★99年度掲示板

『関西弁って何?』を読んで                                    
  99年12月28日
国家公務員 35才
 
                                                     

関西弁というのは関西以外の人が持つ共同幻想にすぎないのにあたかもそれが存在しているという思いこみで報道等がなされている。

このような文化理解のギャップは相互不信の元凶である。思いこみが激しい、思いこみしてることすら気づかない場合こそ大きな問題を孕んでいる。それらは修正していくべき。という風に(私が捉えた)論旨には全面的に賛成です。

ですが、文章に、揚げ足取りをしやすい部分が気になった、ということです。

1.関西の地域があやふやな地域概念である、というのは蛇足。関西という地域の確からしさと関西弁という言語体系の有無はこの際無関係と思われます。関西という地域が限定されているから関西弁はある、という不毛の揚げ足取りを惹起しそうです。

2.関西地方の人間ですら関西弁という言葉を使っている(上方文化圏、程度の意味で、さんまさん等の奈良県とかの場合、特に自分の言葉を「関西弁」と表現することが多いと感じます)のに、「関西弁は存在しない」と端折ってしまうのは、わかりにくいです。関西人のいう「関西弁」と、東京等の非関西人のいう「関西弁」は、まったく違う意味になっている、という方が、わかりやすいです。


第7回WCRP世界大会に参加して
99年12月14日
     京都大学大学院 濱田陽
                                                    
 イスラム教徒が多数を占める中東の国ヨルダンで開催された世界宗教者平和会議(1999.11.25-29)に参加した。「なんだ。ただ宗教者が集まって平和の祈りをする会議に参加してきただけか」と簡単に想像されないで欲しい。そこは凄まじい場でもある。世界は宗教に満ちている。そして、どの人間も生きるために宗教対話をやっている。ある人々は教団の利害のため、ある人々は宗教的信念や理想を実現するため、ある人々は富んでいる団体からの援助を引き出すため、それぞれ必死に駆け引きを行っている。きわめて人間的な交渉セレモニー空間なのである。

 イスラム教の指導者の一人ハッサン王子が創立し、今回の受け入れ役をも務めたヨルダン宗教対話研究所が、もともとキリスト教への理解促進とキリスト教徒保護のために設立され、より広く多宗教との共存をめざし活動していることを現地研究員から聞いた。所長はキリスト教徒である。共存のための対話。目的が明確だ。

 では、私の目的は何だったのか。今現在、世界の諸宗教で何が起こっているのか、これからの世界の宗教潮流はどうなっていくのかについて考えることであった。日本人にとっても生きるために多種多様なレベルでの対話が必要な時代になりつつあるような気がする。それは、宗教の二文字を無視できないだろうし、特定の人々だけのものではありえないだろう。


■『もうひとつの「Y2K」問題』への訂正依頼          
99年10月29日
財団法人禅文化研究所 西村惠学
三宅善信様:

御ホームページでのご紹介ありがとうございます。

ただ、だいぶ、誤解があるようですので、修正いただきたいのです。

 「このソフトでは、世界中に存在する8万種類のあらゆる文字(漢字・サンスクリットその他)を網羅している(経典の解読や戒名を付けるため)だけでなく、それぞれの寺院の過去帳に記された(明治以前は当然、元号を用いて旧暦で記録されている)命日を現代の暦(グレゴリオ>>暦)に変換するためのシステムが構築されており、「2000年問題」どころか、西暦645年の「大化改新」から西暦2300年に至るまでのカレンダー(大安や仏滅等の六曜)が内蔵されているそうである。」

 この8万種類のあらゆる文字というのは間違いです。擔雪(たんせつ)では、原則的にJIS水準の文字しか扱えません。五十嵐が講演で、以下のソフトのことを話したそうなので、混同されているものだと思います。8万字の漢字の件は、今昔文字鏡(エーアイ・ネット/紀ノ国屋書店)のことです。

 また、カレンダーですが、645〜2300のカレンダーではありません。いわゆるカレンダーが出るのは、新暦施行以降、つまり明治6年から西暦2100年までです。

 但し、旧暦新暦の変換や、日付計算などのツールには、大化の改新からのデータとして持っていることは確かです。

ご訂正いただければ幸いです。あるいは、話の都合上、訂正しにくいようであれば、無理して紹介していただかなくても結構です。

今後とも、よろしくお願い申し上げます。

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(財)禅文化研究所 西村惠学
〒604-8456 E-mail: egaku@zenbunka.or.jp
京都市中京区西ノ京壷ノ内町8-1 花園大学内
TEL 075-811-5189 FAX 075-811-1432
URL: http://www.zenbunka.or.jp
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■主幹からのご返事          
99年10月29日
レルネット主幹 三宅善信
西村惠学先生:

拝 復  早速のレスありがとうございました。

 この春に五十嵐先生からお聞きした話の伝聞が不正確で申し訳ございませんでした。というより、この分野の専門的知識に対する私の理解力不足でした。
 
 しかしながら、あんまり正確を期そうとすると、却って本題の主旨が煩雑になってしまう恐れがありますので、申し訳ございませんが、西村先生からの訂正の依頼文につきましては、「掲示板」コーナーでご紹介いたしたいと思います。

