IARF

= 第30回IARF世界大会関西地区事前学習会記念講演 =


@ 「カナダの先住民政策の変遷と諸影響」

A「宗教多元主義とグローバリゼーションの行方」


カナダの先住民政策の変遷と諸影響」

6月19日、金光教泉尾教会 神徳館国際会議場において、第30回IARF(国際自由宗教連盟)世界大会のための関西地区事前学習会が開催され、加盟各教団から世界大会参加予定者約60名が集い、2人の講師から講演を聴いた。

*多民族国家カナダ

本日は、カナダの先住民に対して、カナダ政府が執ってきた政策についてお話したいと思っております。

皆さんのお手元に地図の入った用紙はございますか? これが現在のカナダの国土を示しています。ブリティッシュ・コロンビア州、アルバータ州、サスカチュワン州、マニトバ州、オンタリオ州、ケベック州……。西から東にありますね。それから北の方には、ユーコン準州、北西準州、ヌナヴト準州、と3準州、10の州と3つの準州からなっております。

1997年の統計でありますけれども、カナダの人口は約3000万人です。日本の4分の1ぐらいですね。面積は、997万平方キロメートル、日本の面積が38万平方キロメートルですから、国土は日本の約26倍あります。非常に自然の豊かな国です。但し、かなりの高緯度にありますので、気候が日本とは大変違います。冬は非常に寒いし、夏は日本の秋のような気候です。

皆様が、この夏、IARF大会に行かれるブリティッシュ・コロンビア州は、カナダの中でも特異なところなんですね。どうしてかと申しますと、まず、太平洋に面しておりますので、非常に雨が多い。特に冬は雨が多くて、夏は比較的涼しいです。温度が25度を越えることは余りないと思うんですね。一方、冬は、カナダにありながら雪がほとんど降りません。非常に温かい場所です。しかも、開拓の点で申しますと、北米大陸は東から西のほうに向かって開拓が進んでまいりました。そういう意味では、最後に開拓された地域であるということもいえます。

現在、カナダに対して皆さんがどのようなイメージを持っておられるか判りません。ただ単に、白人の国だというイメージを持っておられる方がおられるかもしれませんが、簡単に申しますと、カナダは移民と先住民の国です。この150年の間に、非常に多くの人々がヨーロッパ、アフリカ、アジアから移住してきました。それ以前には、われわれが「インディアン」と呼んできた人たちの種族と、イヌイット――昔はエスキモーと呼んでいました――それから、インディアンと白人の方の混血をメーティスといいます。そういう方々が住んでいるわけです。

統計で申しますと、カナダの人口うちの45パーセントがイギリス系です。いわゆるスコットランドの出身者です。それからフランス系が約30パーセントおります。それ以下、ドイツ、イタリア、ウクライナ、オランダ、中国、さらにいろいろな国の方々が移民としてカナダの国を構成しております。現在のカナダは、そういうふうな多くの異質多民、異なる言葉、異なる文化を持つ人々が集まって住んでおりますから、政策的には、多文化主義という「文化の共生」を国家の理念として国策を推進しております。これも非常にユニークな点で、これはまた後で簡単にご説明申し上げます。


*憲法に規定された「先住民」

最初に、「先住民」という言葉なんですが、ここで「先住民」と言った場合は、いわゆるヨーロッパから白人が、「新大陸(北米)」に渡って来る以前に、既にそこに住んでいた人たち、この人口を一括して「先住民」と呼んでおります。また、その子孫の人たちも先住民と呼びます。実は、カナダでは「先住民」というのは憲法で規定されています。日本国憲法には、アイヌの方に関する記述はございません。単に日本国民です。

ところがカナダの場合は、先住民とか移民の方々の主張が非常にはっきりしておりまして、憲法のなかでも、先ほど三宅先生がご挨拶で言われたファーストネィションズ――これはインディアンの所属、例えばクリーとか、ミクマックとかいろんなグループがあるんですが、それを一括して今、ファーストネィションズ(最初の国民)と呼びます――それから、もうひとつはイヌイットです。これはかつてエスキモーと呼ばれた人たちです。それからメーティスというのは、ヨーロッパ人とインディアンの方の間に生まれた子孫と考えて結構です。あんまり使いたくない言葉ですが、いわゆる混血ですね。この人たち及びその祖先は、カナダでは現在、「先住民」として認定されております。

