「ルネッサンス人」秀吉と吉田神道
00年06月02日
萬 遜樹 
                          mansonge@geocities.co.jp
 豊臣秀吉は、怨霊神を除けば、神として祀られた初めての日本人である。彼は神式で葬儀を受け、豊国大明神として豊国神社に祀られた。この神号は、吉田兼倶(『徒然草』の兼好法師の同族子孫)が創唱した唯一宗源神道(吉田神道)に基づいている。吉田神道とは、本地垂迹説を逆転させて「神が本、仏が仮」とし、神道原理による宗教世界統一を企図した日本神学である。

 さて、秀吉が生きたこの時代は、日本史では戦国時代(室町時代後期)と呼ばれ、弥生時代以来の全国的な社会混乱期であった(環濠と山城がその共通の特徴)。弥生の争乱を経て古代日本国家が誕生していったように、戦国の争乱は以降現代に陸続する近代日本国家を産み落とした。日本史に断絶をあえて求むるならば、この時期がそれに当たる。

 世界史的に見れば、西欧では後期ルネッサンス・宗教改革・大航海の時代であり、インドではイスラムによるムガール帝国、中国ではやがて明に取って代わる金(後の清)が勃興している大変動の時代である。秀吉の一見奇矯とも思われる思想と行動も、この世界史的なうねりの中で捉えられなければならない。

 わが日本が属する東アジア世界は、文字通り「中国」を中心にして秩序づけられてきた。漢の倭奴国や邪馬台国冊封から聖徳太子の対隋対等外交、白村江の戦いから遣唐使とその廃止、再び足利義満の明入貢から秀吉や家康による独立外交(さらに付け加えるなら、日清戦争や日中戦争から国交回復と謝罪外交)まで、わが国は中華帝国への愛憎を繰り返してきた。

 中国史は中華漢民族と東夷・西戎・南蛮・北狄と蔑称された四囲異民族とによる王朝交替の歴史でもある。中華漢民族の宋を滅亡させたのは北狄たる蒙古民族であったが、再び漢民族の明が立つ。その明を倒したのは同じく北狄の女真民族(清)であったが、倒そうとしたのは東夷たる日本民族が先行した。これが秀吉の朝鮮出兵である。

 朝鮮は中華帝国からは東夷と蔑まれ、そこに隣接するが故にしばしば服属を強いられつつも、変転する中国王朝を超えてかえって中華文明を最も継承する民族と自負してきた。同じく東夷のわが日本は一海を隔てるが故にこそ、中国からの独立を現実に志向することができたと言えよう。古代においては『古事記』『日本書紀』の記述法がそれを如実に示している。この史観の礎を築いたのは聖徳太子だ。

 中華帝国からの独立あるいは対峙を志向する日本「帝国」は、常に朝鮮との関係の中にその具体的な姿を求めてきた。伝説の神功皇后の朝鮮遠征や三韓朝貢要求など、日本にとって朝鮮の意味は常に中国との問題であった。朝鮮民族は、陸続きの逃れられない地政の中で常に中華帝国の圧迫を受け、さらに日本の侵略をこうむってきた、東アジアにおけるポーランドである。言うまでもないが、近代史においてもこのことは繰り返され、日本は朝鮮を攻略した上で、中国へと軍を進めた。


 本題に入ろう。気宇壮大にして浅慮無謀な朝鮮出兵はいかにして可能となったのか。秀吉も時代の子であり、また思想は時代の申し子である。秀吉の同時代人に、新世界を制覇したスペイン王フェリペ2世や、その無敵艦隊を撃破したイギリス王エリザベス1世らがいる。絶対王政は中世的秩序を近代的に再編・再統合した国家メカニズムであるが、国家(再)統一のエネルギーは、国内統一後も持続・膨張し、ついに対外侵略となって現れるのが歴史の必然である。

 西欧で言えば、そのスペインはレコンキスタ(イスラム領となっていた国土をキリスト教国として回復すること)を完成したその年に、ちょうどコロンブスにアメリカ大陸を発見させている。国土回復はそのまま海外進出へと続いているわけだ。そして次々に国家再統一を終えた西欧は、競って海外植民地の獲得へと走っていった。フランス革命という再統合はナポレオンを皇帝にした全欧制覇の国民運動となっていったことはご承知のはずだ。また、新国家アメリカも南北戦争という国家再統一を経て、太平洋を越えての東洋植民地獲得へと本格的に乗り出した。