今後とも、ご教導りますようお願い申しあげます。

以上、取り急ぎ、お詫びとお知らせまで。  
合 掌
三宅善信 拝

           99年10月26日
               萬遜樹
e-mail:mansonge@geocities.co.jp



■ ご復帰おめでとうございます

まずは「主幹の主観」のご復帰おめでとうございます。心待ちにしておりました読者を代表しまして(?)お喜び申し上げます。

「ボランティアの自殺行為」を拝見しました。
いつになく(失礼!)真面目なタッチで介護問題を論じられていますね。祖父殿のご逝去の余韻がかすかに漂うような気も…(やや「怒りモード」が入っています?)。

論は「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」ですね。
先頃、女性教師の一団が大峰入山を強行した「事件」が報じられました。私はこれを聞いて、「この可視論者どもが…」と思いました。彼女らには目に見えるものしかわからないのです。

大峰山に女性が入ったからとて、別にどおってあるはずがない。しかし男女差別なぞという次元を越えて、その意味を理解することが「文化」である。
きっと彼女らは死んでも葬式や供養は無用なはずだ。それらは「死後の世界」というあるかどうかも知れない世界のために行なうことなのだから。大峰山の女性禁制と同様に。

いま世界で進行しているのは「一元化」です。それも金銭還元化ですね。この大波は、世界をそして人間を食い尽くすでしょう。世界と人間の多様性と多層性を、すなわち精神を守るものは何でしょう? それは霊性です。何ものにも還元できない「不可視」を視る力です。

ボランティアは「ボランティア」と言えば、もうそれは何かにからめ取られているような気がします。介護もそうですね。声高に叫べば叫ぶほど、「介護」になってしまいます。
自然をあるがままにという環境保護運動が盛んななかで、自然に死ねない唯一の動物である「人間」は、またもや「介護」という不自然を作ろうとしています。あいまいさ、無意味こそ「霊性」です。私たちはあいまいさや無意味に耐えることが必要です。いや、それは決して「耐える」ことではありません。そこを生きることです。

常に人は問われているのでしょう。「生きているか」と。



■「遺体と遺伝子」を読んで                             99年10月
                                        
                                  佐藤進持 Shinji65@msn.com


主幹、こんにちは。

 この前は拙文を貴掲示板に載せていただきありがとうございました。毎日、「日々の勤行」のごとく、「主幹の主観」をありがたく一つ一つ読ませていただいております。ところで、その中の「遺体と遺伝子」を読んで、私は驚いて、言葉を失ってしまいました(今般の「スピード」解散以上のショックです)。以下は主幹のお言葉です。

 「進化」という表現をすれば、あたかもそこに「目的なり方向性といったものが存在するかのごとく」といった誤解を与えてしまう恐れがある。生物は、この38億年の間、ただ単に「新化(変化)」しただけである。そこには、何ら(崇高な)目的もなければ使命もない。

 これは、唯物論者の発言ではないでしょうか? 偉大な宗教者である主幹のお言葉とは思えません!

 私自身今現在、進化論者でもなく、またその対極の創造論者でもなく、判断を決め兼ねている状況ですが、少なくとも、人間を含めた生物は「合目的存在」であり、何らかの「設計」があって作られた(もしくは、自ら成った)と信じています。

 また、私自身の話に戻って恐縮ですが、誰もが中学校で初めて習うダーウィンの進化論の「突然変異」や「自然淘汰」(要はある日偶然変化した種の内、環境に適応した者が生き残り、今に至るという説)を打ち砕いたのは、成人して初めて行ったバプテスト教会の牧師でした。曰く、「人間というのは、例えれば今の技術では作り得ないような「精密機械」であり、これが突然変異ような「偶然」によって、できる訳がない。そこには、必ず設計者(神)がいてこそできるものである。だから、聖書は真実であり、神が6日間で云々・・・・。」 
 
確かに、言っていることはわからないではないけど、「進化」でなければ、「神による創造(しかもキリスト教の神)」というのは、どうも安直な気がして受け入れられませんでした。なんとなく、「地球が落っこちないのは、大きな男がささえているため」、と考えた古代人(ギリシャ人?)の発想のように、分からないからと言っ
て、人間(or人格化された神)のせいにしてしまうように思えました。そして、20世紀末の今、「昔の人は、地球が落っこちないのは大きな人がささえている、と考えていたんだよ」とお父さん(別にお母さんでも構いませんが)が言って、子供達が一斉に「ばっかじゃない!」と笑うように、将来(30世紀末くらい?)のお父さん
達(同上)が「昔の人は神が生き物を作ったと思っていたんだよ」と言って、将来の子供達に「ばっかじゃない!」と笑われる風景が頭に浮かんで来て気が気ではありませんでした(私は人に笑われるのは好きではありません)。 ということで、せっかく出会った創造論も、キリスト教との結びつきによって、受け入れることは難しくなりました。

 ところで、今年の夏、私は鼻中隔(左右の鼻孔を分けている鼻の真中の壁)矯正手術のため、10日間病院に入院しました。下世話な話で恐縮ですが、この時の入院でしみじみ思ったのは、「人間の体っていうのは、本当によくできているなあ・・・。」ということです。「鼻毛」が気管への異物の侵入を阻止するために生えている
ことは、ご存知でしょう。しかし、医者が治療のために私の鼻の奥に医療器具を入れると、即座にくしゃみが出てくるのです。つまり、鼻毛による障害を乗り越えて入ってきた異物を外に排除するために、くしゃみが出てくるわけです。また、異物が鼻の中で「捕獲」された際にも、それを指で容易に取り出せるよう、鼻中隔は柔軟性のある軟骨になっているのです。

 そこで、私は思いました。自分が自分自身の体をこのように作った覚えはない。千葉の両親も同様だろう。では、その先祖はどうか? やはり同じだろう。ということは、誰が? 

