大本(人類愛善会)の場合


わが国の主な宗教団体のうちで、最も組織的(教団を挙げて)に「脳死」問題に反対意見を表明してきたのは大本(人類愛善会)である。大本は、一昨年秋、「臓器移植法」だ施行されるや、「ノン・ドナーカード(臓器提供拒否の意志提示)」を一般市民に配布するなど、この問題に対して曖昧な態度の教団が多い中で、出色の活動を展開している。

本欄でも、これまでの同教団による一連の反対運動の経緯を、同教団が公表している文書(「脳死を「人の死」とすることに反対する声明(平成3年12月3日)」・「 脳死臨調の最終答申に対するコメント(平成4年1月30日)」・「 臓器移植法案に関する要望書(平成9年5月2日)」等からの引用をもとに紹介する。



▼高知赤十字病院での脳死患者に関する全面的な情報開示の請求 平成11年3月12日

宗教法人「大本」代表役員 植村 彰

本年2月28日、臓器移植法に基づく、初の脳死状態の患者からの臓器摘出が、高知赤十字病院で行われた。

「大本」は、従来より教えに基づき、〈脳死〉は人の死でないとの主張を続け、脳死臓器移植に異議を唱えてきた。

この度の高知赤十字病院での脳死患者からの臓器摘出については、プライバシーの配慮があるとはいえ、十分な情報開示がなされておらず、「合法的殺人」と批判される脳死者からの臓器摘出への不信は、全く払拭されていない。それどころか、不透明な移植医療に対する不信は、いっそう増大する結果となった。

ここに「大本」は、今回の臓器摘出に際し、入院から臓器摘出に至るまで、どのような救命救急医療処置が行われたのか、また〈脳死判定〉はどのように行われたのか、全経過に渡っての全面的な情報開示を強く求めるものである。




▼ノン・ドナーカードを持ちましょう!

「脳死」は人の死ではありません。「脳死判定」を前提とした臓器提供はいたしません。

大本、ならびに人類愛善会では、このような立場に立って、平成3年以降数回にわたり声明を発表し、また、信徒・会員内研修を進めてきました。  

現在「ノン・ドナーカード」(脳死による臓器移植をしない意志を表示するカード)の普及運動を進めています。


さらに、この問題を含めたいわゆる「生命倫理にかかわる問題」についての講演会を全国各地で開催しています。

講演会に関するお問い合わせは、下記まで

<人類愛善会・生命倫理問題対策会議>
〒621-8686 京都府亀岡市天恩郷 
Tel:0771-22-9960 Fax:0771-22-5926
電子メールでのお問い合わせは→seimeirinri@oomoto.or.jp




▼厚生大臣への公開質問状  平成11年3月4日

大本では、今回の臓器移植に対して、「脳死」臓器移植による人権侵害監視委員会・全国交通事故遺族の会・日本消費者連盟他の諸団体と連名で、宮下厚生大臣宛に3月4日付で公開質問状を送付した。以下は、その全文である。


厚生大臣 宮下 創平 殿  

臓器の移植に関する法律制定時には、次のような付帯決議が採択されている。 「臓器摘出に係る法第6条第2項の判定については、脳低体温療法を含めあらゆる医療を施した後に行われるものであって、判定が臓器確保のために安易に行われるとの不信を生じないよう、医療不信の解消及び医療倫理の確立に努めること。」

従って厚生省には、今回高知赤十字病院で2月28日脳死から臓器を摘出され、結果死亡させられた女性患者につき、病院が救命治療を施したのかどうか調査・検証し、情報開示する義務があると考える。

私たちは、臓器移植が優先され救命がおろそかにされ、患者の救命治療を受ける権利が侵害されていると考え、この一連の行為を容認・指導してきた厚生省に強く抗議し、以下につき質問する。

病院は患者の病名をクモ膜下出血と診断したことを公表している。クモ膜下出血に対して、脳低温療法による数多くの回復症例が日本大学板橋病院の林成之医師により学会で発表されている。病院では、脳低温療法が過去に実施されていたか否か、実施されていればその実績を示すこと。

