夢と時間(3) カオスからコスモスへ
1999.7.18
丹下 学

我々が住む世界は様々である。耳をすませば世間の音、テレビの音や車の騒音、鳥たちのさえづり、おしゃべりする人々の声、挨拶での感謝やお詫び、お祝いのサウンド、工事現場の音などが飛び込んでくる。また、目を開けば、和服、洋服、フォーマル、カジュアルな黒髪、茶髪、白髪など老若男女の喜怒哀楽の表情、立ち並ぶビルや住居などや木々、川、畑とか道路、車や自動車が見えて来る。しかも、これらの音や景色は循環する季節(とき)に応じて、その姿(音の種類や色合い)を変えて行くようである。 時にその様々な音や色が喧嘩をしだす事がある。けんけんそうそうといおうか、物騒というべきか、乱雑な音を聞かされたり、聞かせる事もあったりする。一つ一つの音がそれぞれに自己主張して統一を見ない…・。また、色においても同様で、刺激的な原色を使ったビルの看板やネオンの怪しさ、何かピンボケな格好をした男女の姿などを見せたり、見させられたりしており、色と色とが相克して、仲良くならない。


カオスからコスモスへ

このようなことを以前思ったが、はじめになぜこんな事を言ったかといえば、いわゆる現代社会の無秩序、騒々しさ、つまり社会はカオス的な面々を音や色や線や形に持つ。それらははまさに濁流とでも言えそうなもので、このカオス的濁流は今、大きく大きくうなっているようにも思えるからである。世間で使われる「社会を泳ぐ」とか、「生き抜く」という言葉はそういった濁流の中にいて、その濁流に飲み込まれるな。との意味ではないかと思う。ところが我々は今、このカオスという化け物に飲み込まれて、おぼれてしまい、生きる感覚が麻痺してしまうのではないかという危機感さえ持つようになっている。見聞きするのも堪えがたい状況にあると言っても良いほどだ。

一方、我々現代人はそんなカオス的濁流しか認識出来ない訳でもない。四季折々に山に登れば、山鳥達の美しい鳴き声や山菜取りなどを楽しむ。あるいは海に足を運べば、海鳥に迎えられ、ひろがる水平線や、波の打つ姿に心は遠く開放される。大自然である聖らかな山や海の恩恵は我々の心身を豊かにしてくれるものなのだ。さらに田園のひろがる素朴な土地に夢を持ち、移り住む人もいるように山や海そして里には、我々が現代生活の中で見失い、忘れてしまったコスモスとも言えそうな"X"を想起させてくれるのも否定できまい。人々はこれをを理想といったり、夢と言ったり、なつかしさに似た感情といったり様々であるが、ここでは仮にコスモスとしておこう。 この"コスモス"と"カオス"については色々と意見もあろうが、私は両者の関係をあきらかにする事にポイントを置きたい。つまり、実体の無い"X"そのものを想起し、その表現をこの現実世界に見つけ出す事を第一にする。これについてはその方法として芸術からが一番良いように思われる。

なぜなら芸術を通して"X"を発見することが最も普遍的で高度な人間の営みの一つと信じるからである。個人の想起と、具体的表現としての芸術が共鳴する時、人々は"X"の存在を再確認するのである。私は、カオスからコスモスへの橋渡しになるところの芸術の使命に注目しているのである。