先ほど、「カナダの人口は約3000万人」と申しました。このうちの約100万、つまり、カナダ人30人に1人がこの「先住民」のカテゴリーに入ります。町を歩いていたらたぶん30人に1人は先住民の方です。町の中では、実際はそんなに多くないかもしれません。しかし、それぐらいの比率です。ファーストネィションズと呼ばれる――かつてインディアンと呼ばれた――方たちは約78万人。メーティスいわゆるの方たちが約21万人。それから、イヌイットの方たちが約5万人おられます。

カナダの先住民がどこに住んでいるかということですが、われわれ日本人は、先住民というのは、アイヌであったら北海道に住んでいるとか、僻地に住んでいるとかそういうイメージをお持ちの方が多いかもしれません。カナダには、リザーブ――これを日本語に訳しますと――保留置とか居留地とか申しまして、先住民のために国が指定した場所があるわけです。カナダには約2300ヵ所ございます。そのうち1600ヵ所は、みなさんがこれから行かれる、ブリティッシュ・コロンビア州にございます。ブリティッシュ・コロンビア州といいますのは、先住民の人口は少ないのですが、非常に多くの種族といいますかグループが住んでいる土地であるということを申し上げておきたいと思います。

極地では、例えばイヌイットとか、一部の極地インディアンの方たちは、あとでスライドをお見せしますが、北極地域とか北の森林地帯に住んでおります。ここでひとつ指摘しておきたいのは、第二次世界大戦が終わってからこの4、50年間、多くの先住民の方々が町に出て来ています。決して彼らは、都会から離れた僻地とか居留地に住んでいるんではなく、最近の統計によりますと、ファーストネィションズとかメーティスの場合、人口の約半分は都市に住んでいると言われています。

一方、イヌイットも、実のところ僕はイヌイットは北方の方でしかこれまで捜査をして来てなかったのですが、この数年の間に人口の5人に1人、約20パーセントは、極北の土地を離れて、トロントとかモントリオールとかバンクーバーというような大都市に住んでいるということが判ってまいりました。そういう意味では、元々(白人の人たちが入って来て追いやられたこともありますが)比較的僻地に住んでいたわけですが、現在では、都市に住む方もできているということを指摘しておきたいと思います。


*植民地化の時代から同化の時代へ

今日は、歴史的に順を追って先住民に対する政策を見ていきたいと思います。白人が入植した時、それからカナダ国が独立した時、そして現代、カナダの先住民はどのように取り扱われているかということをお話したいわけです。

まず、これは、部族の言語別に見た先住民の分布図なんですが、16世紀から18世紀のものです。まず最初は、1500年代、日本でいうと江戸時代の前と考えて下さい。もちろん、当時は、白人は一切住んでいません。北の方にはエスキモー。そして、東の方にはイロコワ語族、アルゴンキン語族とか、アタカパ語族とかですね、いろんな言葉を話す先住民がおられたわけです。ところが、これが数世紀たった現在の地図は、見たら判りますように、いわゆる先住民の世界から、移民、特に白人の世界――イギリス系、フランス系の移民の世界――へと国が変わってきているんです。先住民を中心としてカナダの歴史を振り返りますと、まず、今から300年ほど振り返りますと、そこには先住民しか住んでいなかった。

ところが、交易、特に毛皮交易とかを目的としてヨーロッパから人が入ってくる。最初の接触時は非常に友好的です。ヨーロッパから来た人も、先住民の知恵がなければ、北米「新大陸」では生活できないわけです。したがって先住民は、新しく来たヨーロッパ人も助けましたし、ヨーロッパ人も、対等な立場で交易を行っていたわけです。