 ある日、我々の祖先に偶然に鼻毛が生えてきて、しかも異物をくしゃみによって排除する反射システムができ、異物が入っても指で取り除けるように鼻中隔が軟骨になり、そして、そうならなかった種は滅んだ、などという下世話な話を誰が信じるだろう? まあ、今回は不幸にして、私が「鼻の手術」という世間的にはあまり高尚でない体験をしたので(ごめんなさい。決して、耳鼻科が高尚でないと、言っているのではありません!)、せっかくの神学的な話もレベルダウンしてしまい残念ですが、恐らく耳鼻科以外の医療に携わる方の中にも同じような感慨を持たれている方がたくさん、いらっしゃるのではないでしょうか?

 また、これはあるNHKの教育番組で生物学者が言っていたことですが、「人間の言語能力とは聴力、発話力それぞれの高度な発達とコンビネーションを必要とする極めて複雑なシステムであるが、人類の祖先が会話というものを始める何万年か前に、その能力は既に備わっていた。しかし、それにもかかわらず人類は何万年間かその能力を使わず、沈黙を続けていた。」とのことです。この学者は別に創造論者ではなかったので淡々と事実を語っていましたが、私は自分なりに、人類にはあらかじめ言語能力は組み込まれていたが、それに気づかず、言語が必要になる程、集団性が発達した段階で、この能力に気づき、活用しだしたのだ、と解釈しました。当面それを必要としなかった人類に言語能力がそなわったのも、偶然と言えるでしょうか? 
人間の言語能力は現在のスーパー・コンピューター以上の精密機器ですが、それが何の設計もなく偶然にできるなんてことがあり得るんでしょうか?

 ここで、バプテスト教会(聖書にあったことは本当にあったことと信じていることで有名)の牧師の登場です。「いっ、ひっ、ひっ、ひっ・・・・。」、 「やっぱり、神はいるのだ!」、「人間は神が創ったのだ!」と。

 しかし、私は先ほども申しあげましたとおり、今原因が分からないからと言って、人格神のせいにするのは、どうしても人類が過去から繰り返している過ちのような気がして、安易に納得することができないのです。だから、ここでは「創造」の主体となるモノを遠藤周作式にあえて「X(エックス)」としましょう。

 Xはとりあえず、キリスト教等の啓示宗教の人格神とは定義しません。そもそも「人格神」というもの自体が、「人間に似せて神を作った」ようでおかしいですよね。それに、西洋人のクリスチャンの友人によると、神のイメージというのは、我々人間と等身大(175cm位?)だそうです(私自身は、「神」と言えば、とりあえず30mくらいの大男で、人間を見下ろしているもののように思っていたんですが・・・)。その普通の人間みたいなのが、6日間で全宇宙を作ってしまう、というんですから。これは、我々の考えを超えた「そんざい」ですね。

 そういうところから考えても、人格神なんて、「あまりに人間的発想」ですよね。それに、最近の心理学や、精神医学の研究によって、我々が従来信じてきた「人格」という概念もかなり怪しいものになってきました。具体的に言えば、解離性同一性障害(いわゆる「多重人格」)では、一人の人間の中に、性別、性格、価値観、趣向etc・・の違ういくつもの人格が存在しうる。また、もっと卑近な例では、夢の中に出てくる自分以外の出演者は、みな他人でそれぞれの意思を持っており、その行動は予測不可能だけど、実際自分の夢なんだから、その他人を操っているのも実は自分自身であり、一人の人間がいくつもの人格を持ち得ることが良く分かります。こんな時代に「人格神」などと呼んで、むしろXに人間のように人格が存在していると主張し、しかもその人格を一つに定義(狭めて)してしまうなんて、まったっくナンセンスですよね。もともと、人格というのは、手や足のように、人間が生活をするために作り出したもので、禅の「無我の境地」になって、初めて人間とは何か理解できるのかも知れませんね。 という訳で、私にとって、創造の主体となるXは、非人格的存在です。
 
 ところで、今まで創造論の方から、話を進めて来ましたが、だからと言って、私は進化論の可能性を否定しているわけではありません。ただし、その場合でもはやり進化は「合目的」だということです。

 先に、私の「鼻」を使って説明しましたとおり、現在の人間の体というものは、合目的的(つまり機能的)であり、したがって、それを作った進化自体も合目的的であるはずです。先ほどと同じような例で説明しますと、まず鼻を含めた人体の諸機能は、偶然でできたとは考えられず、進化してできたにしても、そこにはなんらかの方向性があったことは明らかです。ですからここでも、進化の担い手となる「X」が必要なのです(創造論の場合とゴッチャになるので、X(2)としますか)。

 ただし、それでもやはりルドルフ・シュタイナーが唱えたように、人格神が進化の担い手になった、といっている訳ではありません。X(2)はX同様、他の可能性も有します。では、一体どんな可能性が? たとえば、人間自身の気づかないサイコ・パワーによってなったとか。その場合、例えばある先祖が、「どうも鼻にものが詰まるので、鼻毛が生えろ!」とか祈ることですが、それもおそらくその先祖自身に変化は起きなく、その何百代、何千代先に変化が現れるとすると、そのような「祈り」を子々孫々まで伝える形而上的なルートと、その「祈り」を形に変えるプロセスの存在が仮定され、それをX(2)と呼ぶべきかもしれません。 
 