今回の患者に対して脳低温療法の適応があったか否か、ないとすればその根拠を示せ。

病院は2月23日に移植コーディネーター2名を呼び家族と接触させ、臓器摘出の説明をさせているが、この段階で主治医は「臨床的脳死」と診断したのか、そうだとすれば、「臨床的脳死」と診断した時刻とその根拠を示すこと。更に実施した検査項目とその数値を明示せよ。

主治医は、家族にコーディネーターを会わせるまでに患者に対してどのような救命治療を施したのか、治療内容を時系列的に示せ。

主治医が「臨床的脳死」を確認するに至った検査データを第1回目・第2回目共に検査項目毎にその内容を時系列的に示せ。

新聞報道によれば、主治医は2月25日午後に第2回目の臨床的脳死診断をしている。第1回目・第2回目の臨床的脳死診断はいずれも家族の承諾書を得ているか、その際誰が立ち会ったか明らかにせよ。

無呼吸テストの実施は脳死に近い状態の患者を決定的に脳死にしてしまう。従って、臨床的脳死診断においても無呼吸テストは他の検査が全て終わった後、治療上必要なときだけ認められている。新聞報道によれば、今回脳波が平坦でない状態であえて無呼吸テストを2回実施して主治医が臨床的脳死を確認しているが、何故救命治療に反する無呼吸テストを2回も実施したのか、その根拠を示せ。更に、どのようなモニターを配置しながら人工呼吸器は各々何分停止したのかを明らかにせよ。併せてその時の動脈血中酸素分圧(PaO2)の数値、及び動脈血炭酸ガス分圧(PaCO2)の数値を示せ。また右分圧は連続血液ガス分析装置を使用したか否か、使用していたならば当該ガス分析装置による記録と共に、全ての数値を時系列的に示せ。

上記無呼吸テストは脳波検査の前後いずれにおいて実施したかをあらためて明示せよ。また厚生省脳死判定基準では脳波計レンジは50μv/20mmとされているが、右脳波検査の際のレンジを明示せよ。

臓器移植法に基づき任命された脳死判定医が、2月25日20時13分より法に基づいた脳死判定作業に入っているが、その際脳波が平坦でない状態を確認しながら人工呼吸器を止める無呼吸テストを実施している。これは明らかに臓器移植法・厚生省令第2条3項に違反する行為である。判定医は何故このようを違法行為を行ったのか理由を明らかにせよ。

脳死判定医が実施した上記脳死判定時の全ての検査数値を時系列的に示せ。またその際脳波計レンジをどのように設定していたか、及び連続血液ガス分析装置を使用したか否かをも明らかにせよ。  

今回の高知赤十字病院の一連の行為は、多くの人に不信を抱かせた。早すざると断ぜざるを得ない脳死宣告、臨床的脳死診断時に脳波が平坦でない状況において無呼吸テストを実施したという暴挙、そして何よりもおろそかにされた救命治療。これらは全て昨年6月厚生省が臓器提供病院を一挙にかつ一方的に拡大した結果であり、その責任は重大である。加えて、2月26日以降は一変して患者のプライバシー保護を理由に、脳死判定や臓器摘出に係る事実を非公開とすることを指導した。これは国民の「知る権利」の侵害であり、報道統制にもつながりかねない。

ドナー患者の治療の保障、更には国民にとっての開かれた医療の保障に関して、厚生省の責任の所在を示せ。

なお、本公開質問状に対しては、下記「脳死」臓器移植による人権侵害監視委員会・東京の事務局宛、文書によりご回答されたい。




▼脳死を「人の死」とすることに反対する声明 平成3年12月3日

「臨時脳死及び臓器移植調査会」(脳死臨調)は平成3年6月14日、中間意見を発表した。それは少数意見を添えたものであったが、脳死を「人の死」とみたものであり、平成4年1月には、この見解にもとづき最終答申が出されようとしている。

脳死問題は、今日では世論を二分する大きな問題になっているが、脳死を「人の死」と容認する人は50%を割り、とても社会的合意に達したとはいえない。脳死臨調は最終答申にさいし、とくに慎重であってほしいと念願するものである。

