「アキレスと亀」のパラドックスとしての現代欲望論
00年08月24日
萬 遜樹
mansonge@geocities.co.jp

 武闘する若者たちがいる。たとえば、夏祭りでケンカ騒ぎや警官たちと悶着を起こす「暴走族」諸君である。武闘することは彼らの欲望である。彼らの肉体が暴力を欲しているのだ。常識的な大人なら、スポーツでもして発散させろと言うだろう。しかしこの欲望はルールを破りたいのだ。

 現代社会においては、欲望は一分のスキもなくルールによってタガがはめられている。そのルールとは、法律や社会規範などばかりではない。資本主義の内でその欲望を消費すべしということでもある。暴走行為すら、この枠内にあることはお分かりだろう。経済の網の目からこぼれ落ちているのは、ケンカやいじめ、それに花鳥風月を和歌や俳句に詠むことくらいだろうか。おしゃべりという長年無料だった欲望も、電話および携帯電話の普及によって、ついに経済行為と化した。

 欲望は止めどなく加速させられている。慣性の法則に従うような等速度運動を続けることはできない。資本主義は「もっと…」や「より…」と、私たちの欲望を執拗に刺激している。それはモノばかりではなく、コトにおいてもだ。ニュース、情報、音楽なども、欲望を加速化し、私たちの金と生きる時間を食いつぶしていく。

 たとえば、あなたはひと月前、何がニュースで取り上げられていたか思い出せるだろうか。加速化された視聴者の欲望を満たすために、日本中を震撼させる大事件が次々と発生させられている。社会は堕落・崩壊し、経済は破綻・停滞し、政治は最悪・最低だとこき下ろされ、自然災害にも事欠かない。そう、今まさに日本は危機のまっただ中にあり、いまにも沈没しそうだ。

 シリーズとなった「衝撃の未成年凶悪犯罪もの」では、岡山県で高校生バット殴打殺人事件(しかも北海道への自転車逃走編付き)。頓死の小渕首相に替わった森首相の「神の国」発言など、最低政治ネタの小話と無能首相へのイチャモンいじめ。そして、雪印事件。これって、何かに似てはいまいか。常に各所に菌がいる。チェックしきれずに、時間切れで出荷する。賞味期限切れでも、視聴者にわからなければ再利用する。メディアそのものである。

 その他、衆議院選挙、三宅島噴火や伊豆諸島の群発地震、沖縄サミット、そごう救済騒動と倒産、広島と長崎の原爆式典…。これが「現実」なのか。かつての「公害」と同じく、報道が「存在」だ。ニュースで取り上げらればなければ、その「現実」は存在しないし、報道が表現したように存在するのだ。テレビニュースは日本人を欲望の「観客」として中毒させ、破壊している。

 そうしたニュースのすぐ前や後には何が流されているか。日本が沈没しそうな深刻なニュースとは打って替わっての、楽しくてわくわくするコマーシャルである。コマーシャルも一つの現実のはずだが、前後の現実とはまるで無関係である。そんなの当たり前だ、と言うのは簡単だ。しかし本当に当たり前なのか。筆者には、若者たちの「叛乱」の根がそんなところに潜んでいるように思われてならない。

 そのコマーシャルをよく見たことがあるだろうか。その「文法」を読んだことはあるだろうか。「もっと…」や「より…」のメッセージの連発である。一時、目に見えない形で潜在意識へコマーシャルの刷り込みがなされているのではないか、と話題になったことがある。が、そんなことは全く必要ないだろう。正面切ってのメッセージが催眠術のように流されているのだから。

 いわく、こんな美味しい食べ物ができました。こんな素晴らしい車が登場しました。こんな住み良い家があります。こんな便利なサービスを利用していますか。こんな素敵な旅行をしてみませんか。等々と、私たちの深層の欲望をぐりぐりと刺激している。

 誰でも「より」良いものを望み、「もっと」素敵な暮らしをしたいと願っている。各々のコマーシャルは「これこそは画期的なモノ・サービス!」と自画自賛しているが、本当にそうだろうか。「もっと…」や「より…」のパラドックスに陥ってはいないだろうか。

