ニッポンとは「梅干し」か、それとも「ラッキョウ」か
01年2月18日
萬 遜樹 mansonge@geocities.co.jp
(一)

 奇妙な題をつけたが、ニッポンと日本というものを問いたいのである。まず、この小論での用字についてお断りしておく。「日本」の語は、現在の日本国・日本人・日本語に連なるものを言うときに用いる。厳密に言えば、「日本」の成立は平安前期のことである。あえてその「中心」を取り出せば、それは「天皇」である。天皇こそが「日本」であると言ってもよい。次に「ニッポン」の語であるが、その「日本」を含んだ、より広義な概念として用いたい。例えば、「日本」成立以前の「ニッポン」列島とかとだ。

 「ニッポン=日本」ではない。森首相の「日本は昔から(日本の)天皇を中心とした(日本の)神の国である」との発言はトートロジー(同語反復)のように見えるが、現代日本人がよく起こす自己言及的な論理エラーの一つである(注)。この論理エラーを誰が普及させたのかというと、明治政府である。明治政府は王政(=天皇制)を復古させたが、それを武家政権以前の平安王政に止めずに、さらに遡らせて王政の始まりを初代神武天皇とし、その始原を紀記神話に接続したのであった。

(注)自己言及的な論理エラーとは、例えば、嘘つきが「私は嘘つきではない」と言ったとき、この言葉は真実であろうかそれとも嘘であろうか、というような判定不可能なパラドックスのことである。森首相の発言はそのまま受け取れば無意味である。「日本は日本だ」と言っているにすぎないからだ。しかしその含意は「嘘つき」に似て、「日本」は「ニッポン」とも取れ、その場合は「ニッポンは昔から日本だ」と言っていることになり、ニッポンと日本がすり替えられている。なお、「(日本の)天皇を中心とした(日本の)神の国」については後述する。

 戦後日本人はそういう神話に接合された歴史を否定し去ってきたはずであったが、「ニッポン=日本」とするのはひとり森首相ばかりではない。果たして幾人の日本人が、縄文(や弥生)「時代」を日本の歴史ではなく、ニッポンの歴史の中の出来事だと判別できているであろうか。「縄文時代=日本の古代」とするのは、むしろ現代日本人の常識ではないだろうか。これは、戦前の「神話時代」が「縄文時代」と入れ替わっただけで、実は「ニッポン=日本」の等式自体は、何ら変わらずにそっくりそのまま生き残っているものだと言ってよい。

 確かに縄文文化は天皇制とははっきり異質であり、どちらかと言えば、弥生文化の中から生まれ出たように思われる。しかし日本人の深層には縄文文化があると言われている限り、それも日本の文化でなければならない。つまり、ニッポンの縄文文化は日本の縄文文化となり、「ニッポン=日本」の論理エラーの呪縛が繰り返されるのである。この「ニッポン=日本」の等式が成り立っている限り、永久に日本人は「日本」を超え出ることはできない。これは論理的な帰結である。

 この論理についてもう少し説明しよう。日本人が、日本とは何か、日本人とは何か、日本語とは何か、というような問いを立てる。そのような問いは、当然、日本以前のニッポンに及ばざるを得ない。しかし結局そこに見出されるものとは何か。「ニッポンの中の日本」である。あとは道筋はともあれ、その日本がニッポンを覆っていく過程にすぎない。そしてその日本の中心は天皇である。かくして、天皇の歴史こそが日本国・日本人・日本語の歴史となる。天皇こそ日本人そのものなのである。。


(二)

 日本を、確定的な平安前期からもっと遡らせてみよう。「日本」と「天皇」を宣言し、紀記編纂を命じた天武天皇まではひとまず可能である。それ以前は「倭(ヤマト)」と「大王」の時代となる。それでも推古天皇・聖徳太子の時代を経て、何とか応神・仁徳それに雄略天皇の古墳時代中期(「倭の五王」の時代)まで、日本の始まりを仮に引き上げたとしよう。しかしここから先は真っ暗闇である。ちなみに応神天皇の母は、紀記に従えば神功皇后であり、それは『魏志倭人伝』の卑弥呼のことだとの声は多い。

 すなわち、四世紀をもって日本つまり大王(天皇)の確たる足跡は途絶えるのである。では何故に「ニッポンは昔から日本」であるのか。私たちの「失われた輪」(ミッシング・リング)に残された鍵は二つある。紀記と魏志倭人伝である。実はこれらの鍵を使った日本の始原探究は江戸時代に始まったばかりなのである(もう十分に長いとも言えるが)。倭人伝の邪馬台国を、わが北九州あるいは畿内にありとしたのは新井白石である(卑弥呼を神功皇后とした)。

