◆◇ 故三宅歳雄先生との思い出 ◇◆

 昨年8月31日逝去した故三宅歳雄師との思い出を綴ったメッセージが各界から次々と泉尾教会に寄せられ、機関誌『いずみ』に紹介されている。本サイトでは、これらのメッセージを順次転載する。


◆『三宅歳雄先生を偲んで』 妙道会教団会長 佐原慶治

                    
◆『惜別――三宅歳雄先生のこと――』 現代における宗教の役割研究会副会長  雲井昭善
                 
◆『バッハ博士と三宅先生が団長の渡米宗教使節団』 一燈園当番 西田多戈止
                                                     
◆『先代親先生と亡父左藤義詮』 衆議院議員 左藤 恵

◆学校法人清風学園理事長 平岡英信

◆『三宅歳雄先生との出会い』 英知大学学長 岸英司

◆『現代の覚者』 天理教本部員 明城大教会長 松井石根

◆『三宅歳雄先生を偲んで』学校法人大妻学院理事長 国際基督教大学元総長 中川秀恭

 

                                               


「三宅歳雄先生を偲んで」

学校法人清風学園理事長
平岡英信

三宅歳雄先生のご逝去を悼み、先生のご生前のご遺徳を偲びご冥福をお祈りしたいと存じます。

私と先生との出会いは今から三十数年前になります。亡父(平岡宕峯)から「国際的に活躍なさっている三宅さんと言う立派な宗教家がおられるので、いろいろご指導を仰ぎなさい」と紹介されました。早速、何も分からないまま大阪国際宗教同志会に参加させていただきました。会員の皆様の顔ぶれは、仏教・神道・キリスト教をはじめ儒教にいたるまで各方面にわたり感激いたしました。

例えば、仏教でもいろんな宗派の方々が、キリスト教はカソリックもプロテスタントも、神道はもちろん教派神道をふくめて幅広く、新宗教からもたくさん参加され、その多様性は他に類を見ないものでありました。

普通、宗教界の集まりといえば、同一の宗教の中でも特に同じ宗派内の集まりになりがちで、さらに同じ宗派でも本山が違えばほとんど交流がないのが実情であります。

現在全世界で起こっている争いは、その根源的なものをたどっていくと最後は宗教的な問題にぶつかります。それぞれの宗教は、お互いに争いのない世界平和を求めながら、その思想的バックボーンの違いから、最後はお互いに相容れないものとなり、離反していくわけです。一般常識から考えれば不思議に思われるかもしれませんが、このことは宗教のもっている本質的な問題でもあります。

そのような意味で、異なる宗教の者が相集い研鑚することは容易ではありません。それを見事に一つに纏めることが出来、更に、この運動を何十年と持続し発展出来たのは、三宅先生の大きなお心と、更に先生の世界平和を求める情熱と宗教家としての確固たる信念のなせる技であろうと確信いたします。

京都にある国際宗教同志会とは一味違う大阪の国際宗教同志会が出来ましたのも、先生のご尽力の賜物でした。参加者を大阪近郊に限定されたことによって、表面上にとどまらない、より親密な活動が起こり、活性化したのではないのでしょうか。

筆頭に上げられるものに韓国宗教界との交流があります。大阪国宗に刺激を受け、韓国の宗教界にも同じような組織ができました。仏教をはじめキリスト教・儒教などの異なった宗教から成る団体であります。

ご多分に漏れず、韓国の宗教界もいろいろと問題がありました。ある時、韓国の宗教界が分裂したことがありました。ちょうどその時期に日韓宗教者会議の開催の要請が韓国からありました。私はその事情を調べるために韓国に三宅先生のお使いとして行ったことがあります。

三宅先生は「いろいろ困難な問題があるだろうが、やることが大切なんだ。出来ることなら一部の不参加者があっても宗教者会議を是非開催できるよう話をまとめて欲しい」とおっしゃいました。私は内心、そんなに無理をしてまでやる必要があるのだろうかと若干疑問に思いましたが、先生の強いご意志に心動かされ何とか話をまとめてきました。結果的には三宅先生のご判断が正しかったように思います。あの時あきらめてしまっていたら、日韓宗教者会議の再開は非常に難しかったことでしょう。

