インテルメッツォ
00年09月24日
萬 遜樹 mansonge@geocities.co.jp

 「インテルメッツォ」とは、幕間劇や間奏曲という意味である。今回はそのような話である。では、何の幕間なのか。いま開催中のシドニー・オリンピックの、あるいは「日本人にとってスポーツ大会とは何か」というテーマのである。


 昨日(9月23日)、サッカー・決勝リーグに日本チーム登場の第1戦、対アメリカ戦が行なわれた。試合は2対2のまま延長戦に入ったが、これでも決着がつかず、ついにPK合戦の末、わずか1本差で惜しくも日本が敗れた。

 筆者も思わず力が入り、文字通り手に汗を握りながら、テレビ観戦していた。結果は仕方がないとは言え、大変に本当に残念である。

 日本サッカーは、確かに実力をつけてきている。それもあって、国際大会でのサッカー競技は、正に「運動会」種目の最後を飾る花である「対抗リレー競走」の様相を呈しつつあると言ってよいだろう。

 「ニッポン民俗学」前号でのくり返しになるが、日本の観客にとって「運動会」はスポーツではない。ましてや「対抗リレー競走」はスポーツではない。別の何かだ(それが何かはすでにそこで述べた)。

 今回の「敗因」分析はいかに行なわれるだろうか。興味津々だ。と言うのも、想像できるからである。当初は、冷静で客観的なスポーツ分析が行なわれるだろう。しかしその国民的「総括」は「次の2002年ワールドカップ大会でがんばろう」ということに帰着するに違いない。

 いや、これが間違っているなぞと言うつもりはない。むしろ、筆者もそう思う。問題は、この総括が何を語っているかである。日本人は何をどう解釈し自らを納得させるのかということである。

 おそらく、監督の判断や出場選手の個々のプレーについての「詮議」の後、こう結ばれるだろう。「日本チームには運がなかった。ついてなかった」と。これは何か。この試合が「神占」であったことを裏付ける思考なのである。

 勘違いをしないで頂きたい。年末・正月に行なわれる、例えば相撲での神占でも、負けたからといって、その村や町にことさら不幸が訪れるわけではない(もしも起これば、そのせいだということにはなるが)。

 そうではなく、第一には「運がない」つまり、神助はまだないので自力でがんばるしかないということである。ちなみに「ついてない」とは「神が憑いていない」という表現であって、日本人が神の「憑依」を待っていることを示している。実はこれが神占で「勝つ」という意味である。

 日本人はさらに、この神占の結果(敗北)をこう解釈する。これは「次回を待て」とのご神託、お告げであると。そのような思考は、今回念願の金メダルに輝いた田村亮子選手を巡っての私たちの思考に顕著に現れているだろう。私たちは好んで「報われた」という表現を使う。これは何か。その選手の努力に神が報う、ということである。

 日本の神は必ずしも公正ではないと思う。むしろ気まぐれだ。しかし私たちは辛抱強く、こんな神々につき合うしかないように思考している。つまり、日本人しているということだ。オリンピックの幕間にそんなことを思うのである。


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