ところが、時間が経ちまして白人の人口も増えてきます。それから、農耕が行われ始めます。牧畜ができる先住民というのは、ヨーロッパから来た入植者からみると、これは邪魔物なんですね。したがって取り除く(殺す)、もしくは追い払うというようなことが行われてきます。いわゆるこれが植民地化です。当然、そこに住んでいる先住民のほうは反発します。そこで先住民と入植者の間で争いが起こったり、戦争が起こったりするわけですけれども。当然、ヨーロッパ人は鉄砲を含めて文明の利器を持っています。先住民は戦争をして勝てる訳ないですよね。したがって、結果的には、北にいるイヌイットとか一部のクリーインディアンを除けば、ほとんどのカナダの先住民というのは、(一年中、寒くて)農耕ができない、もしくは牧畜に適しない奥地に追いやられてしまうという現象が起こります。

そのうち、カナダが国家として独立します。そうすると、カナダ政府は、先住民をカナダ国民、もしくはカナダの国の一部とみなします。これで主客が転倒するわけですね。誰の国かということになりますと……。そして、カナダ政府が採った政策というのは簡単でして、「文明化する」いわゆる「同化」をするということです。これは一方では「キリスト教化する」という意味もあります。先住民も同化していく……。

ところが、1960年代の終わりぐらい頃から、1960年代をひとつの転機としまして、先住民の権利運動が始まります。自分たちの主張をはっきり言う。そして、連邦政府と話し合って自分たちの生き方を模索するということが始まります。いわゆる「自立の時期」が始まるんですね。こういうふうに先住民の視点からカナダの歴史を見ますと、接触期、植民地される時期、同化をされる時期、それに対して反発をして自立を始める時期、と4つの大きな期間に分けることができます。

みなさんにお配りしました年表がございます。これに則してカナダの先住民政策というものを見ていきたいと思います。みなさんご存知のように、歴史の上で、「1492年にコロンブスが北米大陸を発見した」というのは教科書で習います。ということは、もっとはっきり言うと、それ以前には北米大陸にはヨーロッパ人はいなかったということになります。カナダの場合は、ヨーロッパ人による入植もしくは移民が始まったのは16世紀以降です。16世紀というのは1500年代です。日本でいうと安土桃山時代から江戸時代の初め。これぐらいから、ヨーロッパ人の新大陸への移民が始まります。これは、地図で申しますと、北米のアメリカ合衆国やカナダの東側だけです。現在のボストンでありますとかニューヨークでありますとか、その辺に入植が始まるわけです。入植したグループは、イギリスをはじめ、フランスとかオランダとかいろんな国の人たちが入ってくるわけです。そしてそこに植民地を作るわけですね。

特に1700年代の後半になりまして、最後に、イギリス系の植民地者とフランス系の植民地者がそこでぶつかります。そして、1763年にイギリスがフランスとインディアンとの戦いに勝ちまして、「パリ条約」を結びます。この時点で、カナダを含めて北米の一部がイギリス領になります。今、アメリカ合衆国でなんでイギリス人が多いか(アメリカの国語は英語)といいますと、この時から始まるわけです。この時に、英国王が北米を治めるための宣言を出します。実は、この中に、もう既に先住民に関する記述が出てまいります。どういうことかと申しますと、「英王国宣言」が1763年に出されますが、その時に、英国植民地の境界を決めなければなりません。どっからどこまでが英国の植民地であるか、そして、植民地がどのように運用されるべきか、先住民政策とか白人入植者と先住民の関係というものを国王が述べた宣言が出されます。

この宣言というのは、非常に先住民に有利な宣言でして、どういうことかと申しますと、当時のインディアンというのは、この時点においてイギリス国王の支配下に入る。いわゆる「英国市民」になりますが、同時に「インディアンの独自性をイギリス国王は認める」という宣言なんですね。しかも、「アパラチア山脈(北米の東側に南北に走っている山脈)からミシシッピ河(北米の中央を南北に流れる大河)にかけての土地は、これはインディアンの土地であって、白人は入ってはいけない」ということもこの時に述べます。どういうことかというと、もっと極端に言いますと、「アパラチア山脈から西の地域というのは、白人は入ってはいけないんだ。これは、インディアンの土地なんだ」ということを英国王が宣言するわけです。これが1736年なわけです。