 日本社会の変貌はこの百年ほどの出来事である。日本列島の歴史は約一万二千年、そのうち縄文時代が約一万年である。この中で私たちはどれだけ果たして変わったのだろうか。確かに変わっては来たのだろうが、いまコマーシャルがしきりに提唱するように「もっと…」「より…」変わらねばならないのだろうか。

 現代の欲望の加速化は「アキレスと亀」のパラドックスである。古代ギリシャの哲学者ゼノンが考えた、あの英雄アキレスでもどうしても亀を追い越せないという不思議なパラドックスであるが、この矛盾は時間を無限に細分化することによって成立している。同様に「もっと…」や「より…」も、理屈の上ではいくらでも細分化できるのだ。

 ほんの少しでも「改善」されれば、それは「前進」なのである。その次は、その半分でも「改善」されれば、さらなる「前進」である。そしてさらにそのまた半分「改善」できれば、またまた「前進」なのである。アキレスの歩みと同じように、絶対的には「改善」も「前進」もその度に小さくなっていく。つまり「改善」も「前進」も、相対論、比較論にすぎない。

 ここで非常に重要なことを述べたい。時間についてである。「アキレスと亀」の競走は、当然アキレスが亀をすぐに追い越してしまうように、現実的には無意味である。しかし理屈の上ではこのパラドックスのごとく、立派に成り立ってしまうのだ。この非現実的なパラドックスの落とし穴に陥ってしまうのは、時間が無限に分割できるという理屈にあざむかれるところにある。

 理屈や理論では何でも可能だ。そこでは人間は不死でさえある。科学は、個々の人間の生死とは無関係であり、またそういう個々の生を超越しているからこそ科学なのであろう。それは反面、科学は個々の人間に生の意味なぞ教えてくれないことも意味する。科学にとっての時間は、無限に分割したり客観的に計測することが可能だ。しかし一人ひとりの人間には、現実のアキレスのように一瞬にして亀を追い越していくようにしか、時間を生きられない。

 私たちには、時間とは計ることができないものだ。時計で計った時間は科学の時間であり、生きている人間の時間ではない。生きている人間にとっての時間は「現在」があるだけである。過去はいま思ったり考えたりしている過去にすぎないし、未来も同様だ。生きている人間にとって、時間は分割したり計ったりできるような客観ではなく、生きていることそのものだ。

 テレビや映画は、生きた現実を一度切り取って再構成した、つまり編集された世界である。編集が可能になるのは、計れる時間においてである。もしお望みであれば、無限分割も可能である。そこでは「アキレスと亀」のパラドックスが成り立つ。だから欲望を無限に加速することもできる。しかしその欲望は、生きている人間を不死の人として扱い、アキレスのように絶対的には動けなくしてしまうだろう。私たちの生は、テレビや映画のように編集できない。

 武闘する若者たちは、生きているアキレスのように飛んだのだ。規制された欲望は、無限分割から編集されたルール通りにしか加速できない。そしてこの加速は実はパラドックスであり、現実的には詭弁だ。真の欲望は、計れない時間を生きることだ。無法な武闘を肯定するつもりはないが、資本主義に統制された「科学」的な欲望への敢えない一撃としては思わず評価したくなる。

 そうそう、音楽ついてひとこと述べておきたい。カーステレオやウォークマンに象徴されるように、いまや音楽は環境必需品である。宇多田ヒカルなどにより「Jポップ」と呼ばれる日本の供給側も良質で好調だ。しかし、日本人は音楽をどのように聴けているか。これは非常に重要な分岐である。もしもそれが時計の時間を満たすものであるなら、資本主義の欲望加速化の波に乗っているばかりではなく、パスカルの言う「人生の暇つぶし」であり、自分が生きているのではなく「科学」上の人間が時間を消費しているのだろう。

 時間は「消費」したとたん、自分だけの生きたものではなくなり、「貯蓄」すらできる客観的時間となる。時は金なり。この言葉通り、時間は貨幣のごとく計算可能なものに変貌する。それはもう自分の生ではなく、金によって生かされている「欲望」と言うべきではないだろうか。無音の時間を恐れ、音楽で満たしているとしたら、すでに無限分割の時間地獄をさまよっているのかも知れない。Zeit ist leben.

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