靖国神社参拝問題の周辺と日本人 
01年8月13日
萬 遜樹

 まもなく五十六回目の終戦記念日である。ちょうど小泉首相の参拝如何も内外問題となっている。時節がら今日は靖国問題そのものではないが、その周辺について少し考えてみたい。あらかじめ申し上げておくが、筆者にこの錯綜する問題そのものを解決する妙案はない。ここでは、見落とされがちであろういくつかの観点について、若干注意を喚起するばかりである。

(一)
 まずは、靖国問題以前にある根本問題について述べたい。八月十五日を「終戦記念日」と言うが、戦争は四季でも台風でもない。勝手に始まったり終わったりするものではない。だからこれは、正しくは「敗戦記念日」と呼ばれなければならない。しかしながら、このネーミングはたとえ最初は意図的な言い換えであったとしても、いまでは日本人に実にしっくりと来る日本語であることもまた確かである。

 これは、東(南)アジアおよび西太平洋で戦った十五年戦争(すなわち日中戦争であり大東亜戦争であり太平洋戦争であり第二次世界大戦の一部)を、現在の日本人が日本の一季節であったと見なしていることを示している。私たちにとっては、客観的事実としてはともあれ、心理的真実としてはあの戦争はあたかも台風のように日本人を襲い、やがて去った「地獄の一季節」であったのである。

 この、暑い夏には秋冬の到来を待ち望み、厳冬には春夏を恋しく思うような私たち日本人の忘れっぽさは、過去の日本人をも過ぎ去った一季節にしてしまう。曰く、靖国神社に祀られている御霊(みたま)のお陰で戦後日本があると。大方、違和感のないこの物言いにこそ、大変な錯誤がある。彼らは何のために戦い、そして死んだのか。祖国日本の勝利のためにである。決して「鬼畜米英」に屈服するためにではなかった。

 戦後日本の思想史研究に「転向研究」というテーマがあることをご存知だろうか。先の戦争に突入するに際して、マルクス主義者を始め反国家主義的信条を信奉していた数多くの「進歩主義」あるいは「近代主義」者たちが、国家権力の弾圧や強制によってその志を曲げ「戦争協力」勢力に転化していったことを「転向」と言う。これがいかにして各人の思想および心理的過程(生き方)において成立したのかを問うものが転向研究である。

 それはそれで大変興味深い研究なのであるが、ここで言いたいことはそれではない。全くと言っていいほど「研究」されようとはしない、ある「転向」についてである。それは他ならぬ日本人ほとんどの「戦後転向」についてである。生き残った日本人は敵国であったアメリカ占領軍を受け容れ、国家方針とその生き方を180度と言ってよいほどの転換をした。これを「転向」と言わずして何をそう呼ぶべきか。

 日本人にとってはこれも新たな「季節」の到来であったのだろう。この転向者の筆頭であり先導役を務めたのは「人間宣言」をされた昭和天皇であった。そして断固としてこれを許さなかったのが自死した三島由紀夫である。三島は言わば戦後の「非転向者」であったのだ。ここを軸にして、私たち自身を反転させて思って頂きたい。靖国神社とは何かと。戦争時に死んでいたはずの三島たちの鎮魂社である。

 彼ら「英霊」たちに何を「感謝」するのか。よくぞ国家のために命を捧げてくれた、とだろうか。もしもそう言えば、彼らは生ける三島のように反発するだろう。再びアメリカと戦えとさえ言うかも知れない。そういう覚悟が小泉首相に、そして私たちにあるかどうか。もちろん、そんなものはない。なぜなら全員転向済みだからである。そういう意味で「感謝」のための慰霊は誤りである。なすべきは、戦中日本人を裏切ったことへの「謝罪」であり、まずは憤怒を鎮める鎮魂である。


(二)
 近代日本は、君主としての天皇とは何であるかを規定するために「天皇崇拝」を「神道」であると強弁し、人為的に一つの擬似宗教をこしらえ上げた。それが「神社神道」である。このことからも分かるように、紀記などに基づく近代神道は、それ以前の「日本人の宗教」としての言わば「ニッポン教」とは似て非なるものなのである。そのよい証拠に、江戸期までの諸天皇はむしろ熱心な仏教徒であったし、ほとんどの神社は仏閣に属しており、神官も多くは僧侶が兼ねていた。

 「国家神道」とは神官が国家公務員となった段階を言うが、靖国神社もまたそういう神社であった。そもそも靖国神社とは、明治維新の革命戦争である戊辰戦争を戦った勤王軍戦死者のために、明治元年、京都で催行された慰霊招魂祭に由来する。翌二年、東京遷都が成り、帝都・九段坂に社を建てて招魂祭を移した。これが、ペリー来航以来の勤王志士たち以降の殉死者を祀る東京招魂社の創建であり、靖国神社とは明治十二年の改称である。爾来、日清・日露戦争など日本の「国難」に殉じた御柱を祀る国定・国営神社となったわけだ。