ひとつの事業をやるには貪欲にその情熱を注ぐことが大切だと先生に教えていただきました。

また先生は、実に良く若い者の意見を聞いてくださいました。また主張の違う人の意見にも耳を傾ける度量をお持ちでした。ある時には全学連の闘士とお話になり、何とか彼らの主張を理解しようと努力されていました。自分と対極の立場の人にも実に根気良く意見を聞いておられました。これは泉尾教会の親先生としての日頃のご修行あったればこそとは思いますが、大変な忍耐力と精神力を必要とします。今思えば、相手の意見を素直に聞くという先生の姿勢が多くの人を惹きつけたのではなかろうかと思います。

告別式において、諸先輩からの三宅先生の様々の御功績を聞かせていただきました。その偉大さにただただ頭の下がる思いであります。まさに巨星堕つの感を抱きます。

三宅先生から多くのことを学びました。今、ご令息さまやお孫さまが先生のご意志をついでこの運動を続けておられます。

私もこの運動のお手伝いをさせていただき、大阪国際宗教同志会が世界人類のためによりお役に立つよう努力することが三宅先生に報いることだと思います。

先生、どうか安らかにお眠りください。




『三宅歳雄先生を偲んで』

妙道会教団会長 佐原慶治

 22年前の昭和52年11月。韓国・全羅北道の裡里でダイナマイト爆発事故が起こりました。

 当時、日韓宗教者協議会で三宅先生と親交を温めさせていただいておりましたので、私の脳裏には、真っ先にその会議での光景が浮かんでまいりました。事故がニュースに出るや、三宅先生からすぐに電話がかかってまいりました。「義援金を持って韓国に行きましょう」そのお言葉に、本門仏立宗の西村現淳先生と、一も二もなく出発することになりました。

 話は遡りますが、三宅先生と私の出会いは、昭和47年のWCRPハワイ会議の席上でした。当時、新日本宗教団体連合会顧問を務めておられた故大石秀典先生に勧めていただき、私は、ハワイ会議に参加することになりました。カイマナビーチホテルでは、毎朝、三宅先生、西村先生と食事をご一緒させていただき、気さくにお話をしていただきました。「地の利もあること。大阪出身の三人が力を合わせて宗教協力をさせていただきましょう。三宅先生の呼びかけに西村先生も私も笑顔で答えました。

 丁度、年格好は、三宅先生が私の二まわり上、そして、西村先生が私の一まわり上。信仰も、教派神道、仏教、新宗教と、それぞれ異にします。お話を伺い、私見を述べ、また教えを頂戴するには、絶妙の間柄といえました。

 私にすれば、西村先生は年の離れた兄、そして、三宅先生は父親といった存在でした。父親たる三宅先生は、誠に慈父たるありようで、折りにふれて御薫陶を賜り、お姿をとおして、無言の説法を頂戴することもありました。中でも忘れられないみ教えを、前述の韓国訪問の時にいただいたのです。

 冷気が身を切る十二月の韓国。三宅先生、西村先生、そして私は、裡里市に知事を訪ねました。日本から携えてきた義援金をお渡ししたのち、今は亡き圓光大学の朴総長はじめ、圓仏教の皆さんと会食する機会を頂戴し、教団本部施設を見学させていただきました。

 お別れの直前、圓仏教の先生方から、三宅先生の書の依頼がありました。

 快諾させた三宅先生は、一気に筆を振るわれました。墨痕も鮮やかに「捨てて捨てて捨てきって」と書かれたのです。

 それまでに数年のおつきあいをさせていただいておりましたので、三宅先生の信仰に打ち込まれる厳しいお姿には、信服随従し、そのお志は存じ上げているもりでした。しかし、その時の衝撃は今もなお鮮明に残っています。

 法華経には、「玄題三唱」という仏語があります。南無妙法蓮華経の七文字に玄妙、妙不可思議の功徳が包含されていますが、「捨てて捨てて捨てきって」というお言葉、そしてそれを顕わされた先生のお姿、墨痕に神仏の世界を垣間見た気がいたしました。先生の全身全霊が筆に乗り移り、先生の人となりが写し出されていたのです。二十数年を経た今も、脳裏に焼き付いて離れない光景となっています。

