだろう日本人のための批評にはなっていない。

  中澤氏は、批評の最後に、映画のラスト近くの明治大帝のシーンを、日本へのメッセージ(平和的な自主独立のすすめ?)と読み込んでいるが、果たしてそれはどうか。たとえそうだとしても、それがこの映画を日本人が観る意味だろうか。結局、中澤氏は日本人がこの映画をどう観ればよいかは何も教えてくれない。私は日本人である。だからこそ、自ら感じた、この映画を礼讃する大勢の日本人との違和を表明したのだ。私には、そうした視点が中澤教授に代表されるような、日本の「国際人」や「インテリ」に欠落していることが残念でならない。私は安易なグローバリズムなぞ信じない。

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