ケープタウンで開催された万国宗教会議に参加して   
2000.3.17
丹下 学(旭川)

▼東洋と西洋 精神性の出会い

  出会いとは摩訶不思議なものです。ある出会いが運命を変えさせ、その出会いは幸せを導くことがあります。 人と人とのつながりというものは分からないもので、運命の糸にあやつられ、もてあそばれる人もいるのに、それを節として受け止め、ピンチがチャンスといったフィーリングを持つ人もいる訳ですね。人間一人一人全く違った感性、方向性を持っているのです。ある人はこのつながりを大切にして生きているし、またある人はさほど大切にしません。いろいろな季節(とき)に合せて人間はこのつながりを思い出したり忘れたり、大事にしたり粗末にしたりと様々なんですね。

  私はその出会いを今回は南アフリカ・ケープタウンに求めてみることにしました。過ぎ去った季節(とき)の彩りをかの地に見出す事は即ち、今日ここにいて、昨日と出会う事です。そしてそれは同時に明日との出会いでもあるから。


▼第3回万国宗教会議

  昨年12月1日から8日までかの地で万国宗教会議が行われました。西はイギリスやアメリカから、東はインドや日本からもやって来て、大会参加者は約7000人を数えたといいいます。大会ではマンデラ前大統領やダライ・ラマといった著名人をはじめ、さまざまな宗教・精神団体や学術団体に属する個人・グループなどがパフォーマンスやプレゼンテーションなどを行って、それぞれの伝統や文化の多様性を祝いあいました。


▼南アフリカ ケープタウン

  第3回会議が行われたケープタウンは喜望峰、ケープポイントという大西洋とインド洋の二つの海流 がぶつかるケープ半島からそれほど遠くはない所です。14世紀にはじまる大航海時代にはこのへんは嵐の岬と呼ばれていたらしく、船乗りたちに恐れられていたようで、この喜望峰を通ってインド航路を発見したバスコダ・ガマはアメリカ大陸を発見したコロンブスとともにその昔の英雄として多くの人に知られています。西洋から東洋へ至る海路の重要なポイントにあたっている訳で、雄大な冒険を志すのにはもってこいの場所と言えます。我々も喜望峰まで足を運び、そこから大きくゆるやかにひろがる水曲線や西洋と東洋がぶつかる事によって出来るのであろう渦を眺めながら、南極に向かって大航海時代の船乗り達の勇気を自分のものとしたいと祈念しました。ちなみにケープ半島は南極にも近いせいかペンギンやアザラシなども生息しています。他にダチョウのお肉は食べても美味しいし、この辺はワインも有名ですよ。

  ケープタウンはそのようなケープ半島の中心街で、マザーシティーとも呼ばれています。西洋からの南ア開発の最初の拠点になった所で、現在も南のアフリカの三つの首都の一つとして立法府(Parliament)が置かれています。ケープタウンにはまた、軍隊の駐在所があるオランダ式の城郭も残ってますが、ここは大会が開催されたケープテクニコン大学やオールド・シティホールなど数カ所のちょうど中心にあたる場所でもあります。背後に聳えるテーブル・マウンテンは海抜1067メートルの山で、その姿は特異でケープタウンのシンボルになっています。勿論、私もケーブルでこの山の平らなてっぺん?に登り、いろいろな宗教の人と共に太陽に向かって祝福の祈りを捧げさせて頂いたのです。さらにケープタウンから離れること北に11キロにあり、ネルソン・マンデラ前大統領らが政治犯としての18年もの長い囚人生活を送ったロベン島も印象深いの所の一つとして見逃せない観光スポットです。


