石切探検!
                

あ…怪しい…! 何が怪しいと言って、生駒山の一角、石切神社(正式名称:石切劔箭神社〔イシキリツルギヤジンジャ〕)周辺の怪しいこと…。噂には聞いていたけど。この積極的で良い意味での怪しさ。あの混沌。何が何だか判らない。そこから湧き出るパワー。日本の朝市や他のアジア諸国のマーケットのような。あれは宗教だったのか? でも、そこで感じた何か懐かしいような感覚。何しろ、さっき帰ってきたところなので、まだ、石切パワーに圧倒されたまま、ボーッとしてしまう。あまりにも凄すぎてうまく言葉にまとめられないもどかしさを感じてしまう。

「一度見ておくべきだ」と言う三宅主幹に連れられて、石切神社周辺探検ツアーに出かけた。大阪市内から東へ電車で、ものの15分。大阪平野は急にせり上がり、生駒山・高安山が連なる金剛生駒国定公園となる。近鉄奈良線が生駒山を抜けるトンネルへと入ってしまう寸前、宅地開発と「やま」のぎりぎりの境界線辺りが、本日の目的地。ここで山側と里側に、全く異質でありながら深いところでは共通性を持ったふたつの顔を石切神社は見せてくれた。機会があったら、ぜひ、行くべき! 宗教に興味のある人はもちろん、社会学や人類学、心理学、マーケティングなどにも面白い研究材料を提供してくれるはず。


夢観音

さて、今日にも桜が開こうかという陽気の中、近鉄石切駅で山側へ下車、まずは石切夢観音へ登っていった。「観音さま? 神社の関係なのにどうして観音さまなんですか?」という私の問に対して三宅主幹が見せた微妙な笑みは「まだまだ、これから」という意味だったのか…。夢観音に着いてみると、そこに現れたのは、狛犬のような1対のペガサス! 階段を登るとモダンアートのような噴水と、神社にもお寺にも見えない、しかし、宗教色の濃い近代的な建物。屋根の上には金色の天女が舞っている。ううーむ。神社と観音様の謎は解けぬまま、ともかく先へ進んだ。

石切劔箭神社上之社を通り抜けると、細い山道と階段が続いていた。最初に現れたのは弘法大師像。なぜか癌を治す神様になっていて、いろいろな人が自分の名前を入れて奉納した石造りの案(あん=お供え物を乗せる台)やお線香たてが折り重なるように置いてある。次に、蛇が2匹絡みあった白龍大神。「首から上の守り神」と書いてあり、これまた誰かが後から置いたと見られる、「ボケよけの神様」だの、「入試の神様」という札が張ってある。(私も誰かさんのために、「育毛の神様」の札を貼ってきたかった。)更に、白龍大神と弁財天(!)を祀った社。その奥には、観音様の横に鳥居と小さな祠、そして「南無妙法蓮華経」と書かれた石板…。

何なの、これは! こんな節操のないというか、秩序がないというか、何でもありの霊山って…。しかも、平日にも関わらず、ひとつの祠の前には必ず数名の参拝者を見ることができる。これが伝統的な神参りの日である1日・15日や週末だと、人の途切れることはないそうだ。この日は、やはり平日のせいか、お年寄りがほとんどだったけれど、彼らはそこが何を司る神様かということなど、ほとんど考えずにお賽銭をほうり込んで掌を合せているように見えた。


頭の神様

思うに、彼らにとって、その神様が自分の願いと合った神様かどうかなどということは問題にならず、何の神様であろうと、願を掛けること自体に意味があるのだろう。それには理由がふたつあって、ひとつは、どんな神様もおろそかにはできないという気持ち。そしてもうひとつには、仮に足の病気を治したいと思っていても、そこに受験の神様や治水の神様がいれば、この神様たちにお願いしておけば、なんとか取次いでくれるだろうという思いがあるのではないだろうか。

だから、仏さまからいわゆる神道の神様、インドの神様、民間信仰の獣神、何か「神様的なもの」を手当たり次第に祀り、その結果、「何でもあり」になっているのでは…。そして、それらが集まることによって、何かおどろおどろしいような、でも、逆に研ぎ澄まされた空間が出来上っていた。唯一絶対のアッラーの神やヤーヴェの神を信じる人が見たら、卒倒してしまうかもしれない。でも、「あれもこれもそれも神様」という感覚は日本人にとって、まことに馴染みの深い、受け入れやすいものなんだろうな。そうでなければ、こんな霊山、存在しない。

話はまだ、始まったばかり。この後、石切駅の里側に下りて行き、さらに衝撃的な石切さんの姿を見ることになった。更には、この「やま」や「さと」を支えているパワー、「やま」や「さと」が発しているパワーについても書きたいことが山ほどある。

宇根希英
                                      2000/4/01

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