宗教の成立と政教分離  
1999.10.11
萬 遜樹

「宗教」とは近代の概念である。そして「近代」とは西欧が生み出した時代である。したがって、ここでの宗教の成立とは西欧における宗教のそれを言う。近代とは詰まるところ、「個人」が成立した時代である。その個人が「信仰」を選び取るようになったとき、宗教は「宗教」となった。

▼中世において聖俗は分離され、聖性は教会へ蓄積された

 では、いかにしてその「個人」は成立したのか。西欧では中世を通じて、一神教であるキリスト教の普及によって聖俗分離が多いに進められてきた。それまで多神教的な風土の日常にあった神秘や怪異などの聖性は唯一神に集中させられ、教会の占有物となっていった。

 キリスト教受容以前の西欧人は、ケルト・ゲルマンの神話、すなわち民俗的な民族宗教を信奉していた。それはギリシャ・ローマ神話と変わらぬ多神教であり、聖性が日常至るところに宿る世界だ。日本の原宗教と同様、意識せぬ即自的な生活宗教と言ってよい。

 そこへ、フランク族のクロービス王の改宗を嚆矢に、キリスト教がゲルマン人の間に普及していく。それにしても西欧中世盛期におけるキリスト教権威の高まりは異常である。一神教であるということだけでは説明できない。

 西欧はいま「EU」という連合体となろうとしているが、これは運命なのである。管見によれば、西欧は音楽で言う「ポリフォニー」である。多声楽、複音楽などと訳されるが、民族・国家の多面体、複合体であることが西欧なのである。

 そのポリフォニーである西欧を支えてきたもの(通奏低音のごとき底板)がキリスト教であり、具体的にはカトリック教会であった。各ゲルマン民族、のちの各国は、教会に光を与えられることによって西欧における自らの位置を見出してきた。中世西欧における教会とはまさに権力(タテ軸)ではなく権威(ヨコ軸)であったと言えよう。

 しかしながら、中世教会の権威の高まりは権力へと転化せざるを得ない。こうして十字軍の提唱が可能となる。十字軍とは、聖地エルサレムやイベリヤ半島の奪還ばかりではない。西欧内部の異端に向けての十字軍、そして各人の内面を教会神父へ告解(懺悔)する義務も、同時代に展開された「聖なる運動」である。

 アルビジョワ異端などへの十字軍は、西欧内部に残存する多神教的な心性への攻撃である。これはルネサンス期に至るまで異端審問(魔女裁判)として継続・発展され、村々の神秘が唯一神(その代行者としての教会)へと集中されていく。また、「告解」(懺悔)は各人の「内面」を、つまりは「個人」の形成を促した。実は「恋愛」とは、こうした中で育まれた「個人」としての男女を前提にして初めて可能となった新しい秘蹟であり発明である。

▼宗教改革によって聖性は個人へ分配された

 以上のようにして教会へと聖性が蓄積されていくが、その爛熟した果実にルターとカルバンが『聖書』から取り出した精霊に満ちた鉄槌を振り下ろす。宗教改革である。宗教改革こそ、最終最大の「十字軍」であった。それは民俗的な神々を徹底して追放し去り、各人に内面の確立を断固として要請した。西欧は宗教改革という「革命」を通過することによって初めて、全西欧人が「個人」を確立する素地を得、一神教としてのキリスト教を本当に受け容れた。すなわち「信仰」を得たのだ。

 個人とは内面を持つ者のことだが、その内面とは「聖なるところ」である。それは教会に集積されてきた「聖性」が各人に分有され生まれたものである。これが個人の尊厳であり「人格」であり、のちの「人権」である。つまり西欧人は一人ひとりが「小さな神」となったのである。これを定式化したのがルネ・デカルトその人である。

 宗教改革とは因果なものである。教会を批判した者たちは「プロテスタント」(新教)と呼ばれたが、彼らこそが初めて、個人として自覚的に信仰を選び取った。そしてそれまで「世界教会」すなわち「カトリック」(旧教)と呼ばれた者たちも、これによって改めて自らの信仰を意識して選び取り直したのだ。