しかしながら、現実的にはこの宣言は守られませんでした。カナダのほうでは、毛皮交易――ビーバーの毛皮とかラッコの毛皮――を求めて植民者、毛皮商人が入ってきます。南のほうでは、土地を求めて、農耕や牧畜をするためにヨーロッパから多くの人間が入ってきて、国王宣言があるにもかかわらず、どんどんアパラチア山脈を越えてテキサスのほうまで向かっていきます。というようなことが起こりまして、実はこういうふうな宣言はありましたけれども、有名無実でした。


* 主権国家カナダの下で

次に、歴史で申しますと1867年――これは明治維新、明治時代前後の頃ですけれども――この時にカナダが初めて自治領として成立します。1867年に初めて、東はケベック州から西はブリティッシュコロンビア州までが「ひとつの国になりましょう」という約束事をします。いわゆる連邦体制が成立するのが1867年。この時に、実は『英領北アメリカ法』というのを施行します。この中に、「先住民(インディアン)は連邦政府、いわゆるカナダ政府の管轄に入るんだ」ということが明記されています。そのような条文が出てまいります。それから後の1876年に『インディアン法』が制定されます。この時に、「イヌイットは連邦政府の管轄、インディアンと白人の混血でありますメーティスは州政府の管轄である」ということがインディアン法で制定されます。

さらにカナダの国は豊かになって、東はハリハックスから西はバンクーバーまでの大陸横断鉄道が完成します。これが1885年。これで名実ともに国の東西が結ばれたわけです。実は、まだまだ話しが進んでまいりまして、1931年、初めてカナダが自治をする国になります。これはどういう意味かといいますと、それまでカナダは存在したんですけれども、あくまでも英連邦の一部です。独立した国ではないんですね。1931年に『ウエストミンスター憲章』によって「カナダは自治をしてよろしい」と認められてます。ということは、1931年の時点でも、まだカナダは英国連邦の一部であって、まだ独立しておりません。ある意味では自治は認められていましたが……。そして実は、カナダが初めて日本のような主権国家、(外交権を持つ独立した国)になったのは、なんと1949年です。この時に初めてニューファンドランドなどもイギリスを離れてカナダに入る。現在のカナダができあがるわけです。そういう意味では、カナダの歴史というのは比較的新しいということが言えます。

実は、主権国家カナダが成立してからも、もしくはそれ以前のカナダの英連邦政府も、先住民に執ってきた政策は一貫しております。それは、同化政策。「カナダはいわゆるイギリス人、フランス人が中心の国なんだ。それ以外の移民・先住民は彼らから学んで、彼らの国の中に入るべきだ。カナダ国民になるべきだ」といふうな一貫した同化政策が施行されます。これは、日本でもアイヌ民族に対して中央政府は同化政策を執ってまいりましたから、国としては、当時の世界としては、ひとつの同じ傾向がみられます。そして、1969年、連邦政府が『インディアン白書』を出す。当時首相でありますクルードーという非常に人気のある首相がいますが、彼は、「先住民はカナダ人と同等になるべきだ」と主張します。そのためには、「先住民だけにある特別枠とか法律を全部撤廃して、移民も先住民もカナダ人と同じ法律の下に同じカナダ国民として生きるべきだ」というふうな方針を国会で募ります。