 近年、ご高齢もあり、三宅先生とお出会いすることは減っておりましたが、この度の訃報に接し、深い悲しみを覚えました。同時に、先生から賜った教えの数々が、あらためて珠玉のように輝き増していくのを感じたのです。

 三宅先生とのお出会い、そして、四半世紀にわたる交誼は、誠に仏さまに導かれたものだったとしみじみ思うのです。心からの感謝を込めて、先生のご冥福を深くお祈り申し上げます。          
合掌
                                                                        



『惜別――三宅歳雄先生のこと――』
現代における宗教の役割研究会副会長 雲井昭善

 平成11(1999)年8月31日、世界的な宗教協力者として活躍されてきた金光教泉尾教会長三宅歳雄先生が逝去された。96歳のご生涯を、安らかに自宅で閉じられた、と聞く。世界宗教者平和会議(WCRP)の名誉会長をはじめ、世界連邦(WFM)名誉理事長など多くの要職を最後まで現職としてつとめられ、平和活動にその全生命を燃焼された国際人三宅歳雄先生の足跡は、永く人びとに語り継がれることであろう。

 わたくしが三宅先生と初めてお会いしたのは、比叡山(叡山ホテル)でのコルモス(現代における宗教の役割研究会)の席であった。昭和52(1977)年の12月かと記憶する。当時のわたくしは、日本学術会議第十期会員をつとめていた関係から、故葉上照澄師(比叡山延暦寺長臈)の推薦でコルモス会員となった。その叡山ホテルでの会合で、葉上師から三宅歳雄先生を紹介されたのがそもそもの出会いである。もう二十余年前のことで、当時の記憶も薄らいではきたが、今も鮮やかに浮かんでくることがある。

 「雲井さんは名刺から真宗の人(註=当時は大谷大学の学長)かと思ったが、天台宗なんですね。葉上上人からいろいろうかがっておりますよ。どうか、コルモスに新しい空気を吹き込んでくだされ」と、激励のことばを頂いたことを想い出す。

 初めてお会いした先生の印象は、実に存在感のある人として眼に映ったことである。お顔の輪郭がはっきりしていて眼光のするどい人、一見して古武士を想わせる風貌から頑固な老人とも思われた。しかし、実際は心のやさしい、おもいやりのある方であった。会議の翌日の朝食で、たまたま葉上師、三宅先生との席をいっしょにさせていただいたが、朝食の話題も実に豊富で、その広い識見にしばし耳を傾けたことであった。

 以来、その後のコルモス研究会で毎年お会いしたが、先生はいつも活発な意見を開陳され、壮者をしのぐ元気な姿を見せてくださった。多分、最後となったコルモス研究会で、たまたま分団で席を共にした折、新宗教の代表者や新しく参加された方に対して、「若い人は遠慮しないでどしどし意見を述べてほしい。元気が足らん!」と、叱咤激励されたことを昨日のように想い出すことがある。

 想えば、世間ではまだ宗教協力の重要さを口にしない頃から夙つとにその重要性を訴えられ、WCRPの創設に尽力されたと聞く。かつまた、コルモス研究会では常任理事として長く尽力される一方、金光教泉尾教会長として?人よ幸いであれ?の信念を貫かれ、生涯を通じて人類の救済活動に取り組んでこられた。その理念と行動力は、まさに仏教で言われる菩薩行の具現者として讃えられよう。

 いま、かつて三宅歳雄先生と行動を共にされた葉上上人は既に他界し、比叡山宗教サミットの実動者山田恵諦座主、そして近くは立正佼成会開祖庭野日敬師も逝去(1999年10月4日)された。20世紀を駆け抜けた偉大な宗教家たちの残された鴻業は、21世紀に受け継がれるであろうし、人類の平和という大きな目標に向かって更なる前進が果たされるに違いない。

 わたくし自身は、故三宅歳雄先生との因縁で、コルモス研究会を通じて、三宅龍雄現泉尾教会会長、そのご令息三宅善信氏とも親交をいただいている。三代に亘っての因縁を、今、深く感じ、かつ、初代の遺業を継承してWCRPやコルモス研究会に尽力されているご両人に、心から敬意を表したい。