 つまり、宗教改革とは新旧両派にそれぞれ「会派としての教会」を分立させ、「会派としての宗教」を意識させた上で「信仰」を選び取る機会をもたらした。これが個人が信仰を選び取るものとしての「宗教」の成立である。そして宗教戦争は「会派としての宗教」を前提に起こる。

 ここで「国教」について触れておこう。国教とは、国がある宗教を「正統」と認め(そうでないものが「異端」)、この団体や信徒に政治的特権や資金的援助を与えることを言う。古くは古代ローマ帝国におけるキリスト教の国教化が有名である。しかし近代の国教制度はこれとは違う。近代西欧においては、特定の「会派・教会」およびその信徒に特権や援助を与えることを言うのだ。このことは現代の「政教分離」にも直結する重大事である。が、その前に宗教戦争だ。

▼宗教戦争から政教分離へ

 宗教改革後、フランスではカトリックを国教としていたが、カルバン派新教徒はユグノーと呼ばれた。少数派であるが有力なユグノーはカトリック教徒と対立を重ね、ついに争乱となる。ユグノー戦争(1562〜98年)である。これを収拾したのはアンリ4世が発したナント勅令であった。信仰(会派・教会の選択)の自由(差別を受けない)が保証された。つまり国教制度は破れたのである(ただし、のちに太陽王ルイ14世は勅令を破棄し、その自由はフランス革命の人権宣言まで留保された)。

 また、ドイツでは宗教改革の翌世紀に、三十年戦争(1618〜48年)という新旧両教を国教とする西欧国家間での宗教戦争が勃発する。敵味方は錯綜するが、30年の長きにわたって続き、結果として戦地となったドイツの荒廃と後退を招いた。ウェストファリアにおける和約で、新教国オランダとスイスの独立、ドイツ分封(国家内国家)として信仰の自由などが承認された(しかしある意味ではプロテスタントが国教となっただけとも言える)。

 最後にイギリスを見ておきたい。イギリスでは宗教改革として「英国教会」(アングリカン・チャーチ)が設立された。やはり宗教改革とは、そして信仰の自由とは、「会派・教会」の分立に他ならないのだ。ともあれイギリスは、英国教徒、カルバン派新教徒(清教徒・ピューリタン)、旧教徒(カトリック)が併存する国となる。国教の教会はその名の通り、英国教会である。

 エリザベス女王後、新教徒への国教強要が始まり、新大陸アメリカへの脱出などが図られる。国内ではついにピューリタン革命と呼ばれる内乱となり、共和制が樹立(1649年)されて新教が国教化される。1660年に王政が復活するが、同時に旧教の国教化が企図される。しかし名誉革命(1688年)と呼ばれた政治革命が起こり、それは「権利の章典」に結実し、信仰の自由をもたらした。ただし、イギリスには英国教会徒に政治的特権を与える「審査律」が長らく存続した。その廃止は実に1828年である。

 蛇足であるが、イギリスは「不文」憲法の国と言われる。しかし誤解してはいけない。それは「憲法」という形でまとめられていないということにすぎない。イギリスの実質的な憲法は次の3つの法典である。マグナ・カルタ(1215年)、権利の請願(1628年)、権利の章典(1689年)である。信仰の自由を含む基本的人権について書かれているのは「権利の章典」である。

 なお、アメリカ独立戦争も一種の宗教戦争であった。その米国では、1791年に政教分離と信仰の自由が世界で初めて憲法に成分化された。

 お分かりであろうか。宗教戦争は特定の「会派・教会」を国教とすることによって引き起こされた内乱なのである。西欧諸国はこうした経験を通して「政教分離」へと進んでいく。ようやく現代の政教分離について述べることができるところまでたどり着いた。