そして、先ほどの言語能力の獲得の話に戻りますと、実際に言語能力を必要とする何万年か前に、既にその必要性に気づき、将来のために言語関係の脳や器官を発達させたということになり、X(2)は驚くべき知性を備えた、世代間に無意識に伝達される何か、ということになります。

 ところで、最近では、ウィルスによって遺伝子の組換えが起こり、進化がもたらされる、という説が有力だそうですが、その手段がなんであれ進化が個体の機能性の向上(または不要な機能は削除)という合目的的に行われていることは明白であり、いずれにしても我々は合目的性を説明するためにX(2)の存在を必要とするのです(でなければ、ウィルス自体が合目的的に我々の体を変えてくれたことになってしまいます)。

 以上、長々とすいませんでした。私の言いたいことは一つ。「進化するならば、それは崇高な目的と方向性を持っている」




■佐藤進持さんへのお答え                                   99年10月 8日   
                         
拝 復  ご丁寧なコメンタリーありがとうございました。ご質問へのお答えですが、私は誤解を恐れずに言うなら「唯物論」者であるかもしれません。世間一般で言われているような意味で、「唯物論」と「唯神論(決定論・合目的論)」という2分法を採用するなら、間違いなく「唯物論」です。幽霊・お化け、オカルトの類は、もちろん否定していますし、それどころか、世間一般で認識されているレベルでの「神仏」すら存在を否定しています。
 
このように書くと、「ほんならなんで宗教家なんかやってんねん?(興奮すると、大阪弁になる)」と突っ込まれそうですが、そこにこそ、私の宗教(文化でも、言語でもいい)理解の根源があるからです。このことを詳しく書くと、数時間を要してしまうので、はしょって書きます。結論からいうと、「宗教は、山川草木と同じような物質的存在とは異質な、人間存在が創り出した「概念」である」ということです。地球上に恐竜が闊歩した時代でも、今と同じように山川草木は存在しましたが、そこには神仏が存在しなかったことは明らかです。その意味で、宗教は言語(体系)と同様、人間が創り出した概念世界(体系)です。
 
この件については、1年以上前に、Yahoo かなにかのチャット覧で論争をしたことがありますが、ほとんどの参加者が、その意味をよう理解できなかったので(それ故に、相変わらず訳の分からないインチキ宗教に騙される人が多い)論争を止めてしまった記憶があります。

 旧約『創世記』に書かれたお話は、半分は正解ですが、半分は不正解です。最初に、海山川が出来て、次に鳥や獣が出来て、最後に人間が出来た。この部分は、まったく正解です。ここからが違うのです。6日目にアダム(人間存在)が出来て、7日目にその人間存在が「神」を創り出したのです。その意味で「Imago Dei(神
の似姿)」ならぬ「Imago Homi(人の似姿)」です。その後、アダムが万物に名前を付ける場面(その全てを神が「よし」とされる)がありますが、これは、まさしく人間による世界の概念化を象徴しているのです。
 
概念化の営みによって、人は、外部にある山川草木を内在化することに成功した(動物の一種に過ぎなかったヒトが「人間存在」になり得た)のです。神仏の概念や言語体系の創出も同じ根っこです。例えば、郵便ポストもトマトも「赤い」という概念では共通項があります。唯物論的にいえば、ポストは金属でトマトは有機物です。「赤い」という概念は、その全く異質な両者を繋ぐことすら可能なのです。この力は、ほぼ「万能」ということが出来ます。もちろん、これらの壮大な体系が「言語」です。
 
ならば、「神仏は人間の創りものだから意味がないのか?」という声が聞こえて来そうですが、答えは正反対です。「創りもの」だからこそ、重要なのです。フランス語や日本語といった言語の意味と重要性を考えてみれば解ります。言語は物質ではありません(唯物論的には存在しない)が、人間存在は言語を抜きに成立しません。しかも、それぞれの言語は、何千年か前に造られたものであることは間違いないのですが、個々の人間にとっては、それはあたかも、自分が生まれる前からそこに山川が存在するように、「存在(外在)」し、それを習得することによって「内在化」しなければならないモノなのです。宗教も同様です。
 
その意味で、宗教や言語は、ヒトが人間であるために欠くことのできない重要な要素なのです。拙「主幹の主観」シリーズを順次、読んでいただくと、あるときは大真面目に、またあるときは、茶化しながら、この問題について、縷々論じております。いずれ、「主幹の主観」シリーズを再開したら、本問題についても書いてみたいと思います。
本日のところは、この辺で・・・。                             合 掌 
                            レルネット主幹
                              三宅善信 拝


99/10/02 

キリスト教って、不思議です
佐藤進持 Shinji Sato
e-mail:Shinji65@msn.com

                                                    

 主幹、こんにちは、いつも楽しく拝見させていただいております。私は34歳の公務員です。まだ、全部読ませていただいていないのですが、「ウルトラマンに見る親鸞思想」は絶品ですね。お蔭様で、「二種の回向」等、今までぴんと来なかった浄土思想の概念が良く理解できました。また、「法華経は学園ドラマ」も楽しいですね。
GTO(ク゛レート・ティーチャー・オシャカサマ)は久しぶりに聞く面白いしゃれですね。続編が待ち遠しいです(まさか、これで終わりじゃないでしょうね?)。