 さらに本居宣長である。そして彼こそが「ニッポン=日本」の等式の定立者である。宣長は半生をかけた『古事記伝』で、『古事記』こそが「上の代の正実」を語るものであることを執拗に説く。ここに日本・日本人・日本語の始原があると強く述べたのである。なぜ古事記なのか。最古の書物であり、その序に太安万侶が稗田阿礼の口誦を書き記したものだとあったからだ。これこそが当時の和語(日本語)を最良に書き写し取ったものだと宣長は確信したのである。

 宣長が「和魂漢才」の意味を最終確定した。『うひ山ふみ』にこうある。「道を学ばんと心ざすともがらは、第一に漢意、儒意を、清く濯(すす)ぎ去て、やまと魂をかたくする事を、要とすべし」と。すなわち、外来の漢意(からごころ)を拭い去れば、日本人古来の「やまとごころ」が現れると。ここには、ニッポンには始めから日本人というものがいて、その後に中国の文明文化を吸収したのだということが立言されている。

 つまり、ニッポン人はそのまま日本人であったと。和語(やまとことば)も始めからあって、その文字のない口語を、漢字を用いて文語に写し取ったにすぎないと言うわけである。そして宣長に従えば、古事記に記されたことが真実の歴史なのだから、ニッポンには始めから日本の神々とその子孫である天皇がいたということになる。こうして「ニッポン=日本」の等式は完成する。

 宣長の等式の普及者は、前述のとおり明治政府である。明治政府は紀記編纂期の白鳳政権に似ている。ともに大変な対外緊張期の政権であった。もちろん単純な同一視はできないが、そこで求められたのは、外圧に耐え得る「日本という主体」であった。この列島が古来、日本国と日本人に属するという強い主張が求められていた。つまり「ニッポン=日本」の等式が求められていたのである。つなげないものをつなぐ冒険が明治に再び行なわれ、私たちは未だにその呪縛から抜け出せずにいる。


(三)

 ニッポンと日本を試みに分離・分解してみよう。まず、日本国だ。概括的な支配は、壬申の乱という統一戦争を勝ち抜いた天武政権のときに成ったと言ってもよいが、東北地方の過半を含めた列島の実効支配はせいぜい奈良時代以降であろう(注)。それまで東日本その他の遠地は、畿内ヤマト王権の植民地もしくはその傘下の分封国、つまり日本は実質的には連合国状態だったと言えよう。さらに時代を遡れば、ヤマト王権とは畿内の連合政権であり、一方では朝鮮半島南部との連合政権でもあっただろうし、その頃の関東・東北地方などは外国と言って差し支えないだろう。すなわち、ニッポン列島は始めから日本国では決してない。ニッポンは「日本列島」という枠組みを一度壊さなければ決して見えては来ない。

(注)中には一時的な国もあるが、薩摩(現鹿児島県西部)国は701年、出羽(でわ:現山形・秋田両県)国は712年、丹後(現京都府北部)・美作(みまさか:現岡山県北部)・大隅(おおすみ:現鹿児島県東部)国は713年、能登(現石川島県北部)・安房(あわ:現千葉県南部)・石城(いわき:現福島県西部)・岩代(いわしろ:現福島県東部)国は718年、諏訪(現長野県南部)国は721年の、それぞれ設置なのである。
 これらは広域地を分国して出来た国々であるが、その地の統治がこのとき実質的に有効なものとなりつつあったこと、それまではそうではなかったことを示しているだろう。
 そして陸奥国は征服途中で、724年の段階では現仙台市近くの多賀城に至っているところであった。なお、東北蝦夷の征服は鎌倉幕府創建の源頼朝によってようやく達成されたと見てよい。これが本来の「征夷大将軍」の意味だ。

 次に日本語の問題である。日本語は未だに解明されない言語である。これは何を意味しているのだろうか。起源を失うほどの諸言語の混淆に他ならない。つまり、それを担っていたニッポン人も出自はバラバラなものだったのであり、漢語(中国語)の助けを借りて、ようやく八世紀近くに統一言語としての日本語を形成するに至ったということだ(完成はさらに遅れる)。『古事記』や『万葉集』にはその苦闘の跡が残されている(『日本書紀』は漢文=中国語である)。

 先入観を正しておきたいが、少なくとも平安前期までは漢文(中国語)が日本の「真名」(公用語;「仮名」に対する語)であった。宣長が誤解、いや創作したのは、漢語に対応する「口語としての日本語」(訓読みとしての「やまとことば」)が始めからあり、それが仮名交じり文を可能にしたということだ。様々なニッポン語はあっただろうが、それらは未だ日本語ではなかった。