大本教団では、教祖出口王仁三郎聖師の教示にもとづき、早くから脳死は「人の死」でないと表明してきた。人間は元来、霊魂と肉体とからなる有機的統一体であり、その主体性は霊魂に存在し、肉体は霊魂の容器であり、死は心臓の鼓動がまったく停止し、霊魂が肉体から完全離脱した時を言うのであって、心拍のある脳死状態は、個体死でなく脳の部分死にすぎないとしているからである。

万有は、創造神の被創造物であって、すべての生命は究極の一元に帰するものである。こうした生命観は、健全な人間生活の基盤となり万有愛を育てるものであって、今後築かれるであろう精神文明にとって不可欠な要素となるものである。

脳死を「人の死」とし、人間を部品の集合体とみるならば、人心はますます物質中心の考えに偏り、科学万能の荒涼とした死生観、人生観、世界観に変わり、人類の精神は由々しい状態にいたることを憂えざるをえない。移植以外に救われない患者がいることも事実であるが、さらに大きいこうした人類の心の病の深まりをどうするかの問いもまた重大である。このことは今日、人類の環境保護、生活の様式、文明のあり方に深刻な見直しが求められていることにも通ずるのである。

なかには、先進諸国が脳死を「人の死」と認知している事例をあげ、わが国のおくれを指摘する声もあるが、先進国とは物質文明のそれであり、今日ではそれぞれの国で深刻な問題が湧起している事実は何を物語るものであろうか。もしそこに誤りがあるとするならば、わが国から率先してただすことにやぶさかであってはならない。

私たちは、人間の肉体は神から与えられた固有のものであり、個体死でない脳死を前提とした臓器移植はあってはならないとするものである。とはいえ、現実に移植を必要とする患者に、この道のすべてを閉ざしてよいとするものではない。現状では人の死に関わらない限り、移植は止むを得ないと考える。それゆえに人工臓器の開発が一日も早く達成されることを願うのである。

私たちは、教えの立場から上記の通り、脳死を「人の死」とすることに反対するものであるが、それは人の肉体と霊魂の関わりを重視するからである。出口王仁三郎教祖は、霊魂が肉体から脱離するにさいし、ほとんど脱離した霊魂が霊線によって肉体との絆を最後まで残存させるのは脳でなく心臓であることを霊視している。一般ではまだ霊魂の存在に疑いを抱く人も多いが、今日では科学もその存在を否定していない。近年、学問的研究の対象となり内外の話題を集めている「臨死体験」などに徴しても、霊魂の存続を認める状況証拠は十分にある。将来、霊魂の存在と働き、霊魂と肉体との関係が明らかになるにつれ、脳死が「人の死」でないことが明らかになるであろう。

生命の問題は科学の次元を超える奥深いものであり、死の問題も医学の問題だけでなく人間存在の全分野にわたる大きな問題である。

脳死臨調は、最終答申にあたって慎重を期されることを、重ねて要望するものである。




▼脳死臨調の最終答申に対するコメント  平成4年1月30日                          

「臨時脳死及び臓器移植調査会」(脳死臨調)は本年1月22日、最終答申をまとめ宮沢首相に提出した。それは少数意見を併記したものであるが、脳死を「人の死」とし、脳死者からの臓器移植を認めるものであった。

大本教団では、早くから脳死は「人の死」でないとする立場を表明してきたが、去る平成3年12月3日、脳死臨調に新たに「反対声明」を送付し、最終答申の作成にさいし慎重な対応を求めた。それだけにこの答申内容は遺憾である。

この答申の第一章の2には、近年の医学・生物学の死の定義が示してあり、そこには有機的「統合性が失われた状態をもって死とする」とし、「たとえその個々の臓器・器官がばらばらに若干の機能を残していたとしても、もはや"人の生"とは言えない」とあるが、この表現の曖昧さに驚きを禁じ得ない。

この表現は大きな幅を持っており、いかなる状態の段階を示すかが不明である。この場合、おそらく竹内基準にもとづく脳死状態をさすものと思うが、この死の定義からすれば、脳死者が出産した事例などは、どのように理解したらよいだろうか。有機的「統合性が失われた状態」「ばらばらに若干の機能を残して」いる状態で、出産が可能だろうか。出産を可能にするには、有機的統合性と生命と呼ぶにふさわしい機能が体内に残っていたからではないだろうか。