ところで、私は宗教、特にキリスト教に興味があって、独学で勉強したり、教会の礼拝に参加したりしたのですが、どうしても神の臨在というものを感じることができませんでした。特に贖罪というものが納得できず、イエスは魅力的な人だとは思うけれど、なんで、イエストの十字架上の死が贖罪をもたらすのか????」とまったでした。また「イエスの十字架の死を信じることにより、皆さんの罪はあがなわれる」と牧師さんはおっしゃるのですが、「なんで、現代人が今犯した罪が、昔の人の贖いによって、許されるのか? それでは、罪の前に贖いがあることになってしまう。時間的に逆だ!」と常識的に考えておりました。

 ところが、2、3年前のある日、コタツでうたた寝をしていたら、夢の中に十字架で苦しむイエスが出てきたのです。そして、それは一こまの短い夢(30秒から1分位か)でしたが、私は一瞬にして、「イエスが人類(昔&今の)のために死んでくれた。」ということを直感的に理解し、「イエスよありがとう!」と感謝して、眼をさ
ましたのでした。枕は涙でビショビショになっておりました。
 
普通なら、ここでキリスト教に目覚めて、洗礼を受け、後半生をクリスチャンとして、送ることでしょう。しかし、私は自分の身に起こることは、否定も肯定もせず、たんたんと受け入れるようにしてますので、「ああ、そんなこともあったなあ」と今まで通りの日々を送っております。
 
ところで、私のような体験は世界中の何十億人のクリスチャンが体験したことなんでしょう(使徒パウロも含めて)。私のような不信心な者にも起こるところをみると、ひょっとして、「キリストの十字架の死による贖い」というのは、何か各人の心(or脳?)の中にそれを受け入れるための「原型」のようなものが生得的に備わっているのでしょうか? でなければ、あんな論理的に訳の分からない考えが、何十億の人々に信じられていることを理解することはできません。

もちろん、だからと言って私は、イエスはやっぱり神の子で、自分の死を理解させるために、すべての人間(or予定調和的に言えば、自らが選んだ一部の人間)の頭の中にあらかじめ、そのような原型をカードチップのように埋め込んでいる、などと申しているのではありません(ただし、この考えも可能性のひとつとして否定はしま
せん)。ひょっとして、そのような原型を初めて利用したのが、イエスだったのではないか、ということです。そういう意味では、イエスはこの原型の特許取得者ですね。
 
ところで、今でもふとあの夢を見たときと同じような心理状態になるときがあり(夢は見ませんが)、そうなると急に「神の臨在」を感じて幸福になり、人間はみな神に愛されており、兄弟であると感じ、道を歩いていても、すれ違う人、一人一人が愛しく思えるのです。おそらくクリスチャンの人は、いつもこんな風に感じているんだな、ということを実体験できるのです。ただし、このような体験もいつも、長続きせず、普通の私に戻ってしまうのでした。なんか、3分間しかもたないウルトラマンじゃなくて、「クリスチャンマン」という感じですね。
それでは、また。



99/08/16
萬遜樹 mansonge@geocities.co.jp

「8月の鎮魂歌」を拝読しました。
久々の民俗ものですね。

8月は「葬り月」とは、これまた秀抜なお考えです。
たいへんおもしろく読ませていただきました。

おっしゃる通り、8月には鎮魂行事がめじろ押しです。
なぜかと考え込まざるを得ないですね。

私は「一年二周期」論者ですので、神や霊の大きな出入りの時期は正月と盆と考え、正月には神祭りが、盆には死霊祭りが重点的に割り当てられたと考えています。

夏の高校野球の神聖性は、これが日本の祭りの神前試合(あるいは地方神の戦い)であるからだと私は思っています。それが8月に行なわれることによって、古来からの魂祭り(鎮魂祭)に取り込まれていったのだと思います。

それにしても摩訶不思議なことは、偶然というか必然と言うか、終戦記念日が8月15日であることです。まさに8月は「葬り月」と言わざるを得ないですね。

最後の遺体志向は、日本人の心身観に思いを致すべき明証ですよね、臓器移植問題などにつながる。
改めて日本の聖性の危機を憂えます。

しかしながら、正月の空気と「葬り月」の空気を呼吸する限り、私たちは日本人ですね。そんな思いにさせていただいた一文でした。


99/06/23
金子 昭(天理大学助教授)

貴稿『女帝、アジアにおける安定装置』をたいへん興味深く拝見致しました。この三宅氏の世界をまたにかけるご活躍の一端をもあわせて感嘆の思い出よませて頂きました。以下は感想のコメントです。

* イスラム世界では、我々日本人にとってなじみがなく、なかなか理解しにくい部分が多いのですが、モンスーン地帯のイスラム教徒は、複数の価値観を許容する傾向があるという指摘には、ハットさせられました。いみじくも現実的と書かれていますが、モンスーン気候の現実世界がイスラムのall or nothingの思考を、かくも柔軟にさせるのでしょうか。「風土」は「教義」に優越する点が興味深いところでした。

* アジアの「女帝」は、たしかに「男女同権」の欧米よりもじつはアジアの女性たちのほうが、遥かに先を行っていると思えなくもないのですが、問題は「女帝」(女性の帝王)となってしまっているところにあるでしょう。したがって政府の安定装置も、停滞要因でもあるといえなくはありません。一族が富と権力を独占するというのは、トップが男性であれ女性であれ、やはり良い政治体制とは思われません。


* 娘もまた母親となります。女帝はさしずめ国民の母親ということになるでしょうか。政権が安定している状態は、子供である国民が母親の膝でおとなしく遊んでいる状態ともいえますし、そのためにいつまでたっても反抗できないフラストレーションが水面下でたまっていてっている時期だともいえるように思われます。


イミングが良すぎる不審船騒動」を読んで(99/04/18)        猫左右衛門
私は「主幹の主観」を興味深く読ませて頂いております。  今回 不審船 事件についての主幹の見解は私の感じたことにとても近いものでした。 ところで、この事件をさらに次のようにみると面白いと思いますがいかがでしょう?