そう言うわけで、問題提起を二つ三つ試みたのである。


*日本の太鼓を感じる

はじめに日本の太鼓を一緒に聞く事で、太鼓のサウンドを通して、音の世界のカオスとコスモスをイメ−ジしてみることにしよう。 ドン!ドン!ドン!太鼓三打。セレモニーやフェスティバルでよく聞く事が出来る音である。無心なのか、何なのかわからない。しかし、その誠はとにかく腹に響く。そして不思議にもうるさくないのである。私は秀明太鼓"めい"の演奏をニューヨークで聞いたこともあるが、申し訳なくも、初めの一曲を残し、最後の曲まで気持ち良く寝てしまった。演奏終了後の観客の拍手喝采で目覚めるという経験をしたのだ。これは太鼓の音は心臓の鼓動に似ているとその後知ったが、それで目が覚める事もなくぐっすり眠れたのかもしれない。太鼓にはちょっと言葉では表現できない力があるようだ。 太鼓は木をくり抜いたり、合わせたりしたものに皮を張り、これを打つ。それだけである。強く打ちつける。弱くなめるように。乱れうち、なんとか打ちとバリエーションにも富んでいるらしい。また、小太鼓である締め太鼓と大太鼓とを組み合わせたり、竜笛とのの共演もあるようだ。 皆さんはどうであろうか?太鼓を打ったことが誰でも一度くらいあると思う。バチを握り締め、思いっきり打ったらとても気持ち良くすっきりするし、打った時のしびれるような感じと共鳴音・・太鼓の腹から空気を通して、皮に跳ね返ってくる感触とその音は単純な中に何か深く我々の心に飛び込んでくるものを"なんとなく"わかってくれると思う。 ご存じの通り、太鼓はリズム楽器でメロディーを持たないが、微妙な心の動きとでもいおうか、勢いとか安定、サインなどをストレートに表現できるのである。打つ人の無言の言葉なのであろう。その破裂音と共鳴音の入り混じった世界の浮き沈みに我々はノックダウンされる訳である。 このように人の手で作り出される太鼓の音の世界はシンプルかつ深いのであるが、カオスとコスモスを結びつける楽器と考えることはできないであろうか?


*バッハのオルガン曲を見る

次に音について音楽の父ともいわれるヨハン・セバスチャンバッハのオルガン曲を聴いてみることにする。

バッハ オルガン曲の傑作「パッサカリアとフーガ」である。この曲は題名でもわかるようにパッサカリアとフーガの二部に分けられる作品である。きわめて大まかに描写してみると、主題旋律は前奏であるパッサカリアでは低音部が詩的に悲しげに流れ、フーガに至るまで何回も起伏を繰り返し装飾されます。フーガに入ると二番目の主題に入り、一番目の主題の音階にペダルの低音とセカンドがそれぞれ交錯、主題どおしが応答し、力強くも繊細でシンプルな印象を与えてくれる。初めの主題である悲しげとも暗くとも感じられる音階のさわりがフーガとなって統一され、曲の最後に至ってはこうもドラマチックに力強く統一されて完結されるのは見事という他に言葉も無く、職人気質のドイツ人バッハの天才をみせつけられる思いだ。

私はパッサカリアとフーガという作品は、世の中のカオスとコスモスへの変化・転換を表現したものだと思っている。

また、曲全体から受けるイメージには何かキリストの昇天にも似た上昇感がある。悲しげな暗い一つの主題がパッサカリアでは展開して三つの音色がフーガというシステマチックに調和して統一され上昇する。この曲にキリストにまつわる物語性を感じるのは私だけであろうか?


*混沌から秩序を生み出す

枯れ山水画というのがある。墨絵はこの世を白と黒の濃淡で表した禅仏教に代表される絵画芸術である。京都大徳寺本坊に行くとその枯れた神仙の境地をよく表している襖絵に出会った。濃淡や枯れた雰囲気は微妙である。これなども神仙の住む世界をコスモスとして、その憧れが襖絵などのミクロコスモスとなったものであろう。また、本坊の庭にも一つのミクロコスモスを見つけることが出来る。庭の場合、憧れの山や海を自分の庭まで持ってくる。たとえば蓬莱山であったら蓬莱山を模した岩や松竹梅を。鶴亀であったら松とか岩とか。敷き詰められた小石は海を表しているとかである。また庭は無や空などの実体の無い念をも表しているという。こんなことは解説を受けなければ全然そんなことを思うこともないのであるが、庭自体にそういったコスモスを作り出す意図があるように思える。茶室であれば、コスモスである山や海の生活を茶室や茶庭にミクロコスモスとして具現させる。それによってコスモスの中に自分をおきたいのではなかろうか?あるいは仏の世界を庭を使って表現するためではないか。このように山水画にしても庭にしても,俗世間をカオスとしたら,寺にコスモスを招来するため の、あるいは具現化としてのミクロコスモスの意味を持つものだと思ったのである。


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