もっと具体的にいうと、『インディアン憲章』や『インディアン法』の廃止です。そして「すべてのインディアンや後から来た移民をカナダ国法の下に置く」ということを主張したわけです。ところが当時、このクルードー首相のインディアン政策は、特に先住民から多くの反発を受けます。そうでなくても、同化政策が実施されて、自分たちの生き方ができない、自分たちの価値が否定されるということで、非常に不満を持っているのがインディアンたちですね。それに対する優遇策すべてが撤廃されると、さらに状況が悪くなるということです。例えば、翌1970年、アルバータ州のインディアンのグループが『シチズンプラス』という概念を出します。シチズンというのは市民ですね。プラスは足すです。これはどういう意味かといいますと、「インディアンというのは、カナダ国民であるけれども、それ以上のものなんだ」と……、プラスなんだと……。「俺達には、国民という権利以外に、先住民の権利もくれるように」と主張します。この時は、国是ですから先住民の意見は受け入れられませんでした。

ところが、カナダ政府の方針が大きく変る事件が起きました。それが、1973年の『ニシュガ判決』です。ニシュガとは、これから皆さんが行かれる、ブリティッシュ・コロンビア州のニシュガ族です。このブリティッシュ・コロンビア州のニシュガ族のリーダーが、「自分たちの土地は、まだ政府に売った覚えがない。したがって、今でもその土地に対する権利は、自分たちにあるはずだ」と言うことを最高裁判所に訴えます。そしてこのことが、法廷の場で争われることになったのです。ブリティッシュ・コロンビア州に住む先住民と、州そして国の間で、その土地に対する権利に対して争われます。最高裁の判決は、先住民の敗訴です。しかし、ここで非常に重要なことが判りました。法律の手続き上、先住民は敗訴になったのですが、判決文の中で、「先住民は土地に対して、権利をかつて持っていた」ということが明言されます。ということは、権利は昔あったんだと。それがなぜか今、ない……と、そうすると、その権利が不法な形で先住民の手を離れた場合は、今も先住民は「その土地を返せ」とか、「使わせろ」とか、国や州に申し述べることができるわけです。

実は、この判決が出た時点で、政府は政策を転換させます。この政策に基づきまして、実は1974年「先住民権益審議局」を設立します。これがどういう意味かというと、政府は「これからは、先住民と彼らの諸権利、特に土地に関する権利について話し合って、もし政府の方に非があれば、それを保証する。もしくは土地を戻す」ということをきっちり政策に出し始めました。これが1974年です。そこからいろんな交渉が始まるんです。1975年以降、端折りますが、いろんな名前が出てきます。『ジェームス湾および北ケベック協定』でありますとか、『ヌナヴト協定』でありますとか、これはですね、先住民が政府と協定を結んだ事例です。1970年代後半、カナダ政府と先住民が協定を結びまして、保証金をもらったり、土地を返してもらったり、いろんなことが起こっていると示した事例であります。

話しはだんだん、現代に近づいて参りますが、1982年にカナダに『新憲法』が成立します。「カナダのためのカナダの憲法」これが一般に『カナダ憲法』と呼ばれています。この第25条に先住民の独自性の尊重と歴史的根拠を示す情報が盛り込まれて、さらに、35条には、インディアン条約の上での諸権利が承認され、インディアン、イヌイット、メディスが具体的に先住民と記載されました。これも憲法の中に出てきます。これが1982年です。さらに、話は進みまして、みなさんのお手元の表では、1983年の「ペナー委員会」ですけれども、「連邦下院特別調査委員会報告書」というのができました。この時、何が行なわれたかといいますと、「政府は、先住民の自治政府を認め受けいれるべきだ」という方針を委員会が出します。それ以降も、先住民の政治的権利に関する話しが進んでいくのです。

さらに、話しを少し戻しますが、この時までにカナダには多くの移民が入ってきます。カナダは、やはり労働力が欲しいという点もありますが、ヨーロッパ系の移民も含めましてそれ以外に、ベトナムを中心としたアジア、それから南米、アメリカから移民が入ってきます。確かに、イギリス系とフランス系はカナダの中では主流です。でも、それ以上にいろんな国籍を持った、文化的にいろんなバックグランドを持っている人たちが集まってきているわけです。そうすると、今まで採ってきたように、「あなたはカナダ国民だからカナダの文化になじみなさい。英語を話しなさい」ということが難しいんですね。どういうことかと言いますと、もともと言語に関する対立があるわけですが、それ以上に、いろんな民族の人が入ってきたわけです。