 戦前においてドイツとソ連は極秘裏にラッパロ協定というものを締結し軍事協力を行っていた。 今の日本と北朝鮮の間にもこれに類似する秘密協定があるのではないか。

1,日本と北朝鮮は共同で核兵器を開発することにした。
2,動燃の事故に見せ掛けて日本は大量のプルトニウムをアメリカの目を盗んで運びだした。
3,北朝鮮の船に載せて、北朝鮮に輸送した。
4.日本は追跡を装ってその船を北朝鮮の領海近くまで護衛していった。
5.それをカムフラージュするためと、第三国の妨害を排除するために公海上で射撃や爆弾の投下を行った。 

常識的に考えると荒唐無稽ですが、日本も自国の利益を考えて、裏でこのくらいのことをやってて欲しいな、と感じないこともない今日このごろです。




 萬 遜樹

○なぜ怪獣は日本ばかり襲うのか

三宅主幹の「ガメラ3」の正続二編を読んだ。「レルネット」愛好者の皆さまはよくご存知の通りだが、主幹はこれまでにも「ウルトラマン」や「ゴジラ」などを通じて、人間の、また日本人の宗教観や精神文化を論じてこられた。 今回は「ガメラ3」である。いつもそうだが、主幹のお人柄が表れるユーモアたっぷりな語り口に、ついつい引き込まれてしまう。「続編」を待ち焦がれていたのは私ばかりではないだろう。 しかしながら、主幹の「怪獣シリーズ」は、たっぷりと「毒」と「哲学」を含んだエッセイでもある。残念ながら、私はまだ「ガメラ3」をみていないので、どこまでが「映画」でどこからが主幹の筆によるものかは分別しかねるが、以下何点かについて感想あるいは意見を少し述べたい。


1.怪獣とは何か 

怪獣とは何か、という問いはおもしろい。主幹(あるいは映画)は「環境維持装置」だと言う。特権化し増殖しすぎた人間に対する自然の「反作用」である。誰にも補食されないヒトを補職するギャオスという考えは、人間の存在を相対化してしまうものである。これは実はなかなか日本的な考え方であり、少なくとも一神教の風土にはないものである。このことは「なぜ怪獣は日本ばかり襲うのか」の答えにもつながる。


2.正義の怪獣論 

「正義論」は主幹のお得意の一つだが、正義の怪獣たち(ガメラ、ゴジラなど)、ウルトラマンなどのヒーローたちの「正義性」が鋭く問われている。正義のNATO軍のセルビア攻撃が具体例としてあげられているが、正義の怪獣やウルトラマンたちも絶対的な暴虐性をもっている。それは避け難いものなのだ。そういう意味で、正義の原爆、正義の戦争などと同様、「正義の怪獣」もあり得ないのではないか、と。御意である。 余談であるが、私もテレビのヒーローたちにやっつけられた悪役たちの家族の生活、水戸黄門様に成敗された代官や小役人たちの家族の生活が気になって仕方がない。

3.神の依り代としての女性

ガメラが「反ギャオスの依り代」だとある。そしてこれに関連して、神の依り代としての女性が紹介されている。これを発展させて言えば、女性とは神そのものである。それは、地母神であり、大地や山の神の正体は女性である。霊山への「女人禁制」とは、実は「女性には無用」という意味なのだ。男性は女性=神ではない故に、神に詣でねばならないのだ。「ガメラ」に出て来る「地球の意志」とは女性の意志である。反正義論や反戦争論は女性の意志である。

4.なぜ怪獣は日本ばかり襲うのか

美女・美少女フェロモンだという珍説も披露されているが、これはさておき、日本海溝に「ガメラの墓場」があって、これが反ガメラ=ギャオスを呼ぶと言う。しかしこれは象徴的なもの言いである。正しくは、アニミズム風土の日本にこそ上記のような性格をもった、正邪の「怪獣」や「ヒーロー」たちが参集するのであろう。すなわち、日本人の宗教観や精神文化の「中」にこそ彼らが棲むことが可能なのだ。「怪獣」たちが死滅するとき、「日本人」も死滅するであろう、とは私の予言である。 以上、はなはだ身勝手、我田引水なものとなったが、これも一感想文としてお許しあれ。




Inter-religious Dialogue… を読んで(99/02/04)
 
Steven Kusumi, 会社役員

I read with great interest your dissertation. As a layman on the subject, I just had a few comments/thoughts that I wanted to pass on to you.

Regarding your statement: "Public institutions have completely severed their ties from religion, and religion is not allowed to interfere in political or economic decision-making processes. It is believed, in Japan, that religion belongs exclusively to the private realm. Conflict over religious differences or indeed religious conflict between states and peoples is unimaginable." I would imagine people in the West are going to be curious about the influence of the Komeito in Japanese political circles and also the recent troubles in Japan with the Aum sect. Perhaps it would be prudent to clarify your statements vis-a-vis these elements of Japanese society.

