フィクションのフィクションのフィクションの・・・。

永原 順子 京都大学大学院人間・環境学研究科 D3
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今、高校で国語を教えているが、避けては通れないものに『源氏』がある。「桐壷」や「須磨」はその文章の見事さで有名であるが、『源氏』はそれだけではない、と感じてほしくて、かの六条御息所にまつわる話、「夕顔」「葵」を取り扱ってみた。前の『雨月物語』と同様、もののけに対して彼等は非常にいい反応を示した。しかし今回のねらいはそれだけではなく、能の『葵上』を見せることにもあった。

題名が『葵上』であるといってもシテは六条御息所。彼女は源氏をとられた悔しさを正妻の葵上に心ならずもぶつけてしまう、薄幸の未亡人(元皇太子妃)だ。葵上は舞台の正面に置かれる着物に象徴されるのみである。葵上にとりついているらしい物の怪をはらおうとする祈祷が続く中、六条御息所の霊が現れ、さんざんに葵上を苦しめたあげく、今度は鬼の姿となって葵上をとり殺そうとするのだが、聖(ひじり:修行僧)に祈りふせられて成仏するという筋だ。彼等の反応は思ったよりもよかった。特に御息所が着物に対して激しい執着を見せる場面や、御息所と聖との対決の場面等にはらはらしていたようである。

 この『葵上』では、六条御息所は“成仏”してしまうが、原作では御存じの通りそんなことはない。自分の押さえきれない嫉妬の心に苛まれ、京都を離れる決心をし、斎宮となる娘につきそって伊勢へ向かうのである。もちろん、聖との対決などというものはない。はっきりとした霊的現象は、御息所が葵上をいたぶっている夢(霊夢!?)を見る、源氏が葵上を見舞っている時に葵上の顔(様子)が突如御息所のものとなり、源氏がとりみだす、御息所の衣服についた芥子(祈祷のときにしかつかない)の香りがとれず、心を乱す、などである。

『源氏』はいうまでもなく日本文学におけるフィクション最高傑作のひとつである。それをまたフィクションにするというフィクションの二重構造がここには見られる。能にはこの『葵上』のほか『玉鬘』、『野宮』、『半蔀』など『源氏』を下敷きにしたものがいくつかある。視点を広げれば、『伊勢物語』から『井筒』、『平家物語』から『経正』、『敦盛』、『清経』、等々、いくらでも出てくる。

この現象は能だけではない。最近の例を挙げるとすれば、小説の映画化、アニメ化などがこれにあたるだろうか。脚色とよばれているものもこれに含めてよいだろう。そしてさらにそのアニメもいわゆる“オタク”たちによって料理(パロディー化)されてゆくのである。フィクションのフィクションのこれまたフィクションの・・・、とつみかさなる、これは二重とかいう生易しいものではなく、重層構造ともいうべきものであろう。何故このようなことが起き得るのか。

小説などを読んでいる時、登場人物に感情移入することは非常に容易く、その行動は楽しいものである。若しその人物が自分の思い通りに動いたら・・・? これは誰しもがその次に考えることであろう。そういう世界をつくっている側の人間ならなおさらである。漫画家たちの手記で「主人公がこのごろ言うことをきかなくなって一人で大暴れしちゃうんですよ。」などのような言葉を口にすることがたびたびある。

強烈な個性を持った物語の人物がその物語からはなれて一人歩きを始める。最初は紙の上でしか生きていなかったものたちが生命をもったかのようにいきいきと動き、喋りだす。これはモノに命を吹き込むアニミズムの考え方と非常に似通ったところがある。日本の、まさに“アニメ”が他の多くの国々で大流行している訳もこのあたりにあるのではないだろうかとふんでいる。

さて、この重層構造の歴史に新たな変化がおきている。感情移入しようと力まなくても最初からそのようにお膳立てされている物が生まれた。そう、日本が世界に誇る TVゲーム(Video Game!)である。これに関してはまた別の視点から論じてみたいと思っている。学校の社会の教科書で何かたいそうなことのように学んだ“アニミズム”は、実は身の回りで頻繁におきているのである。それを把握していないと、オカルトにはまり過ぎてしまうのかもしれない。世紀末世紀末と騒ぐ前に、身近な霊の世界を見回しておく必要があるであろう。


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