 混迷の世に救いの手をさしのべられた国際的な宗教者三宅歳雄翁を偲び、思いつくままに一文を草して惜別の念を捧げる次第である。(1999年12月5日記)



『バッハ博士と三宅先生が団長の渡米宗教使節団』
一燈園当番 西田多戈止 

                                               
 一燈園の西田天香さん(昭和43年没96歳)は、昭和10年ごろには度々三宅歳雄先生と会っていられた。歳の差は29であるが、二人は心友というべき仲であった。

 天香さんは、著書『懺悔ざんげの生活』の中で、「金光教ご本部の裏山の小屋に高橋正雄先生を訪ね、夜を徹して語り合い、一枚の毛布を敷いて五、六人で寝たかと思う。何の霊に打たれたのか、秋の立つ時分だったが、寒さを忘れて喜び合った」と高橋先生を紹介されているが、天香さんは高橋正雄先生の姿を三宅先生の人格の中に見ていられたのではないかと思える間柄であった。

 昭和35年秋、アイオワ州立大学の宗教学教授マーカス・バッハ博士が8人の宗教人をつれて来日された。視察というよりは手を取り合って、一緒に祈りましょうと霊的交流を求めて各宗の本山や道場を遍歴された。その上で日本の宗教について、外形が奇妙に見える宗教も一部にあるが、平和への道を真剣に求めており、また垣根を越えて宗教の神髄を尊び合う姿勢に大変感動されたようであった。省みてアメリカの宗教界は、ややもすれば優越的、独善的、排他的傾向が強く、また弗ドルと物に依存して競い合っているとの思いから、日本の各宗教の代表団を招いて、競争対立のアメリカ宗教界に一石を投じたい。更に日米の宗教者が一緒に祈り、霊的交流を深めるならば、今後日米間の宗教交流は大きく成長して行くと信じられて、日本の宗教使節団招しょう聘へいを決意されたのである。

使節団のメンバーは
団長 三宅歳雄 金光教泉尾教会長
顧問 西田天香 一燈園創始者
会計 大村仁道 曹洞宗東京都議会議員
記録 鴨宮成介 立正佼成会教学院長
岡田実 鶴ケ岡八幡宮宮司
篠田康雄 熱田神宮宮司
櫻井重雄 大本教学院長
高辻恵雄 浄土真宗参与
丹羽幸三 一燈園(カトリック)
楠正俊 新宗連事務局長
黒川直也 通訳(メソジスト)

 以上11名で結成、出発は昭和36年10月27日、期間約一ケ月と決まった。各宗教の代表が一団となってアメリカの教会や教団本部を訪問する旅、まだ海外旅行に馴染まない時代の長途の旅、大きな使命と責任と困難な道程を思うと、団長である三宅歳雄先生の自覚と決意は並々ならぬものがあったと想像される。天香さんもまた然り。「自分には托鉢しか無い。それをバッハ博士が信頼されたのだから、私は托鉢しながら渡米する。皆さんは飛行機で発たれるが、私は船で行く。アメリカに着くまで船中で掃除などの托鉢をするから船の手配を」と言い出されたのである。89歳の高齢を心配する周囲の声を聞こうとはされなかった。しかし、心労と過労、そして猛暑が重なって出発を前に倒れてしまわれたのである。そして孫の私が名代として使節団に参加することになった。

 出発の2週間前、天香さんは病後の身で私を連れて泉尾教会を訪問。三宅先生に自分が参加出来なくなったことを詫び、孫をよろしくと挨拶されている。このとき、三宅先生は58歳、心気愈々充実の印象を私は覚えている。因みに私は31歳、足手まといにならぬことを願うのみであった。

 出発直前、私に某商社のT重役から葉書が届いた。

 日本では?犬は四本の足がある?と云い、欧米では?犬は四本の足を持つ?と
いうこの相違……。

 文面はたったこの三行、無駄な言葉は一切無しだが、T氏の思い遣りが深く感じられる。そして私は旅のなかで早速この違いの壁にとまどい、三宅先生に助けて貰ったことが何故か鮮明な思い出として残っている。

