東アジアの少数先住民族との交流

アイヌ特集(2001年8月)

アイヌの歴史と文化を学ぶフィールドワーク

2001年8月28から30日の3日間、JLC(IARF日本連絡協議会)では、国際的な少数・先住民族救援活動の一貫として、北海道各地で、アイヌの歴史と文化を学ぶフィールドワークを実施した。28日には札幌市の(社)北海道ウタリ協会と道立北海道開拓記念館、29日には萱野茂アイヌ資料館と平取町立二風谷アイヌ資料館、30日には白老アイヌ民族博物館を訪れ、アイヌの人々の生活や歴史資料を見学し、それぞれの施設で専門研究員らからアイヌの文化・宗教・歴史および人権問題等について学習した。

萱野茂アイヌ資料館で副館長の講演を聴くJLCメンバー

萱野茂アイヌ資料館で副館長の講演を聴くJLCメンバー

今回の「JLCアイヌ学習会」には、IARF国際評議員である酒井教雄立正佼成会理事長、山本行隆椿大神社宮司、JLC2001年度輪番事務局長である三宅善信金光教泉尾教会執行、それに、JLC加盟教団の代表である西田多戈止一燈園当番、三輪隆裕日吉神社宮司らをはじめ、現地で合流した立正佼成会員を含めて、3日間でのべ65名が参加して盛況であった。

強制的に“日本人化”されたアイヌの人々

8月28日、東京・名古屋・大阪の各空港から札幌の新千歳空港に現地集合したJLC一行は、チャーターしたバスで、まず北海道庁所在地の札幌市に向った。札幌では、官公庁が立ち並ぶ中心部の一角に事務所を抱える社団法人「北海道ウタリ協会(註:アイヌ語で「アイヌ」とは、「カムイ(神)」に対する「人間」という意味であるが、近代以後、「アイヌ」という名称が“本土”に住む“和人”から差別的な意味あいを込めて呼ばれてきたので、団体の名前としては、「同胞」という意味のアイヌ語である「ウタリ」を用いているようになった)」を訪問。佐藤幸雄事務局次長から『ウタリ協会の目指すもの』と題した講演を聴いた。

佐藤事務局次長は、最初にウタリ協会が作成したビデオ『新・共生への道』を観せて、ウタリ協会の活動の概略を説明。その後、JLC一行との質疑応答を行なった。北海道ウタリ協会は、われわれが事前に思っていたよりも、はるかに政治的な色合いを持った団体であった。同協会は、長年、日本国内において「虐げられて」きたアイヌ民族の権利を回復するための団体である。しかし、現在ではアイヌ民族の人口は僅か23,767人(1999年調査)しかいないので、政治的な意志表示がは選挙によって行なわれる民主主義国家(日本の総人口は1億2600万人)においては、ほとんど影響力を行使できない。そこで、北海道ウタリ協会は、“外圧”に弱い日本政府およびメディア(世論)という点に着目し、ジュネーヴの国連人権機関等を通じて、あるいは世界各地先住民や少数民族と連帯することによって、“外圧”によって日本政府や世論を動かすという戦略で、アイヌの人々の権利の回復を意図している団体である。

佐藤幸雄北海道ウタリ協会事務局次長の講演に耳を傾けるJLC一行

佐藤幸雄北海道ウタリ協会事務局次長の講演に耳を傾けるJLC一行

北海道ウタリ協会の主張によると、「日本の先住民であるアイヌ」は、現在、日本の一部になっている北海道と呼ばれる大きな島、それから、現在はロシア連邦の領土になっているサハリン(樺太)、そして、日本とロシアの間で領土問題が解決されていないクリル(千島)列島の諸地域に、広く有史以前から住んでいた。しかし、18世紀後半になり、ロシア帝国の版図がシベリアの東端に到達し、南下政策を採り出したのと同時に、当時の徳川幕府は、北方の防衛の必要性を感じ、それまで松前藩という地方自治政府の交易相手(つまり外国人)としていたアイヌを日本化させるために、広範囲に幕府の直轄地を設置した。北海道(当時は「蝦夷地」と呼んだ)が「日本の領土である」ということを欧米列強に主張するためには、アイヌの人々に伝統的な生活を捨てさせて、「日本風の生活」をするように強制した。

その後、1867年の明治維新で成立した近代国民国家であるところの明治政府は、「大日本帝国の臣民」としてアイヌの人々を日本の戸籍(註:この国では、646年に人民台帳である最初の「戸籍」が制定されて以来、時の政府によって、主に納税台帳として「戸籍」制度が維持されてきた。つまり、ほとんどの日本人は、理論的には7世紀まで家系を遡ることができることになる。しかし、そのことは逆に、内戦の敗者や刑罰等の理由によって「戸籍」を離れた人々の、あるいは、もともと「戸籍」に入れなかった人々の子孫が、いわれなき差別を受ける原因となった)に編入したが、その際、新たに本土から入植した人たちと、もともと北海道に居たアイヌの人たちとの間で、土地所有等の扱いに著しい不平等が生じたことは事実である。その上、アイヌの伝統的文化には、文字がなかったので、近代国家における登記や契約において、多くの不利益が生じた。これらは、近代の「人権」思想からすれば、当然、回復されなければならない事態である。

