聖職について
1999.8.17
萬 遜樹

かつて、教師は聖職者か労働者かという論議があった。今ではずいぶん大人しくなっているが日教組という教員の労働組合があり、文部省とその出先機関としての地方教育委員会および校長・教頭と、何かれとなく激しく対立しあってきたものだ。

 それは賃金・休暇などの労働条件闘争であり、教育現場への管理権力の介入を阻む政治闘争であった。日教組の教員たちは教育の自由や学校の自治をかかげ、学校の民主的かつ自主的運営を主張し、校長の命令や指導をことあるごとに拒んだ。一方の文部省側は、教員は公務員であってストライキや命令違反などは認められないとした。

 日教組は戦前の教育の反省から生まれた団体だ。子どもたちをそして平和と民主主義を、権力の反動から守る最前線に立つ者として自らを位置づけてきた。

 何事にも動機と大義がありそれはそれらしく立派であるが、結果はしばしばそれにふさわしくないことになりがちである。学校はどうなったか。自治は確立できず無法地帯(あるいは強権地帯)となり、教員の労働者としての権利だけが守られた。

 その間、聖職者も労働者という言葉も、双方の都合のいいように解釈され用いられてきたが、いまでは誰も教師を聖職者だとは思っていないだろう。


 ここで教師の性格論を述べたいわけではない。時代と聖職についてこそ語りたい。聖職の現代的末路は独り教師ばかりのものではない。医師や僧侶についてもそうだろう。彼らも皆と変わらぬ労働者となってしまった。

 いまさら聖職者か労働者かとは詮ないことであろう。社会的な変化が職業の総労働者化を促してきた。これは社会の脱神話化や合理化と見合っている。しかし物事を合理的に考えることと、すべてを合理的に割り切れると考えることとは違う。教師などが聖職と呼ばれるのにはそれなりの理由がある。

 合理的な社会にも聖性は残さねばならないように、聖職性も残さねばならないはずだ。そもそも聖職者とは何か。原義は宗教に関わる文字通りの聖職者たちのことである。そこで宗教とは何かということになる。かつての宗教とは生活のすべてである。いまのように入信したり改宗したりするものではない。

 そして宗教者すなわち聖職者とは、病いを癒す医師であり、生き方を教える教師であった。人の生死の際には、神や仏とともにこれに立ち会う者であった。あらためて聖職とは何か。人の生死に関わる者の謂いである。

 こう言うと、いまとなっては医師が最もわかりやすいであろう。しかしかつては宗教者こそが医師であった。たとえば、イエスは悪霊による病気を追い祓う呪医師でもあった。

 そして人生や世界の真理つまり生き方の探求も、精神的な生き死にに関わる人の生命を懸けたものであった。その師となる知者こそが教師である。ソクラテス然り、仏陀然り、孔子然り。

 肉体的な救い(医療)や精神的な救い(生き方)を求める(こうした二元的な言い方自体がはなはだ近代的なものだが)患者や弟子たちに、週休2日や祝日はない。日本で言えば、正月や盆すらない。これに応ずる聖職者にも当然休日はない。365日、24時間、聖職者としてあらねばならない。それは休日を前提とした労働なぞでは決してない。これが聖職である。

 僧侶で言えば、その日本的仏教のあり方はともかく、供養や法要は第一の絶対の勤めでなければならない。親の死に目に会えずとも、子の葬儀をせずとも、仏法に応じた供養や法要は行なわねばならない。これが聖職である。

(役者や芸人、プロ・スポーツ選手たちも、私事より仕事を優先させねばならないようだが、彼らの仕事に人の生死との関わりはない。これによって聖職とは区別される。)


 聖職の復活を言いたいわけではない。聖職性についてこそ言いたい。聖職とは人の生と死に関わることであった。しかしいま、聖職性を守るべき者たちは生かすことばかりに腐心している。たとえば医師は延命治療や臓器移植など生かすことばかりに熱心である。生かして殺していないか。殺して生かすべき時はないのか。

 法律云々なぞと言わないでほしい。ここで述べていることは人間の聖性についてであり、これに関わる聖職の理論的可能性についてなのだから。

 聖職者とは時には生かす者であり、時には殺す者である。この二つを行なえて初めて聖職性をもつと言える。仏教世界に地獄がもしあるなら、地獄へも死者を送らねばならないのが僧侶である。極楽往生させるだけが仕事ではない。もしそうすることだけが仕事だとしたら、それは断じて労働である。

 同様に教師は子ども、いやすべての学ぶ者を善へと導くだけが仕事ではない。その学びを断つこともまたもう一つの重要な役割なのである。悪の教育の不在こそが現代の教育の不毛さの真因の一つではないだろうか。

 現代社会の形容に「死を隠蔽した社会」という言い方があるが、これは「悪を隠蔽した社会」でもある。ところが、世には死や悪こそが満ち満ちているではないか。労働者(それは私たちの日常的な姿である)が死や悪に目を背ける者なら、聖職者こそが生と死、善と悪双方に目を配る者でなければならない。そうしていかなる社会においても聖性を守る者たちこそが聖職者というものであろう。

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