▼南アの祝福 アパルトヘイト後の社会

  皆さん南アフリカといえばアパルトヘイト(人種隔離政策)を思い出しませんか? これについての詳しい実情は知らなくても、私もこの言葉だけは知っていました。で、実際、アフリカ到着初日、ヨハネス・ブルグからケープタウンの空港に降りて我々がそこから宿泊所となる大学寮にタクシーで向かった所、車窓からタウンシップと呼ばれる貧民屈を見ることが出来ました。また、ビルが立ち並ぶ都心部とテーブルマウンテンも遠望出来たのですが、そことは全然違うのです。なんとも言えない気持ちになりました。私は後日、このタウンシップと呼ばれる地区に訪問しましたが、そこで白人の居住者に会う事は出来ませんでした。

  人種によって居住区が分けられているのなんだか嫌な気分です。それが以前は法律で意図的に決められていたというのですから恐ろしいです。また帰国してから知りましたが、経営者と労働者も区別されていたようで、労働者が経営者になることは出来なかったということでした 。勿論ここでいう労働者とは白人を指しません。そうして参政権がなく、参政権のないやつが政治に口を出すとそれは即、犯罪となり悪人と言う事で、マンデラはじめ、ロベン島に島流しにあった多くの人々がいた訳です。白人を守る法律が、他の人々を苦しめたのですね。勿論、今ではアパルトヘイトは撤廃されたましたので、タウンシップには建設が徐々に進み、ワイン産地では黒人経営者が出始め、刑務所は観光地になったりもしていますから、よほど改善されたのも確かでしょう。


▼会議の歴史と意義

  万国宗教会議は今から100年以上前の1893(明治26)年にアメリカ・シカゴで初めて開催されたものです。この時代は日本のスピリチュアルな社会においても非常に大事な時期と重なっていて、非常に興味深いものがあります。私はこの時代は東洋と西洋の宗教のはじめての出会いと考えていますが、それはつまり地球規模での第一番目の転換期に当たるものなのです。1893年といえば20世紀を目前に控えた時代でもあり、日本もちょんまげ時代から近代化に進んでいた頃ですが、日本からも仏教や神道のリーダー数名がシカゴまでこの会議のために足を運んでいます。万国宗教会議がひとつのエポックメイキングとなったのは事実で、今日世界各地で活発になりつつある諸宗教協力のはしり、一番手になった訳です。しかし、第二回大会はなんとそれから100年後の1993年(日本、インド、アメリカ)に行われています。随分のんきな会議と思われましょうが、第一回会議が ”コロンブス新大陸発見400年記念博覧会 ”に合せて行われたのだから忘れられていたのもしようがないかもしれません。

  第1回と第2回大会との間には100年の空白が存在していますが、この空白の期間、二つの世界大戦が勃発し、この戦争によって唯物科学が目覚しい進歩をとげた結果、 今日見らるる如き物質中心主導の社会が形成されています。地球は狭くなったといわれますが、現代は飛行機やインターネットなどの交通、通信機器の発達によって100年前の世界とは大きな違いを見せていて変った物、変わらない物が明確に認識できたようです。つまり、現代は100年前より便利で快適な生活を送れるようになり、人類の理想はそちらの面では実現してきたようですが、それは同時に地球規模での根本的危機をも巻き起こす結果となりました。物質が満ち溢れる事によって起る諸問題が世界各地から報告されるようになったのです。特に物質が集まる都市には人種、人口、エネルギー問題など、病気、貧乏、争いが蔓延しさらに温暖化やオゾン層破壊にによる恐怖が迫ってきています。そうしてその近代都市の影がそれ以外の所に住む人間にも大きくさして、搾取や間接的殺人を無慈悲に行っているようにも見えるのです。

  これら根本的危機は物質文化のみが発達、先行し、精神文化が立ち遅れている事にその原因を見た訳です。第二回大会はそういった宗教の反省から東西の対話と言う事で、理解の場所、共通の場所というものが完成した背景もあって、100年前の出会いから今度は両者の理解や共通するもの、対話が出来るようになった訳です。これは何よりも、人種や国を超えた人間についての深い洞察を行うための物質的な基盤が出来あがった事を意味しています。両者は一致して進歩して行かなくてなりませんが、この破行的文化において見出されたもの、それがスピリチュアリィティ(spirituality)であったのです。

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