政教分離の常識vs非常識。

アメリカ映画の裁判のシーンで証人が出てくると、お決まりの、「あなたは真実のみを語ることを誓いますか?」という、あれ、出てくる。聖書の上に片手を置いて、もう一方の手は顔の横くらいまで上げて。そう、そうすることに決まってる。でも、ちょっとまって。あれって、新約聖書? 旧約じゃないよね? でも、イスラム教徒のアメリカ人が証言する時はどうするんだろう? 仏教徒は? 非キリスト教徒のために仏教の経典とかコーランとか用意してくれてるのかな? 「私はキリスト教じゃないけど、これは嘘つきませんって誓う時のお約束だから」って考える人も少なくないと思うけど、それなら片手上げるだけでことは済んじゃう。

そもそも、政教分離ってアメリカから輸入されたんじゃなかったの? 政治と宗教は分離しなきゃならないけど、司法と宗教は構わないのかな。「キミキミ、ちょっと待ちなさい」と善信先生がおっしゃった。「アメリカの大統領の就任式、見たことあるかい?」 (私)「ニュースとかで、ちょっとなら…」 実は、米国大統領も就任式で聖書に片手を置いて宣誓する。議会付の司祭によってお祈りも行なわれる。公立の学校ではモーゼの十戒が各教室に掲げられることになった。そう。キリスト教はアメリカの政治・社会と密接に結びついている。

でも、これは何も、アメリカに限ったことではなくて、世界的には珍しいことではない。ヨーロッパでは国が教会税を徴収して各教派に還元している国も少なくないし、教団名を全面に出している政党も多くの国に見られる。宗教の指導者がその国の政治に大きな影響力をもつことはままあるし(国教が存在するくらいだし)、宗教的指導者と政治的指導者が同一人物であることだってありえる。1999年11月に中東ヨルダン王国で世界宗教者平和会議(WCRP/世界のいろいろな宗教の指導者が集まって、相互理解の下に援助活動などを行なう地球規模のNGO)のホストはヨルダン国王だった。このWCRPは国連から「カテゴリー1」という区分けをされていて、国連の諮問的役割も果たしている。

ずっと前に聞いた話だけど(だから今はどうなっているか知らない)、中東などの信仰心の篤い国に行く時、入国票に宗教を問う欄があって、そこに「無宗教」なんて書くと「こいつは怪しい」って、いろいろ質問されるから、言葉に自信のない日本人はとりあえず「仏教徒」と書いておくと安心して通してくれるらしい。「うちのとこの国教と違うから入れてやんない」じゃなくて、「信ずる宗教を持っているからこの人はちゃんとした人。逆に宗教を持っていないなんてちょっと怪しい」と見られるらしい。

無宗教でも怪しまれないためには、何かの宗教を熱心に信じている人に負けないくらい真剣に、「こうだから無宗教」という、積極的な考えを持たなければならないんだと思う。それは他人の宗教やそれを信じる心を否定するのではなくて、「知る」ことなんだと思う。こんな風にちょっと視点を変えてみると、さっきのアメリカの裁判シーンだけじゃなくて、いろんなことが今までと違うように見えてくる。
宇根希英
                                       2000/2/20

戻る