 アメリカ大陸の中央部カンザスシティーから120マイルほど離れたコロンビアという小さな町のステファンカレッジを訪問した時であった。この大学は全寮制で、名家の子女が多いという。一行は4グループに分かれ、美しい芝生の上で学生達と車座になって懇談した。私は三宅先生と通訳の黒川氏と一緒だったと思う。先ず、黒川氏が渡米使節団の目的に就いて、次に三宅先生がバッハ博士の祈りと自分の決意、金光教の神観に就いて話をされた。

 最後に私が一燈園の説明を始めだすと、学生たちは話の途中であるにもかかわらず、腑に落ちぬという表情で次々と質問の手を挙げるのである。そのとき私の話は、「天香さんの思想は、世の中の争いの原因を深く探っていくと、生きる為に食わねばならぬ。食うために金が欲しいにたどりつく。平和を生活で現すときには金の要らぬ生活に変えることだ。32歳の時それを実行しようと決心した。先ず金の欲しかった時代に所有していた家や財産を捨て、妻子とは離れざるを得なかったが、路頭にでた。これから生きてゆけるか死ぬことになるのか、とにかく自分の全てを大自然の大きな愛に委ねて生きられるまで生きよう。赤ちゃんは泣いたらお乳が与えられるではないかと悟った」と話した時、学生達が?質問?といい出したのである。

 捨てたという家財は処分したのですか?
 家財を売ったそのお金はどうしたのか?
 どこかに寄付したのか?
 残された妻子はどうして食べてゆくのか?

 私には予想出来ない質問で一瞬まごついていると、三宅先生が直ぐ助け舟を出して下さった。アメリカの学生達にとっては、先ず、財産処分の方に興味があるのだから、そこをきちんと説明した方が良い、と注意して下さったのである。

 28日間の旅で15の都市を廻り、宗教施設16ケ所、大学9校を歴訪。宗教指導者との懇談会20回、講演(講師交替)12回、一般信徒との会合20回、それに知事や市長・経済人とのパーティー9回、これ等の集まりに参加した米人の累計は20万人を越えた。しかし、宿舎はホームステイが大半の相当きつい長旅であった。その上、
言葉の障害がある。いくら宗教代表者でもストレスや苛立ちがたまって、愚痴や不満が出てきても止むをえないことであろう。しかし、三宅先生は常に信を通し、毅然とした態度で終始されると共に、折に触れ「?寛容の心?で問題を打開していただきたい」と団員の諸先生に訴えられていた。

 ワシントンで解団式の際、三宅先生は団長としてバッハ博士とアメリカの宗教界に対し深甚なる感謝の意を表されたあと、@日米宗教者が現代の危機打開に関して今後共に祈り協力し合う端緒が開けたこと、A世界平和への宗教者としての使命感を日米双方お互いに深め合ったことを信じ評価すると、挨拶された。

 三宅先生はこの旅で日米宗教者が平和を築いてゆくために、話し合い協力し合う道の開拓に一番の力点を置いていられた。それはその後の三宅先生の国際的な大きな歩みに繋がっていることで理解出来るのである。




『先代親先生と亡父左藤義詮』
衆議院議員  左藤 恵    
                  
                          
 金光教泉尾教会長として70年以上の長きに亘って真の宗教人としてご活躍され、特に世界的な宗教協力者として世界平和のために精魂こめて祈り尽くされた三宅歳雄先生は昨年(1999年)8月末ご逝去になりました。96歳というご高齢まで世界宗教者平和会議(WCRP)の名誉会長、世界連邦(WFM)の名誉理事長をはじめ、数々の要職をお務めになられたことは、先生のお言葉「神願に生かされ、信行に生きる」の通りに生き抜かれて、世界人類への救済活動の中心としてご活躍されたればこそと思い起こすことであります。

 私自身は直接三宅歳雄先生からご指導をお受けしたことはありませんでしたが、私の亡父左藤義詮が先生にご親交頂いたことで、今も大阪国際宗教同志会にも参加させていただいて、その余徳を頂戴している次第です。更に私の亡母左藤行子もそのご縁で親先生の奥様恒子先生にもお近づきを得て、宗教婦人連盟の活動のお手伝いをさせていただきました。近畿一円の各地で開かれた宗教婦人連盟の集りには必ずお供をしていたという記憶があります。