* 多文化主義の国として


そういうような現状をどうやって解決するかというときに考え出したのが、「多文化主義」という方針です。言葉は、英語・フランス語を公用語とする。これは変えません。だけれども、皆さんが持ってきた文化――例えば、華僑であれば、中国の文化を持って来ています。日本の移民であれば、日本の文化を持って来ています。ベトナムの方は、ベトナムの文化を持って来ています――皆さんの宗教とか文化とか生き方に関しては、皆さんの意思を尊重します。したがって国家としては、統制しませんし、むしろそれを奨励します。だけれども、カナダ国民としての義務は果たして下さい。というふうに方針を変えます。これが多文化主義です。もっというと、国家の中で異質な集団の存在を認めて、それが共存できるような仕組みを作ろうというのが現在のカナダの政策です。当然、これには先住民は関わってきますし、移民も関わってきます。そういう意味で、先住民にとっては比較的、住みやすい時代になっているなと思います。

さらに、1995年には、政府は先住民の自治政府の存在も認めまして、新たな交渉に入っているということです。実は、みなさんが行かれます、ブリティッシュ・コロンビア州は最も多くの先住民と政府の話し合いが現在行われています。もし、この協定が決まれば、今のブリティッシュ・コロンビア州の5〜15パーセントは少なくとも、先住民の土地に帰ります。果たしてこれがうまくいくかどうかは別としまして、バンクーバーを中心としたあの地域は、現在、特に先住民との関係で注目を浴びている地域だということを指摘しておきたいと思います。

そろそろまとめに入っていきますが、先ほど話しましたように、先住民というのは、少なくとも現在では、いわゆる故郷、故地に住んでいるのではなく、多くの人が都市に住んでいるという現状。しかも、教育程度が低い。いろんな理由もありまして、社会問題に関わったり、経済的にもあまりいい状況ではありません。そういう意味では、先住民の生活一般では、恵まれているとは申せません。しかしながら、以下申し上げる点で、日本とか他の国に比べると恵まれているなということは事実です。

先ず第1に、対等でないにしてもカナダの先住民は自分たちの生き方、もしくは権利に関して、政府と交渉をしながら、自分たちの生き方を模索しております。このような対策は、日本のアイヌに対しては、日本政府は一切採って来ておりません。カナダでは、政府側と先住民側と対話が現在行われています。こういうことは日本政府は学ぶべきではないかということを感じます。これがまず第1点。

第2点は、いわゆる「多文化主義」です。カナダは現在、イギリス系、フランス系を始めとする、多数の民族が先住民と住んでいる国であります。そこで文化政策として、多文化主義が行われております。みなさんご存知のように、現在、お金とか人とか物とか情報は、国境を越えて世界中駆け巡っております。これはグローバリゼーションという言葉で、置き換えられるわけですけれども。そういうふうな地域におきましては、少なくとも日本社会をみてもそうですけれども、異質な人間が隣に住んでいるわけです。逆にいうとわれわれは、もうすでに地球レベルで考えても、国レベルで考えても、異なる言葉や考え方を持った人たちと一緒に住んでいかなければならない時代なんですね。こういう時代に、多文化主義という生き方、異質な者の存在を認めて、一緒に住んでいこうという考え方。これは非常に大事なものであると思うんですね。

現在、カナダやオ―ストラリアは、こういう考え方に基づいて国を作ろうとしています。多文化主義もいっぱい問題はあります。ありますけれども、ひとつの実験として非常に面白い。大事である。特に地球レベルでのグローバリゼーションが進んでいる中で、国を考える上でも、地球を考える上でも、この多文化主義からわれわれは、学ぶべきことが非常に多いということひとつ付け加えます。

現在、カナダは現実的に他民族からなる国です。ここでは人種や民族、宗教に関係なく、自由な個人が集まって、生きる世界を模索しております。そういう意味で、これからみなさんがカナダに行かれるということは、非常に多くのことを体験し学ぶことができるということを指摘して終わりたいと思います。

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