▼日本と欧米の政教分離は違う

 さて「政教分離」であるが、日本と欧米ではその枠組みがまったくと言ってよいほど違う。欧米諸国では、キリスト教(ユダヤ教を含めた『聖書』の一神教)が前提なのである。つまり、欧米で「特定の宗教」と言うとき、それが意味しているのは(主としてキリスト教の)「特定の会派・教会」のことなのである。ところが日本ではどうか。「宗教」そのものと「政治」との分離だと解釈するのが普通であろう。

 欧米では、宗教そのものは政治に密着しているのが常態である。米大統領は神に職務精励を誓うし、米国貨幣には「God」の文字が刻まれている。また、英国女王は今でもれっきとした英国教会の首長であり、重要祭事はその会派の教会・ウェストミンスター寺院で執り行なう。ドイツのある政党はキリスト教をはっきりと党是としている。

 「政教分離」とは何か。わが「日本国憲法」を引こう。

 (第20条 信教の自由、政教分離)

信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 (第89条 公の財産の支出・利用提供の制限)

 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

 ご承知のように「日本国憲法」は米国憲法他の「翻訳」である。それを非難したいのではない。欧米の政教分離の文脈で書かれたものであり、そのように読むべきもので、何も日本流に曲解することはないと言いたいだけだ。

 言うまでもなく、これは戦前の国家神道の排除を前提に書かれたものではある。別のところで述べたことだが、理屈の上では国家神道は「国教」ではなかった。しかし実質的には国教化されていた。何せ、神主は国家公務員だったくらいだから明白だ。これを非国教化さえすれば、欧米流の政教分離は完了なのである。

▼欧米の文脈を理解し日本の文脈で読み直そう

 日本での宗教環境は欧米とは異なっている。まず第一に、ほとんどの日本人にとって宗教(この場合は民俗神道)は意識して信仰として選択されたものではない。第二に、同一宗教、たとえば神道の中から会派や神社を選び取ることが重要事だなぞとは考えられてはいない。日本人にとって宗教の選択とは、神道、仏教、キリスト教、イスラム教などの選択をまず意味するだろう。

 だからこそ、神道のどの会派や神社であれ「神道」が政治に関われば、政教癒着として問題となるのだ。たとえば、公明党が創価学会の政治団体であっても、それだけでは何ら政教癒着ではない。公明党が第一党となり政権を握ってもそうだ。ここで創価学会徒にだけ特権や援助を与えたとき、初めて政教癒着=国教化なのである。したがって、日本人にとって最もなじみ深い神道で地鎮祭を行なうことなどは、政教分離上、まったく問題ない。ただし、参列形式などは強要してはならないが。

 日本人に、意識的な「宗教」がないことが問題を混乱させているのだ。では日本人が「宗教」を持てばよいのか。私は拒否する。私たち日本人は、日本人の文脈に合わない欧米の「文明」をそのまま受け容れようとしすぎてきたのだ。言わば、欧米産の洋服を着てだぶだぶなのを、自分の身体が小さいせいだと考え、一生懸命身体の方を大きくしようとしてきた。しかし見方を変えれば、服が大きすぎるだけのことである。私たちの身体に合った服を着ればよいのである。

 私たちの「宗教」は民俗神道である。それは言語矛盾だが、欧米文脈の「宗教」や「信仰」ではない。前半に記述してきたことから言えば、私たちには欧米文脈の「個人」や「内面」もない。私たち日本人は、欧米人には助けてもらえないのだ。私たち自身の知恵と力で日本人の文明と文化を切り開いていくしかない。


[補足]
 プロテスタント(新教)そのものが「会派・教会」ではない。まず、ルター派やカルバン派などに分かれるし、さらにバプチスト派、メソジスト派、クエーカー派など多くの会派・教会に分かれている。また、キリスト教の新派もあり、有名なモルモン教やエホバの証人などは米国生まれの新教派だ。

(参考)
 「アメリカと日本では違う「政教分離」」

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