 左藤義詮が赤間知事の後を継いで大阪府知事に就任したのは昭和34年のことで、私は当時、郵政省から外務省に出向してスイス国ジュネーブ駐在の領事として赴任していて、何い時つ亡父が親先生とはじめてお出会いしたかは存じませんが、泉尾教会の記念誌を拝読していますと、昭和36年9月に第二室戸台風で大阪に大き
な被害が出て、泉尾教会が全信徒挙げての救援活動に力を尽くされたことが出ています。泉尾教会の所在する大正区は特に大きな被害があり、防潮堤を越えて来た海水に浸かってしまった時、地域の救援にお話をしたのではないかと思います。

 昭和45年1月の機関誌『いずみ』に、親先生と亡父との新春対談が出ています。三宅先生から知事に対して、その年の3月から開催される世紀の万国博覧会についてお祝いとご激励を頂いた対談記事です。

親先生――ここまでの知事さんのご苦労は大変であったでしょう……けれども、もう一息、最後の仕上げで、息も抜けぬことでしょう。それに開催中もきっと、大変でしょう。何卒、ご健康には十分にご注意下さい……。

知事――ありがとう……。三宅先生のような方から、こうして激励のお言葉を頂くと実に、身にしみます。本当に、あの東京オリンピックについで、アジアでははじめての万国博招致を思い立って8年になりますが、色々の困難を乗り越えて、よくまあ、ここまで来られたことを思いますと、万感胸にせまるものがあります。……これも、皆、大勢の方々のご支援と感謝しています。

親先生――参加国や入場者のことは、どんなふうになっていますか……。

知事――参加国は、おかげて史上最高の78カ国と1政庁、入場者も5000万人が見込
まれています。

親先生――それは、すばらしい……。

知事――1851年、ロンドンの第1回以来、ひとつの博覧会ごとに、文化、科学、経済、社会と、あらゆる分野の開発に大きく貢献し、その開催地が、万博によって一躍世界の都市に成長発展しています。

親先生――大阪も名実共に世界の大阪になるでしょうね……。左藤さんのおかげで、大阪が太閤さん以来の大世直しのときですね。

知事――無論、大阪を世界の大阪に伸ばすと同時に、世界経済に貢献する大阪にしたいと願っているのですよ。この産業発展の大阪の精神文化の向上、そんな分野こそ三宅先生のような方に骨折ってもらいたいと思いますよ。

 共に宗教人として、心の通い合った明るい対談の模様が残されていました。父は明治32年の生まれでしたから、親先生よりも4才年上でしたが、明治生まれ同士として特に戦後の日本国の再興には、宗教心をもったもの同志が宗派を越えて心をひとつにして事にあたらなければならないこと、そしてその輪を世界に広げていって、万国平和を共に祈り上げるということで心を開いて話し合う中になったのだと思います。

 親先生、恒子先生はご逝去されましたが、また私の両親も亡くなりましたが、親先生のご指導は現会長先生ご一家を通じて、今日、直接ご謦咳(けいがい)に接することが出来ずとも、国際宗教同志会の皆さんと共に、世界平和のために働かせていただいていることを感謝しております。




『三宅歳雄先生との出会い』
英知大学学長 岸英司

金光教泉尾教会の今の会堂が完成したとき、ローマ法王庁諸宗教事務局のパオロ・マレラ枢機卿から三宅歳雄先生にお祝いの言葉が送られてきて、当時、田口司教の秘書であった私が、その文書を田口司教に代わってお届けしたのが、金光教との出会いであり、また三宅先生との出会いでした。

田口司教は、晩年大司教となり枢機卿にもなられましたが、田口司教はマレラ大司教が日本駐在ヴァティカン公使であったときの秘書を務められていて、マレラ枢機卿とは特に親しい間柄でした。マレラ枢機卿には私も、日本とヴァティカンでお目にかかったことがあります。

私はこのお祝いの言葉をお届けしたとき、三宅先生が国際的な宗教者であられることに深い印象を与えられました。このことがきっかけとなり、私は三十数年にわたって、泉尾教会を訪れ、また先生のお引立てによって、国際宗教同志会に参加し、また日韓宗教者協議会には、先生にお供してソウルを訪れ、先生とともに講演もしたことがあります。また大阪でこの会議が開かれた時には田口枢機卿にも出席していただきました。