 日本語は中国語の漢字を用いるが、中国語と日本語は違う。しかし漢字仮名交じり文で古代中国語が理解できることから、中国語と日本語に対する誤解が日本人には深く染み込んでいる。これは、古代日本人(荻生徂徠によれば、それは吉備真備だ)があまりに上手く漢字書き下しの方法(漢文訓読法)を発明したせいだ。言うまでもなく、書き下し文とはどこまで行っても英文解釈同様の日本語翻訳にすぎない。音読みと訓読み(どちらも日本語)の違いで済む問題ではないのである。

 一方、両者の親和性はどこに由来するものかにも思いを致さねばならない。事実は転倒されている。日本語があったのではなく、漢語と漢文法に接することで、日本語は形成されたのである。実際、片仮名とは漢字の略字であり、平仮名とはその別字である。中国語とは異なる語順も、中国語と接することで整備されたと考えるべきだろう。無論、数多くの口語のニッポン語の語群とその文法は吐き捨てるほどあっただろう。しかしそれらの日本語への統合は、反応(リ・アクション)として生まれた。第一主体は中国にあったと言わざるを得ない。

 そして日本人についてである。民族は言語の担い手でもあるので、日本語の成立過程が日本人、いやニッポン人の姿を示しているのだろう。太古から考えれば、少なくとも三系統の流れを筆者は想定する。北(樺太・北海道および日本海経由)からのアルタイ・ツングース諸族、南(フィリピン・台湾・琉球経由)からのオーストロネシア諸族、西(中国江南・山東半島・朝鮮半島経由)からの倭族(広義の中国人)である。最後の西方ルートには、いわゆる漢民族そのものを含めてもよい。

 ニッポンの中核となったのは倭族である。文明度と人口数からもそうなる必然があった。それが「弥生文化」であると推測する。これは別に古代ニッポンに限ったことではないのだが、日本人も渡来人相互の混血の中から生まれたのだ。紀記に記される「渡来人」とは、到着が後か先かの違いにすぎない。事実、天孫ニニギ命や神武天皇も「渡来=天(海)下り」したと書かれているではないか。大きな渡来と混血は奈良時代まで続いた。つまり、この頃まで日本人というアイデンティティーは揺れて定まらなかったのである。


(四)

 ここで改めて、森首相の例の発言に戻ろう。「ニッポンは昔から(日本の)天皇を中心とした(日本の)神の国である」。果たしてそうだろうか。まず第一に、日本は成立以来、一貫して神仏習合の信仰を保持してきた国である。寺には社があり、宮には堂があった。そしてその「仏教」とはすべて、中国語に翻案された仏教原典に基づくものである。この「日中習合」は、日本というものの解明にとって実に暗示的である(ただし「中国」とは何か、という課題を克服せねばならないが)。

 古事記に依拠して「ニッポンは日本の神の国」という純神道を編み出したのは本居宣長であり、それを幕末の尊皇運動にまでつながるものとして咀嚼したのは平田篤胤である。しかし彼らの原典『古事記』(ふることぶみ)の神々とは、日本人にとって果たして何なのだろうか。その上巻は、古代豪族(すべて渡来人)が奉斎した神々の神名総覧物語である。誰が天照大神を知っていたであろうか。「天照大神」という漢字で書かれた神名とともに、その神は現れたのである。紀記とは日本の天皇と豪族たちのための神話(すべての神話は創作物語であり、かつ古い物語とは限らない)であったことを忘れてはならない。

 また、ニッポンには日本の神ではない神もいた。例えば、八世紀初頭の大隅国設置をめぐってヤマト王権が隼人族と戦っていたが、そこには隼人族の神がいた。それが石体宮(しゃくたいぐう)である。その神の地を奪って建てられたのが大隅正八幡宮(大隅国一の宮であり、明治の神仏分離で「鹿児島神宮」と改称)であった。ニッポンの神と日本の神の習合、つまり「神々習合」もあったということだ(八幡神は厳密には日本の神でもないのだが、ここでは割愛する)。

 さらに古事記そのものにまで、日本の神ではない外来の神が実は入っている。スサノヲ命の子神に大年神という神がいて、その神の子神(スサノヲ命の孫神に当たる)として二十柱の神名が書き記されているが、少なくともそのうち九神は朝鮮から来た神々である。韓(から)神、曽富理(そおり)神、白日(しらひ=新羅)神、聖(ひじり)神、奥津日子(おくつひこ)・比売(ひめ)神(二神はかまど神)、阿須波(あすは)神・波比岐(はひき)神・庭高津日(にわたかつ)神(三神は神楽の庭火神)。これらは朝鮮渡来の秦氏がもたらし、その童女たちが直接奉斎した神々である。


(五)