 占領軍総司令部(GHQ)は国家神道の解体を指令し、靖国神社も一私社(民営神社、宗教法人)となる。が、近代神道は一度宗教となってしまったが故に、もう二度と「神道」という看板をはずすことが出来ない。死者たちは「近代神道」の内に封印されてしまったのだ。日本人は「信仰」は持っていないかも知れないが、宗教心は持っている。信仰は宗教心の一ヴァリエーションにすぎない。小泉首相が哀願するのは、神道神社への参拝ではなく、死者の魂祭りであることはお分かりだろう。

 日本人の宗教に、すなわち筆者の言葉で言えば「ニッポン教」に宗派はない。祭儀式は近代神道である必要はなく、なじみでは仏教が第一だろうが、キリスト教やイスラム教でもかまわないだろう。また、魂祭りの祭場には、神社仏閣や教会などの建物はいらない。むしろ、得も言われぬ祠や奇岩、また山や島そのものなど、アニミズム的な偶像がある自然こそがわがニッポン教には相応しいだろう。

 日本人の宗教心には、信仰というような形での「宗教」は無用である(もちろん、それを妨げる理由はないが)。つまり、信仰を核とする「近代宗教」とは別レベルの宗教がニッポン教なのである。ニッポン教の宗教心は靖国神社すら包摂するが、一方の靖国神社は残念ながらニッポン教を包摂できない。


(三)
 最後に、日本人の死生観についてふれておきたい。私たちは死者をむち打たない。いかなる悪人も死ねばみな仏(ホトケ)である。成仏するとは、本来は悟りを開くことである。ただ死ぬだけでは仏には成れない。仏教世界観によればだが、常人はむしろ地獄や畜生に落ち、あるいは人間として輪廻(再び生まれかわること)することがほとんどであろう。ところが、ニッポン教では違う。「あの世」に逝くのである。

 そのとき、死者はすべての罪やケガレを祓い清められてしまう。死者の無罪性、清浄性は日本人にとっては当然のことだ。まさしくあの世とは「善悪の彼岸」にあるのである。しかしこれは普遍的な死生観ではない。中国や朝鮮など儒・道教の死生観では、死者は生前の善悪をそのまま、冥界に持ち込む。だからこそ、罪人や仇敵の墓を暴き、遺体や遺骨をむち打つということも有意味なのである。

 つまり、靖国神社に眠る「英霊」は彼らにとっては、死せる「戦争犯罪人」(戦犯)であり、祖父母や父母など肉親の仇敵ということになる(忘れっぽい日本人に対し、決して忘れない中国・朝鮮人と言える)。靖国参拝問題とは、案外彼我の死生観の対立なのかも知れない。

 それから、日本人には死者の無罪性は敵味方を越えても真実である。だからこそ、敵を祀ることが古来よりなされてきた。近代での例を言えば、日露戦争終結後、旅順要塞近くにロシア軍戦死者のための礼拝堂を日本は建てた。もちろん、ここには単なる慰霊を越えて、怨霊鎮めに遠くつながるものも感じるが。そういう意味では、生者は死者の罪を問わないが、死者は生者の罪を問うというのが、日本人の死生観だろう。

 いずれにせよ、八月は日本人にとって「死者の季節」である。地獄の釜のふたが開くときである。広島・長崎への原爆投下、敗戦、お盆、旧暦の七夕祭、それに日航機御巣鷹山墜落事故など、死者鎮魂慰霊にいとまがない月である。ある友人が実にうまいことを言った。八月は「葉月」だが、本当は「葬月」(はふる月)ではないかと。


[おまけ]

 日頃は政教分離にたいへん神経質なマスコミであるが、ある宗教思想をいつも語ってしまっている。どうして問題にならないのだろうか。それは、事件の犠牲者が「天国」に逝ったと語り、またそこからこの世を見守っていると堂々と述べていることだ。「天国」とは言うまでもなく、ユダヤ-キリスト教的な宗教世界観での用語である。また、どうして犠牲者が「天国」に逝ったと断言できるのであろうか。まさか社内に宗教預言者を抱えているわけでもないだろうに。

 皮肉を止めて述べれば、「天国」はニッポン教の「あの世」の言い換えだし、犠牲者が「天国」に逝ったと言うのは「成仏」したという表明である。つまり、マスコミはニッポン教を語っているのである。ニッポン教徒の特徴は、自分がニッポン教徒であると自覚していないことにある。そのようなマスコミに宗教問題なぞ論じてほしくはないものだ。


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