My own understanding of the basic concepts of your thesis is that there are three major categorizations of socioeconomic institutions in the world: Political, Economic and Cultural. Representative institutions of these three types are the nation state, multinational business, and religious groups. The objective of each and the measure of success in reaching this objective are as follows:

Nation State: Security from the advances of other nation states. Success measured by the size of territory or spheres of influence.

Multinational Corporation: Maximization of material wealth. Success measured by the amount of cash amassed or possibly the valuation of its stock.

Religious Group: Deliverance from fear of the unknown and unknowable. Success measured by the number of followers of the faith(or the degree to which a common faith is shared).

I think that what you are trying to say is that each of these three sectors are faced with having to deal with issues that span the borders of any single entity within each sector; and therefore, in order to deal with these issues, these entities are having to grapple with the meaning of globalization.

My understanding is that you feel the economic sector has had the most success with globalization because of the existence of currency which has served as the basis of common understanding.

If globalization is the emphasis of commonalities as opposed to differences, then I wonder what basic commonalities amongst the various faiths of the world can be emphasized in order to achieve globalization of religious followings, which then in turn will serve as the foundation from which problems and issues that trouble the world can be addressed. Isn't it a pity that people are so quick to focus on differences as a reason to quarrel than to confirm what they have in common so that they may collaborate to produce something positive.

I suppose it would be both arrogant and naive to think that such a degree of understanding will be easily achieved or that indeed it is achievable at all. I take it that the question that you are still trying to answer in your work with the WCRP is how to achieve this globalization across religious borders. It will also be interesting to see how issues will span the borders of the categories themselves, i.e. political, economic, religious.
 


Thanks from Italy(99/01/31)
Magdy REDA

Dear Mr. Miyake
My name is Magdy REDA from Italy. I'd like to thank you for the interesting articles you wrote on RELNET; during the Desert Fox I was looking over Internet for different points of view over the American attack, being bored to listen to the propaganda coming from Tv, radio and newspapers...as it happened during Desert Storm, all the news seemed to come from the same direction.

I am Arabic origin, now Italian and Catholic, and married with Shinobu, a splendid woman coming from your country who helped me in reading your articles; being multi-ethnic I am not fixed on one truth good for all humanity but I try to find the good in every idea, every religion. I am very negative over United States of America and their politics, but it is very rear to find any person, any tv program, any newspaper having my same idea. So, I was very happy to find your web page...full of great ideas and intelligent notes.

I feel it is very dangerous today to be against ideas like Euro, globalization, economy, genetic engineering and so on...do you remember that man who entered the Japanese Stock Market shouting against United States and economy? It was said he was crazy, but look at the Japanese situation today; all the things you built during last 50 years are taken by United States, Japanese politicians are bowing to the IMF and are opening the country to American products and culture; more US TV programs, more satellite channels are brainwashing women and new generations to follow the American way of life, destroing Japanese culture, values, families. And the same is happening here in Europe, media are repeating and repeating how great is Euro, how great is to be united...but they forget to say that United States put salad, tomato, onion and hamburger all together in one sandwich so to eat it more easily...well, now US are doing the same with Europe: instead of eating a country after the other, they are putting all of us together, happily, so to eat all of us more easily. What about China? They think they can take the American way of life keeping their ideology...and this is the illusion US is giving to them; and today a very small news from China gave me the confirmation of that: it has been canceled the crime against the Mao revolution...that means Mao revolution is not anymore their universal ideology...small changes to be seen in the long period!! Nothing to say about Russia...it is so clear to everybody that they count nothing anymore: even during last bombing of Iraq they couln't say much, waiting for money coming from United States. South America has no power, and most of Arab countries are lead by puppets like Egypt, Marocco, Tunis, Arab Gulf countries and so on.

What is the connection between all this and religion? Well, first I'd like to make distinction between Christians and Catholics...you were absolutely right to say that white Christians feel superior, that they feel supported by God in any their action, and that is the same feeling as Jews have, they are the choosen people by God, they are superior, they can do anything because this is their land...all. At the other side there are Catholics...of course they made the same mistakes for hundred of years, and today Catholics are very poor in religion, ideals and traditions, taken away by values like money, sex, freedom and so on. But if you see well, today the Pope of Rome is the only power that in every situation try to talk against economy, globalization, false freedom...against all those false idols that Capitalism is giving to all of us. Everyday the Vatican is under attack for its position, from media, from political groups, even from Catholics themself. Vatican is the last and only world power remaining in front of Unted States before having the control over the world. Today more than ever we are having a war of religion, but nobody is noticing it!!!!!

A question to you: did you notice which religious sign happear on the 1 US dollar?