 「民族」というアイデンティティーは、言語(langue:ラング)によるものである。だから、その分裂は民族意識の分裂となる。ニッポンも日本語を形成・共有することによって日本人が形成されたのだ。端的に言っておくと、アイヌ語が日本語でないのならアイヌ人は日本人ではないし、古代の蝦夷や隼人とは日本語を共有することを拒んでいた「異」民族だったということだ。(日本語成立論と付録としての中国人論は、またの機会のお楽しみとして取っておこう。)

 日本語つまりは日本人成立の画期を成すものの一つとして『古今和歌集』があることは断言できる。かの紀貫之によって叙されたその序には「真名序」(漢文)と「仮名序」(和文)が仲良く並んでいる。その勅撰を命じたのは醍醐天皇である。天皇とは日本語の王に他ならない。日本語を「やまとことば」だと信ずることが、和歌を日本人と天皇に固有のものとし、また宣長が言ったように和歌を詠むことがニッポン人を日本人にする。宮中歌会が終焉を迎えるときに、日本はニッポンへと連れ戻されることになるのだろう。

 現代において最も日本らしいものとされている文化のほとんどは、室町時代に中国(当時は明朝)文化に対抗(反応)して出来たものである。日本庭園、華道、茶道、日本料理、日本舞踊、日本画、能と狂言などだ。現代日本語とのつながりという観点からも、現代日本人の精神はこの頃が始原である。平安以前の古代とは、古語と現代語との意味の相違の隔たりからも、いまの日本人とは隔絶した精神世界だと想像できるだろう。ましてや、日本と天皇の揺籃期と見なされがちな弥生時代とは…。

 そこで「邪馬台国」である。それを北九州にあったと主張する説は、皇国神話史観に対して歴史実証主義の「科学的」史観に属するように見えるが、予期に反してそれは国学派の思想なのである。どういうことか。中国皇帝の冊封王となった卑弥呼は、日本と天皇の系列とは異なると言いたいことがその趣意なのである。では、日本と天皇はどこにあったのか。ヤマトは大陸とは離れた畿内にあったというわけだ。この主張は本居宣長のものであり、日露戦争後、明治の白鳥庫吉が復活させた日本独立主体派の思想なのである。

 日本とは、ニッポンとニッポン列島を東アジア世界から「日本」という形に裁断してくり抜き、「ニッポン=日本」という枠組みを固定してしまう言葉なのである。そこから固有性や主体性、さらには特殊性や超絶主義(ウルトラ・ナショナリズム)が絶えず再生産されている。しかし、その日本を象徴する「天皇」という漢字そのものが、「昔から」中国とその皇帝に対抗しようとして生み出されてきた「日本」の東アジア性をかえって暴露している。

 明治政府が明治天皇とともに、社会契約説に基づく近代立憲君主国家を築き損なったのは、近代東アジア世界で欧米諸国に伍する「一国近代国家」を形成・維持しなければならなかったせいだ。過去を虚心坦懐に見つめ直そうという努力はなされたが、これを全うできるだけの余裕はなく、いま現在の既成事実だけに基づいて社会進化論的、事大主義的な歴史観を、すなわち日本と天皇のための新たな紀記を再生産せなばならなかった。近代日本人(そして戦後歴史学も!)は、日本をニッポンという普遍性へと解放・開放することを選ばなかったのだ。

 古代ニッポンの実態は、汎東アジアへと解放・開放されている。縄文時代も弥生時代も決して孤立した日本列島だけの歴史なのではない。それらは実に、中国大陸、朝鮮半島、日本海北岸、北海道・樺太、また琉球や台湾などともつながった東アジアの中のニッポン列島の歴史なのである。そういう意味で、邪馬台国は日本にはなかった、と言える。国家や民族とは人間が絶えず生み出し続ける幻想である。それは言語によって生じる。日本という共同幻想を私たちは生きている。


(あとがき)
 本稿は、筆者による一連の日本探究の一つの結論かと思われる。日本語がその鍵を握っている。その日本語については稿を改めて述べてみたい。それから、一連の拙論の読者の方ならご了解頂けると思うが、本稿は日本人を決して貶めるものではない。また天皇を蔑ろにせんとするものでも無論ない。私たちの明治国家自身が闡明しようと一度は試みたが、状況がこれを許さず成し得なかったことをちらりと代弁してみたにすぎない。それにしても指弾すべきは、いまも「ニッポン=日本」史観をのうのうと継承し、恥じることなく再生産し垂れ流し続ける日本歴史学である。


[主な典拠文献]

石川九楊「本居宣長から疑え」(『中央公論』2001年2月号)
子安宣邦『宣長問題とは何か』ちくま学芸文庫
小路田泰直『「邪馬台国」と日本人』平凡社新書
大和岩雄「秦氏は『古事記』に関与している」(『秦氏の研究』所収)大和書房


戻る