わたしたちは、さきの「反対声明」で、人間の生命機能の源泉は主神にあり、人間は各自に主神より"固有の霊魂"と"固有の肉体"とが与えられているとしている。また、人間の死は、その霊魂が肉体から完全離脱のときをいい、それは心臓の鼓動の完全停止のときであって、人工呼吸器のたすけによるとはいえ、心拍のある間は霊魂はまだ完全に離脱しておらず「人の死」とはいえない。

わたしたちは、人間の主体である意志と知性の根元は霊魂にあり、脳はそれを受容して精神的体的機能を果たしているとみる霊魂中心の生命観に立つが、その霊魂は人体に普遍的に存在し、脳や心臓のみにあるものではない。動物や植物における生命現象も、そこに包合される霊によって生ずるもので、人間の脳死状態では、霊魂は稀薄ではあるがまだ肉体に残存している。

この度の脳死と臓器移植の問題には、回復しない肉体ならば、他者の救いのために提供してもよい、それが愛であり奉仕であるとの見解がある。これはたいへん分かりやすいため、率直な共感を呼び、多くの共鳴者もでるであろうし、臓器移植の実施により多くの人が恩恵を受けるであろう。

しかし、こうした人々の善意も救済もよく分かるが、この問題の難しさはそれだけでなく、さまざまな分野から実に多様な、しかもきわめて根元的な疑問が数多く提起されているのである。  

その中で、わたしたちがとくに問題にするのは次の三点であるが、そのひとつに霊魂上からの問題がある。

これは「反対声明」でも述べたので重複をさけるが、脳死者からの移植は善意によるとはいえ提供者の霊魂がまだ完全に離脱していない状態から、つまり霊魂的には生命が残存する肉体から移植することになるのである。倫理上また死後の霊魂安定上、これに問題がないといえるだろうか。臓器移植は本人の意思にもとづく選択だけに、霊魂上から見れば自ら霊魂の絆を絶つことになる。あえていえば自殺に近い行為といえなくもない。

第二には、宗教上からの問題である。  

宗教教義にも様々あるが、もともと人間はすべて創造者の被創造物であって、究極するところ肉体も精神も己のものは何一つ存在しないと見ることができる。つまり、創造者からの借りのものであって、ここに宗教が説く誠とか感謝報恩の根源があり、人は賦与された"固有"の肉体を、己の意志で他者に与えることができるのであろうかとの問いが生じる。

臓器移植は、感謝と光栄に満ちた愛の行為とみる意見もあるが、それは真実だろうか。すべてのモノには天授の使命がある。最後の最後まで、己に与えられた固有の使命を謙虚に保全することが、創造者への誠であり、努めではないだろうか。

人の肉体には顔形や指紋、声紋ばかりでなく、個々の細胞の遺伝子にまで"固有性"が与えられており、臓器が移植された場合にも相互に長く拒絶反応をおこすのは、何を意味するのだろうか。

第三は、人類の未来文明の帰趨に関わる問題である。  

現代は環境破壊をはじめ、生命を生命とも思わない事件があいつぎ、物質中心、科学万能、肥大化するエゴへの警鐘がしきりにうち鳴らされ、文明のあり方に見直しが真剣に求められているが、その中で人間を部品の集合体のようにみる人間観やあたたかい肉体を「人の死」とする死生観の普及が、果たして、今後、人々にどのような精神的影響を与えるだろうか。

移植によってしか救われない多くの患者がいること、移植のために他国に出向き日本異質論を増幅させるなど差し迫った問題も大事であるが、さらに大きな問題と思われるのは、脳死を「人の死」とする生命観の広がりで、今後、真に安養な精神的世界が築かれるのかという点である。臓器移植は果たして真に人間相互の共栄の道なのだろうか。