Thanks for reading.
Magdy REDA



「老いを生きる」を読んで(99/01/21)  
 丹下 学

「老いを生きる」拝見させて頂きました。  

老いの問題は釈尊のいう、この娑婆世界は苦であるという認識から出発していると勉強しました。つまり、この世界は生老病死の苦に満ちているということですね。人間は生きる苦しみ、老いの苦しみ、病の苦しみ、死の苦しみの4つ大きな苦しみがあるというわけですね。この人間の四大苦の原因は何か? と釈尊は考えたのではないでしょうか? 釈尊は苦の原因は愛欲にある・・・という結論を見出した。この愛欲から脱却することによって、4大苦から解放されると。ではその愛欲から脱却するにはどうしたらよいのであろうか? ということで、ここに諦観というあきらめの思想が出てくるのでしょうね。愛欲を放っておいてはいけない。愛欲は我欲である。

我欲は執着を呼ぶ。とうことで、愛欲からの自由を諦観に求めたものでしょう。迷いから自由になるということですね。この諦観とは小さい乗り物ですよね。小さい乗り物で彼の岸を目指す。小さいから誰でも乗れるというものではない。乗る人は限られてしまう。女の人なんか乗れるかどうかわからない。ひょっとしたら、ほとんど男ばかりで、その男たちは女の人を乗せるのは嫌がるかもしれない。そういうものなのでしょうね。つまり求道者専用の智慧の乗り物ですね。

これが釈尊が最初にやった”人間”の見方なのかもしれませんね。釈尊は、求道者専用の見方、進み方を説かれたのでしょうね。 以上です。ちょっと自信ありませんが・・・・。また、勉強させて頂きます。よろしくお願いします。



「『タイタニック』にみる宗教性」への感想
  ふるさわすみこ,北海道大学
なかなか面白いと思った。タイタニックの映画をそんな風に捉えるというのは。 

日本では、特に宗教という言葉は独特の雰囲気を持つ。他の国では自然なことが、日本では不自然に響くような気がすることがある。 本来、神を想うことも、先祖を大事にすることも、土地神に感謝することも、自然なことだ。 

信仰する者にしか神はいないのか? 信じる者にしか、魂はないのか? 敬う者しか、先祖は護らないのか? そんなことはない。なにしろ、彼ら(?)は現実に存在するのだから。ちゃんと側にいるし、喜びも悲しみもする。語り掛けもするし、返事もしてくださる。ただ、気づくか気づかないかだけで。 

空気の存在に、気づくか気づかないか。地球が丸いことを知るか知らないか。ただ、それだけのことなのだ。 本当は、誰もが知っている。自分の生きる意味、自分の成すべき事、何がしたいのか、どう生きたいのか。ただ、しがらみや習慣や常識が、因縁や業が、鎖となり欲になり、見えないだけのことだ。あるいは、見ようとしないだけのことだ。 

今の時代が殺伐としているのは誰だって気づいている。それは、裏を返せば、殺伐としていないからだ。悪人なんてどこにもいない。このたった一つの宇宙は、絶妙なバランスから成り立っていて、不必要なものは何一つない。いらない命など、どこにもない。何をするからでも、どうであるからでもなく、その存在そのものがかけがえのないものなのだ。 

だが、人はただ生きているだけでは満足しない。それは当然のことだ。我々は皆、一人一人に自己使命がありそれを成さなければいけないことを知っている。 

宗教は、最終的にはたった一つのことにいきつく。欲に駆られたものでなければ否、それは最早宗教とは呼べないが、言っている事はただ一つである。あらゆる時代、あらゆる土地を超えてただ一つの事である。 

科学文明の世の中は、人の心を寂しいものに変えてしまった。人は、自分たちが作り上げた社会と常識の中に閉じ込められてしまった。いや、閉じ込められた振りをしているだけかもしれない。 

見えないもの、聞こえないもの、触れられないもの。証明できないものは全て、否定してしまった。見ようとしないものは見えない、聴こうとしない音は聞えない。同じように、観じようとしないものは感じる事ができない。誰だって、分かることだ。心の眼を開いたら。 

神と人との間に、境界なんてない。違うのは、真心と信の深さだ。裏切られても、傷ついてもなお絶える事のない愛のひろさだ。万物・万霊を貫く、魂の震えるような慈悲を感じた事があるだろうか。慈悲とはなぜ「慈悲」と書くのか。「慈しみ」そしてそこには「悲しみ」がある。歓喜と、深い悲しみの涙が、己の魂の底より湧き出て、胸が痛くて仕方がないほどに。 

でも、知識に凝り固まった人々は、素直に心の眼を開く事ができない。観じようともしない。求めずして得られるものなど、あるはずがないのに。先入観の色眼鏡で自分を縛ったら、本当の自分さえ見えなくなり、本当の心さえ分からなくなるのに。 

どんな丈夫な木でも、やがて葉は枯れ土に返る。いずれは寿命が来て朽ち果てる。それは、終末であるが、免れない事だ。形あるものは、いつか滅びるのが宇宙の定めである。 

世紀末の思想に立つわけではないが、宗教や社会、政治などにいくら建て直しを求めたところで、それが老木なら、死期をわずかに伸ばすか、逆に早めるだけのことだ。自然に倒れるのを待つのか、嵐でも起こして根こそぎ作りかえるのか。それは、人の預かり知るところではない。 

地球の地軸が定期的に逆転する事は、すでに証明されている。一億年にもわたって繁栄したといわれる恐竜は、短期間に滅んでしまった。何が、いつ起こるのかは、誰にもわからない。 

だが、何の前触れもなく起こしたりはしないだろう。救いたいから、助けたいから。本当の自分に気づいてほしいから。何がために生まれ、何が為に生きるのか。そうして本当の幸せをつかんでほしいから。 

今、宇宙には、深い祈りと悲しみが満ちている。「心の眼」を開いて、何の因縁も業もなくしがらみや習慣にとらわれない自由な本来の姿に戻れば、そこには書物や教えはいらず、この世もあの世も、天界もなく、神と人とあらゆる魂とがすぐ身近に響き会う宇宙を感じる事ができるのだ。ただ、求めるか求めないのか、それだけの違いである。