「日本の祭り」としての「忠臣蔵」
00年01月05日
萬 遜樹

 やはりどうしても「王」は殺されねばならないのか。つい先だって十字架にかけられたのは、大阪府の横山ノック知事だ。その罪の真偽は一般ニッポン人には推断不可能だが、ともあれ、彼は「王」として、言わば「火炙(あぶ)り」の刑に処せられたのだ。もとより言いたいことは、ノック知事についてではない。私たちには「罪」をある「王」にかぶせ、神に許しを乞うて来た伝統がある。「忠臣蔵」もそういう「王殺し」の物語の一つだ。

 先日、NHK大河ドラマの「忠臣蔵」が終了した。この最終回で当の大石内蔵助が、身分を隠した徳川綱吉に直接、今回の討入りの目的を述べる場面があった。いわく、討入りは幕府(時の綱吉政権)への批判であったと。確かにそうではあっただろう。しかしこの直截的な物言いは物語であることを越えて虚構である。どういう虚構なのか。近代あるいは現代から見える合理的すぎる物言いなのである。

 思えば、「迷信」は確かに迷信ではあるが、近代の合理主義で「迷信」を説明することはあまり意味をなさない。例えば、夜中に口笛を吹いてはいけない、魔物を呼び寄せるからと。合理的な説明としては、近所迷惑だからそう言ったのだということになる。また、爪を夜間に切れば親が早死にする(だから昼間に切りなさい)と言う。この合理的な説明としては、暗い所で爪を切ればあやまって指を傷つけることがあるからだと言える。

 人間とは徹頭徹尾「合理的な」生き物である。「理屈」に合わないことはしないし、考えない。前近代には前近代(当時に生きる人々にとっては「現代」)の論理があった。「迷信だ」とは、後代に言う屁理屈にすぎない。彼らには彼らなりの「合理的な」ものが確かに見えていた。同様に、私たちの「合理」も未来からは案外「迷信」であることを覚悟しておきべきだろう。

 それから「判官びいき」の近代的皮膜もはがしておこう。判官とは直接には源九郎判官義経のことだが、一般的には敗者へのひいきとされている。なぜ敗者がひいきされねばならないのだろうか。優しさか慈悲か。これらは近代的な反応と言わねばならない。判官びいきの真の意味は怨霊化への畏怖にあり、あらかじめの慰撫にある。

 さて「忠臣蔵」と言えば、江戸城は松の廊下から始まる。浅野内匠頭はなぜ吉良上野介を傷つけたのか。これが実はよくわからない。賄賂を強要されたとはあくまで俗説で浄瑠璃・歌舞伎上での合理的な説明である。勅使接待役を仰せつかった他の諸大名が、吉良上野介に対して特段の問題を起こしていないことから推察すると、むしろ問題は浅野内匠頭にある。彼の方こそが「異常」なのである。

 討入りの六年後には徳川綱吉が死亡している。丸谷才一氏によると、これは「六年殺し」である。怨みをこめた「三年殺し」は聞いたことがあろう。討入りは同様の「六年殺し」であったという。「王」は二重であり、第一に吉良上野介であり、第二に徳川綱吉であったということだ。「王」はなぜ殺されねばならなかったのか。

 いや、実はそれは結果である。浅野内匠頭の異常さこそが原因である。赤穂一国を賭さねばならなかったほどのパトス(怨念)の持ち主は恐れるに、また慰撫するに足る「神」であった。大石内蔵助以下、赤穂藩旧臣たちはあせったにちがいない。このままでは世に災いが降りかかることは必定であると。「御霊」の思想である。

 御霊神(祟り神)の代表は菅原道真である。彼の怒りは時の藤原政権を打ち砕くほどのものであった。災いは殿上人にとどまらない。日照り、台風、飢饉、地震、火災、疫病、そして悪政など、民衆の上に容赦なく襲いかかる。前君の慰撫は旧臣の責務である。その手段は「罪なき敵(かたき)」吉良上野介に仇討ちするしかない。

 カタキ討ち、つまり日本における復讐の意味は、ここにある。カタキへの憎しみであるとは近代合理的な解釈である。怨みを含んだ死者へカタキを捧げ物として贈ること、そうして慰撫することがカタキ討ちである。つまり怨霊神の祟りを避ける呪術がカタキ討ちという霊的行為なのである。

 しかしながら「忠臣蔵」は単純なカタキ討ちの物語ではない。考えてみれば、怨霊の祟りを避けて世の平安を守るとはすぐれて政治的行為である。かくして、討入りは霊的な「世直し」となり、生類憐みの令の綱吉公をも射程に収めてしまう。なぜなら「王」は、禍福をもたらす天の代理人であるはずだからだ。この世の厄災は「王」が天に信認されていない証拠である。そんな「王」は殺されてしまわねばならない(ノック知事のように)。

 これは「神聖王」「巫祝王」の思想である。天意(天気)をうかがい、過(あやま)たぬ政治をおこなうのが「王」の務めである。その政治とはマツリゴトであり、天候や自然をも含めて領導せねばならない。天変地異の多発など、もし過ちがあれば、天に許しを乞うため、その「罪」を背負わされ「王」は殺されねばならない。綱吉公は殺されるに値した。吉良上野介とは、綱吉公を呪い殺すための人形(ひとがた)・形代(かたしろ)でもあった。

 御霊信仰、王殺しと、時間を遡及しているが、さらに遡ろう。「忠臣蔵」のもう一側面は春祭りである。冬を打ち殺し、春を迎える呪術である。いったい討入りはなぜ雪の舞い散る冬になされるのか。吉良上野介の首は、内匠頭ばかりにではなく、春に捧げられたものではないのか。討入りは冬の「王」を斬首する物語でもある。陰陽五行のさかしら以前の、季節への信仰がここには秘められている。これが「忠臣蔵」の物語の最下層を成している。

 こうした重層的な「討入り」が「忠臣蔵」の物語である。浄瑠璃・歌舞伎として始まった「忠臣蔵」は、江戸時代以降も舞台を映画スクリーンやテレビ画面にかえながら、毎歳末上演され続けている。「忠臣蔵」は現代においてもなお、新春を迎えるにあたり、敗者の祟りを避け、新年の幸いを予祝する「日本の祭り」たり得続けているのである。


[主な典拠文献]

丸谷才一『忠臣蔵とは何か』講談社文芸文庫
フレーザー『金枝篇』岩波文庫

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