昨夏九十六歳のご高齢とはいえ、ご他界されたことはご家族にとってのみならず、私のような者にとっても深い悲しみであり、淋しさに耐えられないような気持ちでいるこの頃です。

いま私は、私の人生における三宅歳雄先生との出会いの意味について少し述べてみたいと思います。

私はカナダのモントリオール大学神学部に学び、博士論文は英文で、トマス哲学神学からみた中国の初期の禅との比較研究でした。出版は一九六六年でしたが、二年前には日本語でも『禅思想とトマス・アクィナス』として出版しました。この論文の中では、日本思想としての教派神道については取り扱っておりません。日本に帰国してから、諸宗教との対話・研究集会に出るようになり、神道の学者の方々とも親しくなりました。しかし金光教について学んだのは三宅先生を通してでした。

私の一番印象に残るのは「神は人間を助けるが、人間も神を助ける」という考えです。このようなテーマはキリスト教には今でも希薄です。私の考えでは金光教はユダヤ教に似ていると思います。日本の神道にある氏子という考え方は、勿論キリスト教における信者が神の子とされるというのと似てはいますが、それよりも、ユダヤ人がヤーウェなる神の氏であるという意識により似ていると考えます。先生は金光教のなかでも独自の宗教者であったと思います。伝統を踏まえながら、大胆にキリスト教用語を使用し、音楽なども西洋音楽を取り入れられました。このようなご活動は禅の鈴木大拙博士の生涯に対応しているとも言えましょう。

先生を通して、私は金光教の信仰について学ばせていただきました。近所が水害の時は舟で信者を励まされ、被害者を教会に受け入れられたこと。また晩年はアジアの各地の学校や福祉のためにお金をお使いになられたことなど、先生は実践の人でした。しかし、この実践を支えていたのは先生の祈りだったと思います。先生のご著作から知ったのですが、串本の鰤ぶり漁の漁師の信徒の願いに応えて、先生が祈りをこめて書かれた紙をかかげて漁に出て大漁であった話は、キリストがガリラヤ湖の漁師に指示して大漁であった出来事を彷ほう彿ふつさせるものです。

先生はご生涯の間、教会におられる時は、夏も冬も、朝早くから起きて祈られていたことを知っています。先生は真の祈りの人であられて、先生の祈りは実想でした。

泉尾の地に開教されたのは昭和二年の事であったと伺っています。私はその昭和二年に生まれていますが、確か先生も卯年であられて、私もそうなので、いつも親しみを持っていました。金光教泉尾教会という、地域を超えた大きな共同体を築かれた先生はいまも霊的に生きておられ、泉尾教会を見守っていられるに違いありません。人間にとって肉体の死は避けられませんが、死とは、体を持つ存在から、体を持たない存在に移ることに外なりません。

三宅歳雄先生は真の祈りの人、祈りの人であるがゆえに実践の人であられました。そして先生は神の人として、神の事業をなされたのです。神とともなる先生の祈りは実現せざるをえないのでした。

先生のご冥福をお祈りするとともに、金光教泉尾教会のさらなる霊的、物的発展をお祈りいたします。




『現代の覚者』
天理教本部員 明城大教会長 松井石根

ご生前中の(三宅歳雄)親先生のお姿をお偲びする時に、私は現代の?覚者?ともいうべき高潔なる人格と、古武士のような風貌を思い浮かべるのが常であります。

先生とご生前、度々お会いした経験はないのですが、先生のことについては私の父から度々伺っていましたので、一、二度お会いした時でも、「なるほど父の申していた通りのお方であった」としみじみ感服させていただきました。

三宅歳雄先生は、今日では知る人ぞ知る国際宗教人として広く知られていますが、確かに、戦後廃墟になった日本から立ち上がるために、悲惨な戦争をなくし、人類がお互いに慈しみ合える平和な世界を築くという初心に立って、幾多の偉業を成し遂げられたと思います。

特に若い頃の印象に残っていることは、父が愛読させていただいていたタブロイド
版?『いずみ』誌を垣間見、そこに世界の政治家や宗教家との交際を見て、宗教家にもこんな世界的な視野に立って活動をする人もあるのかと感に堪えなかったことを、今思い出します。今静かに振り返ってみても、あの困難なる諸宗教間の対話を実現された炯けい眼がんと手腕に対して、心から敬意を表するものです。

