天皇は「神の国」の祭祀王
00年05月19日
三輪隆裕 (愛知県・清洲町 日吉神社宮司)
aao31130@syd.odn.ne.jp

 五月十五日の森総理大臣の発言について、神社界に身を置くものとして意見を申し述べたいと存じます。

 森総理大臣の発言で問題になっている「日本の国は天皇を中心としている神の国である」ということについて考えてみます。

 ここでいう神とは、一神教でいう全知全能の神ではなく、神道の神、日本の伝統的な神観念による《神》です。それは日本のくにの隅々に至るまであまねく存在している神であり、この神々をまつることによって私達は神々の恩恵を受け、豊かで平和な暮らしを得ることができます。万一神々に対するまつりを怠れば、様々の災いが私達の身に降りかかってくるのです。これが日本の伝統的な神観念であり、まずそれを理解することが必要です。

 天皇家は当初、日本の古代国家である大和国の王家として出現し、当時は祭政一致であったため、天皇は祭祀王、すなわち祭祀をつかさどる第一人者であると同時に政治システムの頂点に立つ国王でありました。歴史が進展するに従って、政治権力者としての天皇の地位は不完全なものとなり、鎌倉時代以降は建武の中興時代を例外として明治維新まで天皇は政治権力から遠ざけられていました。明治維新では天皇は再び国民国家日本の政治権力の頂点に据えられました。大東亜戦争終結後は政治権力から分離され、国家の名目的な代表である象徴の地位が与えられました。

 このように政治権力と天皇の関係は時代によって変化しましたが、一方、祭祀王としての天皇の地位は一貫して不変であり、現在もなお続いています。しかしもちろんこの天皇祭祀は日本の伝統である神社神道と不可分に結びついていますが、現在の政教分離・信教自由の憲法下にあって、すべての国民の信仰生活と結びつくものではありません。それゆえに天皇の祭祀行為は天皇家の私事として行われています。

 神社界は、日本の伝統宗教である神社への信仰を国民すべてが共有し、天皇はその精神的な中心となり、頂点に立つ司祭者として、国民とともに、あるいは国民を代表して神々をまつり、国家と国民の平安を祈る姿を理想としています。すなわち「日本は、天皇を中心とした神の国」であります。

 これは、神社神道の信仰の基本であり、森総理大臣は、神社神道の信者であり、ゆえに神道政治連盟国会議員懇談会に所属し、その記念パーテイの席上、信仰に根差した自己の信念を披瀝されたものと考えます。思想・信条の自由は憲法に保証された個人の人権に属するものであり、この表明自体になんら問題はないものと考えます。

 総理大臣であるがゆえに、憲法及びその他の法律を遵守し、それを否定するような発言を行ってはならないとしても、この発言は、祭祀王としての天皇の存在を根本としており、政治権力と天皇の結び付きを企図したものでないことから、国民主権の否定にあたるという指摘は誤っています。但し政教分離という観点からみれば、これは、神道の信仰を国民全体で共有したいという意図が存在しますので若干の問題は生ずるでしょう。

 しかし、日本文化の核ともいうべき伝統宗教の信仰を国民全体に広げたいと考えるのは、日本人としては一般的な捉え方ではないでしょうか。例えば伝統芸能である能楽を国民的な文化として定着させるために国立能楽堂を作ることは誰もが肯定するでしょう。しかし、洋の東西を問わず、文化とは本質的に宗教性を帯びているものであり、伝統文化の尊重は伝統宗教の尊重と分かち難いものです。更に言えば、神社界はこの神々への信仰を宗教の範疇に入るものとは考えていません。日本人として当然持たねばならぬ倫理ないし精神性であると考えています。神社神道が宗教と規定されるような現在の法律そのものを変えていかねばならないと考えているのです。このような私達の意見をよくご承知の森総理であるがゆえに「鎮守の森やお宮さんを中心にした教育改革を進める」、「神社中心に地域社会を栄えさせる」といった発言をなさったのであると考えます。ちなみに戦前においては、神道は宗教となされず国家・国民の本源性に基づくものとして取り扱われ、国民すべての倫理・信仰の核として存在していました。敗戦の結果、軍国主義的な精神性を生み出した土壌として神道が否定されたのはこの為です。

 現在の日本は、思想・信条・信教が自由の国であり、それゆえに上述しました神道的な考え方を理解できない人々もあるかと思います。この人々を啓蒙していくのが私達の使命でありますが、一方、多元的な価値の共存が現代の趨勢であるとするならば、国民全体に神道的な考え方を共有させようとすることには無理があるといえましょう。更に今後異国文化の中で育った人々が日本の社会に増え続けていくであろうことを考えると、公的な組織や機関をして神道的な考え方を広めていくことは抑制されなければならないでしょう。伝道を使命とする人々にとって、多元的な価値を認め、他の宗教の存在と布教を許容することは耐え難いことですが、それを理解しなければなりません。

 しかし一方、現代の青少年の非行の凶悪化を見るに付け、彼等の深い心の闇は信仰を持たない、教えられていない人々の心の闇ではないかと感じられます。人間の生きる意味を理解させ、強い倫理観を醸成するものは宗教に他なりません。しかし、戦後の日本では伝統宗教を維持してきた村落・家族・町内会等の伝統社会が解体し、また、公教育のなかでは政教分離の名のもとに宗教教育が排除されてきました。青少年が宗教に接する機会の無さが現在の青少年の問題を生んでいるとするならば、「神も仏も大事にしようと学校でも社会でも家庭でも言うことが日本の国の精神論から言えば一番大事なことなのではないか」という森総理の発言は、極めて正しいものと考えられます。ここでいう「神も仏も」とは普遍化すれば宗教全体を指すと思われますので、これは特定の宗教を擁護する発言ではありません。私達は神道の布教を通じて少しでも人々の心の闇を解消しようと努力していますが、これからは多くの宗教者が共同して人々の心の闇を取り除くことをしなければならないと考えます。そのような努力を通じて、多くの日本人が現在《宗教》というものに感じているまやかしやまがまがしさといった観念が払拭されていくと考えています。

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