 中国でも同様で、秦・漢、隋・唐、元・明・清などは、分裂を乗り越え国家再統一が成れば、東夷・西戎・南蛮・北狄の「征伐」に向かった(ちなみに現代中国は分裂状態にある。台湾との統一が成った日には…?)。こういう流れの中でわが日本史を見てみると、統一を成し遂げた大和朝廷が朝鮮半島をうかがい、戦国時代を制した秀吉が出兵した意味も理解しやすい。なお、分封国家を近代的に再統合した明治日本がどうなったかはもう言うまい。

 ただ、秀吉は二つの意味で「ルネッサンス人」であった。ルネッサンスとは古代復興とされるが、それは中世的権威や伝統を超えていこうとすることである。秀吉は忘れられていた天皇を復興したが、同時に天皇や日本を超え出ようとしていた。彼の構想によれば、朝鮮半島から明に攻め入り、天皇を北京に遷御し、自らは浙江省沿岸の寧波(ニンポー)に居する。琉球、台湾、ルソン(フィリピン)も従え、次に天竺(インド)征服へ向かう。つまり、東アジアを中心にした世界帝国の建設を企図していたのである。

 実はヌルハチの金(清)も世界帝国をめざしていた。秀吉の失敗の後、金は朝鮮に二度攻め入り、これを属国とした。次に明を攻め、ついに中国を我がものとする。さらに、蒙古・チベット・西域まで女真帝国を拡大した。明攻略は東夷・秀吉と北狄・ヌルハチの競争でもあったのだ。

 秀吉のもう一つのルネッサンスは、日本復興であった。それは神道復活というのとは少し違い、世界における日本中心主義とでも言うべきものだ。彼は自分を「日の子」と信じていた。自ら、生まれたとき太陽が身体に飛び込んだと言っている。これは、自分は神と一体である、あるいは自分は神であると言っているに等しい言葉だ。この背景をなした日本復興のルネッサンス哲学こそが吉田神道であった。

 日の子とは日子、すなわち彦である。日は仏教では大日如来、神道では天照大神を連想させる。そして日の国、日本は日出づる国であり、これは聖徳太子の言葉を連想させる。ついでであるが、日本の宗教改革とは、鎌倉仏教という日本的咀嚼を受けて民衆に広く浸透した室町時代の出来事だろう。西欧でも宗教改革とは、キリスト教の個人への浸透を指す。

 吉田神道の兼倶は主著『唯一神道名法要集』で聖徳太子の秘伝と称して根本枝葉花実説を述べる。これは、根本が日本神道でありその枝葉が中国儒教として伸び、ついに花実としてインド仏教が実ったという話である(西漸)。そして次に、実の種は大地に落ちて、芽吹き枝葉を伸ばし、再び日本に還ってくる。これが仏教東漸だと説く。仏や菩薩は実は日本の神に基づいていたのである。

 秀吉はがちがちの神道主義者ではない。カトリック禁教についても「日本は神道と仏教の国だから」という言い方をしている。しかし、秀吉にははっきりと日本主義があった。それは神仏習合した日本主義である。そして、彼は兼倶が乗り移ったが如く、西漸サイクルにしたがって朝鮮から中国さらにインドをめざしたのである。

 その後の話であるが、徳川家康も神として祀られた。東照大権現である。これは天海の山王一実神道に基づいている。山王一実神道では、天台宗系の本地垂迹説を説く。吉田神道同様、神仏習合思想であるが、仏教優位である。秀吉の失敗を見て、守勢第一(北海道=蝦夷島と沖縄=琉球の堅め)と内政重視へと転換した家康および徳川政治の行方を読み取り、秀吉のハード日本主義路線の軌道修正を天海は試みた、と見るのが筆者の考えである。


[主な典拠文献]

尾藤正英『日本文化の歴史』岩波新書
西尾幹二『国民の歴史』産経新聞社
鎌田東二『神道とは何か』PHP新書
鎌田東二『神と仏の精神史』春秋社

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