日本人も日本文化も認める方向に傾く

曹洞宗 教化研修講師 中野東禅

「一人称の死」と「二人称の死」ということが言われている。本人が臓器提供をきめていたからといっても、家族にとっては簡単に決められないという問題である。しかし私は「にもかかわらず」と言いたい。臓器提供を決めた本人は、死への悲しみや恐怖の中にあって、知性で行動しようと決意した。そしてドナーカードをもつことを自らの意思で自己決定した。その本人の自制を認めたい。そこが修行の場なんだと思う。

第二点は、ポストモダンとモダンの関係である。モダンは合理主義であり管理主義だ。ポストモダンは管理主義が破滅しはじめて、価値観を一本に絞りきれなくなり、自由を主張しはじめている現状である。臓器移植法は、脳死が死であるか死でないかは自己決定に委ねている。これは勝ちの多元化、自由の発想であり、いみじくもポストモダンの発想が臓器移植法に反映している。ところが日本人の心はそれに追いついておらず、揺れ動いている。


事実先行すれば論議終息へ

臓器移植が実施されたことで、日本人も日本仏教も臓器移植を認める方向に傾いていくだろう。僧侶の結婚問題も、葬式の問題も、そうであった。事実が先行しれば本質的な論議は深まらないまま終息していく。

臓器移植手術を受ける人は、ある意味で死に行くよりも厳しいストレスを味わっている。移植手術を受けることの結果は全く予想できないのだから。その意味では仏教的な自己の責任としての業の実践である。臓器提供した家族が側には、故人の臓器がどこへ行ったのか確かめられない。命の落ち着きどころがないという寂しさがある。このため、アメリカでは患者と家族を引き合わせる方向にある。

移植当日、私はタイでその報道に接したが、現地の知人は「なぜ、(ドナーとレシピエント双方が)そこまでしなければならにのかわからない」と語った。仏教的に臓器提供は上座 部仏教の布施行とは一線を画するとの認識だが、私も同じ考えである。

仏教的な意味づけもさることながら、死生観として漠然と"延命"が善であるとの共通認識が生まれ、そのまま進んでいくことに私は危惧を感じる。現在の臓器移植論議は生への医療LOL(Length of Life)のみを論点にしている。だが、ホスピスなどに現れているもう一つの死の医療ともいうべきQOL (Quality of Life)を見据えていかなければならないと思う。

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