まだあたたかく"生"ある人間を「人の死」とする生命観に立つかぎりわたしたちは科学万能の、より不毛な精神世界がつづくことを憂慮せずにはおれない。

地球は限られた一つの環境であり、限られた資源である。その中で、わたしたちは精神的にも物質的にも豊饒な世界を求めて歩まねばならない。それには、どうしても究極の実在からの霊性で、万有が一体の"生"を保持しているとの優しくおだやかな生命観に立ち、万有を大切に保全し感謝と報恩をよせあいつつ、人類の未来文明を築いていかなくてはならない。

脳死問題はまだ、こうした多くの大きな問題を残していると思われる。




▼臓器移植法案に関する要望書 平成9年5月2日

内閣総理大臣・衆参両院議長・衆参両院議員殿

「脳死を人の死」とする臓器移植法案が、4月24日、衆議院本会議を通過し、参議院に送られることになった。しかし、脳死を「人の死」とする国民的合意が得られたとは認め難く、多くの重要問題を積み残したまま法制化されようとしているが、臓器移植を前提とした「死の定義」を法律で特定することに疑義をいだかざるを得ない。「生死の判定」という極めて重大な問題であるだけに、同法案には慎重な審議を求めるものである。

 大本教団では、教祖出口王仁三郎の、宇宙の真相、人生の本義等の教義にもとづき、早くから脳死は「人の死」でないと表明してきた。人間は元来、霊魂と肉体からなる有機的統一体(霊肉一如)であり、その主体性は霊魂に存在し肉体は霊魂の容器(霊主体従)であり、死は心臓の鼓動がまったく停止し、霊魂が肉体から完全離脱したときをいうのであって、心拍のある脳死状態は、個体死ではなく脳の機能死にすぎないとしているからである。したがって「脳死状態にある生体」から心臓その他の臓器を摘出し、死に至らしむるは、殺人行為の合法化といわざるを得ず、絶対に容認することはできない。

前記のように霊魂と肉体は密接不離の関係にあり、生命の有機的統一機能が脳にあるとの見解や、単に肉体を部品の集合体とみなす人間機械論は、科学万能、物質中心主義の考えに基づくものであり、神の慈愛のもと、永遠に生き続ける「霊魂」と、死後の世界(霊界)の存在を無視したものである。

霊魂はもとより、臓器を含めた肉体も、神から賦与された人間固有のものであり、原則として他人への提供は許されない。個体死でない脳死を前提とした臓器移植は、本来あってはならないものとするものである。

今日では、霊魂の存在を信じる人も多く、科学もその存在を否定していない。近年、学問的研究の対象となり内外の話題を集めている「臨死体験」などに徴しても霊魂の存続を認める状況証拠は十分にあると言える。

出口王仁三郎は、霊魂が肉体から離脱するに際し、ほとんど離脱した霊魂が霊線によって肉体との絆を最後まで残存させるのは、脳でなく心臓であることを霊視しており、「肺臓、心臓の活動がまったく止む時こそ、霊と肉とがたちまち分離する時である。肺臓の呼吸と心臓の鼓動とは、人間の本体たる精霊そのものを繋ぐところの命脈であって、この二つの官能を破壊するときは、精霊はたちまち己に帰り、独立し復活し得るのである。」としている。

しかし現実として移植を待っている人たちがいることも事実であり、すべての移植の道を閉ざすものではない。現段階においては、提供者の死につながらない範囲においては移植もやむを得ないものとする。  

だが、拒絶反応、手術そのものの危険性、実際に移植を受けた患者の術後の苦しみ、また臓器を「商品」として売買するブローカーの存在など、臓器移植にまつわる多くの負の部分からも目をそらすことはできない。それゆえ人工臓器の開発が一刻も早く達成されることを願って止まない。

脳死判定による臓器移植を進めるというこの度の法案は、救命医療の早期打ち切りと臓器の性急な摘出という憂うべき事態をもたらす恐れがある。かかる間(はざま)にあっての判断は、高度な医学的判断が必要であるのみならず、すぐれて宗教的、社会的、人道的な倫理判断が強く要請される。  

移植を行うことを最終目的とし、移植を求める患者側、移植を行う医学界側の論理主導によって進められている当法案に、私たちは反対の立場を表明するとともに、国会での審議にあたっては、人間の生死の問題を根本から審議し直し、慎重を期されることを重ねて強く要望するものである。


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