いつも思うことですが、今日では「諸宗教間の対話」といっても誰一人疑う者はない時勢になりましたが、あの当時、宗我に凝り固まった各宗派間の対話を進められたということは、至難の業ではなかったかと思うのです。

当たり前のことが当たり前でなかった時代に、国際宗教同志会を通し、広い人脈を世界的に構築されていった先生の功績は、その意味でまさに現代の覚者であったと考えさせていただいています。

このことは、どなたがご覧になっても「なるほど」とうなずかれることだと思いますが、そういう活動を使命感にまで高め、これを遂行されたその奥には、先生の強い、強い信仰信念があったということを見逃さずにはおれないのであります。

私も先生の信仰からいくつかの大切なことを学ばせていただきました。その中の一つに、「常になんでもの祈りを貫け」ということを説かれていたことであります。「いかなる困難に出合うとも、立てた願いがおかげになるまで願い、改め、願い、改めし続けていく信心生活の中に授かるものである。恵まれるのである。不思議やおかげになるのである……」。そういう信仰が泉尾教会に脈打っている信徒の皆さんはなんと幸せなことであるかと思います。

そして、常に祈りを新たにし、自らを確かめ、「くどい」と言われたといって止めるのではなく、「なんぼあの人に言ってもあかん」と言うて止めるのではなく、なんべんでも祈らせてもらう。頼ませてもらう。願わせてもらう……。それを、し続けていく。その人を思う真実をいよいよ強めていくことを、「真まこと攻め」という言葉でおっしゃっておりました。

その一つの現れとして、日本と中国が戦争状態に入った昭和十二年の日華事変から間もなく総動員令が発令され、青年会員も多数召集されましたが、先生は青年会員は一人たりとも戦死させまいと、お広前に出征兵士の名前をずらりと書き並べて、「一人残らず無事に帰還させ、家族のもとに帰してやってください」と、一人ひとりを祈念させてもらったと言われております。こんな深い、強い誠の心が私にあるだろうかと、反省させられるのであります。

また、先生の信仰姿勢には、「虚こ仮けの一念」とも言うべきものがあったように思いました。それは愚か者でも心さえ集中すればすばらしいことを与えていただくという信念でありましょう。そのことについて、「私がすることは一つもない。できぬからいよいよ祈ることになる。縋すがることになる。人の助かりを願うても、不十分であるから、神様にいよいよ縋るよりない。何一つできぬ。この鈍な私をお使い下さいと縋りつく以外にない」と、言わば「鈍の一心」「阿呆の一念」、そうした徹底した謙虚さを持っておられました。

私も先生の広前でのお取り次ぎをぜひ聞かせていただきたいと思っていましたが、それが果たせず残念に思っています。親先生のすべては信仰から来ているということは見逃せない事実であります。宗派を問わず、初代とはこういうお方のことを指すのではないだろうかということをしみじみ思いました。強い信仰信念を持ちながら、併せて、広い心で人の意見をよく聞き、常に時代を切り拓いていく態度がそこにあります。私の教会の初代である祖父とも何か共通のものがあるような気がしてなりません。

最近、私たちの周りには心配な出来事が次から次に起こっています。明治以来、今が一番悪い時代だと言う人もいます。また、最近の日本人はふにゃふにゃになったと指摘する人もいます。二十一世紀を切り拓き、我々日本人としてのアイデンティティーをしっかり身につけるためには、親先生の通って来られた生涯を今一度振り返らせていただきたいものだと、他宗派の者でありながら、そう思い念じているこのごろです。

先生は満九十六歳でお亡くなりになりましたが、その生涯すべては青春の時代ではなかったでしょうか。

青春とは人生のある期間ではなく
心の持ち方をいう
バラの面差し紅の唇しなやかな手足ではなく
たくましい意志ゆたかな想像力
燃える情熱をさす
青春とは人生の深い泉の清新さをいう
青春とは臆病さを退ける勇気
安きにつく気持ちを振り捨てる
冒険心を意味する
ときには20歳の青年よりも
60歳の人に青春がある(サムエル・ウルマン)

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