「三宅歳雄先生を偲んで」
学校法人大妻学院理事長 国際基督教大学元総長 中川秀恭


三宅歳雄先生にはじめてお目にかかったのは、いつ、どこであったかさだかに覚えていない。
多分、昭和四十七(一九七二)年十二月、比叡山国際観光ホテルで開かれた第三回コルモス(現代における宗教の役割研究会)研究会議の折ではなかったかと思う。

実は、私は昭和四十六(一九七一)年、北海道教育大学の学長を任期満了で退任。その年の十二月、国際基督教大学(略称ICU)へ教授として赴任したのだが、当時、湯浅八郎ICU初代総長が理事長をしておられ、親しくご指導いただくことになった。

湯浅先生は三宅先生と戦時中からご親交があり、宗教を異にしているにもかかわらず、三宅先生からICUへ少なからぬご寄付をいただいているとの話をうかがったことがある。お二人の間には、共通の目標(世界平和と人類の幸福)をめざして、肝胆相照らすものがあったのではなかろうか。

そういう次第で、昭和四十七(一九七二)年のコルモス研究会議で三宅先生にお会いした時、親しく扱って下さったのだと思う。先生は湯浅先生から私のことを聞いておられたのではないかと推察する。これがご縁になって、毎年のようにコルモス研究会議でご指導いただくこととなった。

三宅先生は昭和二十二(一九四七)年、同志社大学元総長牧野虎次先生を中心に国際宗教同志会を結成されたとうかがっているが、当時、同志社総長であった湯浅先生も、この会のメンバーであられたかも知れない。時代の先を見越したこの会は、年々盛んになって現在まで続いているだけでなく、その後の諸宗教対話団体の母体にもなったと聞いている。

その後、三宅先生は世界連邦運動にも参加、政治家や市民運動家が中心であったこの運動に宗教者の視点を導入。こんにちのNGOの走りとなった。さらに世界宗教者平和会議(WCRP)を創設し、その中心的存在となってご逝去にまで及んだ。国の内外にわたる先生のご活躍ぶりについては、語る人が別におられるであろうから、ここでは差しひかえることとする。

泉尾教会の大きな行事には、ご招待をいただくたびに出席、同教会の親先生としての三宅歳雄先生に接し、多くのご教示を得た。お孫さんの光雄師の結婚式には媒酌の大役をおおせつかり、妻とともにとまどいながらお役目を無事に果たしたことがある。楽しい思い出のひとつである。

コルモス研究会議における先生は、創立者の一人としての見識と貫禄を具え、ご自分の立場を述べるというよりは、一宗教者として現代における宗教の役割について謙虚に学ぶという姿勢を貫いておられたように思う。 昭和五十八(一九八三)年十二月二十六日〜二十七日、比叡山国際観光ホテルで開かれた第二十六回コルモス研究会議で、三宅先生は『宗教は何をなしうるか』という題で講演されたが、「世界の宗教者たちが相集うて平和の招来のために永年にわたって力をつくしているにもかかわらず、平和が実現しそうもない」と苦渋の色を浮かべながら、世界平和と人類の共存、共栄をめざす運動の歴史を回顧されたお姿が、今も眼前に彷彿する。しかし、先生はそのように絶望的とも見える状況のただ中にあっても、希望のともし火をかかげつづけられた。 「このような大事業は人類史の続く限り、挫折と再起を繰り返しながら、受けつぎ、受けつがれてゆかなければならないものであります。

したがって、このような大事業に対しては、個人の非力・無力など当然であり、宗教的活動にも当然限度があるはずです。このことを踏まえて、宗教者も信仰者も、すべての平和運動者も、挫折と再起を積み重ねながら、この大事業に取り組んでゆかねばなりません」(講演の一部)。 うかがうところによると、三宅歳雄先生は最晩年にいたるまで、泉尾教会泉光園の一角にある「祈りの塔」で、毎日早暁から数時間にわたって黙想と祈りをつづけておられた。世界平和、人類の幸福を祈願してのことである。 私は、このように偉大な宗教者にして、かつ己れを無にして世のため、人のために奉仕された暖かい人間にお会いし、ご指導いただいたことを、わが生涯における宝として大切にしている。


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