極めて政治的なウタリ協会

しかし、北海道ウタリ協会の主張にも限界がある。というのは、同協会が主張する「先住民」の概念規定では、先住民を「近代国民国家が成立した時点で、本人たちの意志を問われることなく、あるいは意志に反して、近代国民国家に組み込まれた先住者」ということになっている先住民であるが、これでは、「長い歴史を通じて日本人(和人)に迫害されてきた」というアイヌの歴史が無視されてしまっている。一般的に先住民というのは「その地域に古くから住んでいた人々」とである。アイヌは縄文人の直接の末裔である(註:人類学的に言えば、縄文人はベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へ拡散していった人々や、日本、フィリピン、インドネシアの島々を経由して、ポリネシアに拡散していった人々と同系統に属する「古モンゴロイド」であり、弥生人は華南から満州、朝鮮半島を経て日本に渡来した「新モンゴロイド」に属す)と考えられる。その他の日本人は、1万年以上前から独自の土器文化を持って生活していた縄文人と2500年程前に稲作技術と共に新たに大陸から移動してきた弥生人との混血である。「純粋な弥生人」などは現存しないのだから、いずれにしても、混血の程度の差はあれ、日本人はすべて縄文人の血を引いているのであるから、アイヌだけが先住民ということは言えなくなってしまう。

そこで、北海道ウタリ協会は、古代史はもとより、中世・近世史まで切り捨て、「近代国民国家が成立する時点で、強制的に日本に組み込まれた人々」という論法を使っている。しかし、これも論理的な矛盾がある。というのは、徳川幕府が明治政府によって倒された時点(1867年)で、それ以前は当時のドイツやイタリアと同様、封建的な領邦国家として、300にもわたる地方自治政府(藩)に分割されていた日本が、明治維新によって近代国民国家に統一される際に、無理やり薩長勢力による統一国家に組み入れられた地域は他にも山ほどある。会津をはじめとする東北列藩同盟等、徳川幕府側についていた勢力はすべて無理やり維新政府に組み込まれ、反対した人たちはほとんど殺されたのであるから…。

しかも、この時「あなたは日本国民になることを選びますか?」と聞かれて日本人になった人は誰一人としていない。皆“自動的”に、日本人にされたのである。ということは、北海道ウタリ協会の主張というものが、必ずしも科学的・歴史的妥当性を持つものとは言えないのではないかと思う。その意味でも、(社)北海道ウタリ協会は、現在の日本において、極めて政治的な団体であると言える。しかも、すべてのアイヌの権利の回復を主張しながら、ロシア政権下でサハリンや千島で、もっと悲惨な暮らしをしているであろう「同胞(ウタリ)」へなんら支援の手を差し伸べようとはしていないのである。あくまで、金を分捕り易い日本政府がターゲットの団体であると言われても仕方ない一面を持っている。

もちろん、近代民主主義国家において、差別は許されるべきものではない。現在の日本において、アイヌの人々を差別する法律はなく、それどころか、『アイヌの伝統文化を振興する法律』まで定められ、「保護」されているが、実際は、一般市民の意識のレベルにおいては、まだまだ「アイヌ差別」は存在し、また、生活上の経済格差も歴然として存在している。たとえば、1999年時点で、実際にアイヌの人々が居住する市町村において、生活保護を受けている世帯の割合は、全体が1.8%であるのに対して、アイヌは3.9%と平均の2倍の割合であり、高校の進学率は、全体が97%に対しアイヌが95%と、あまり変らないが、大学の進学率となると、全体の34%に対してアイヌは16%と、2倍の格差がある。また、結婚や就職でも差別を受けることが多いのも事実である。

熱弁を揮われる北海道ウタリ協会副理事長の秋辺得平氏

熱弁を揮われる北海道ウタリ協会副理事長の秋辺得平氏

佐藤事務局次長の講演を受けた後、鈴木宗男代議士がらみで一躍脚光を浴びた北海道ウタリ協会副理事長の秋辺得平氏が挨拶に現れ、南アフリカで開催される国連「反人種主義・差別撤廃会議」に出発する直前の抱負を熱弁された。その後、JLC一行は、北海道立「北海道開拓記念館」を見学した。北海道開拓記念館は、1971年に、明治政府による北海道開拓100周年を記念して造られた博物館である。こちらは、アイヌの側とは反対の立場、すなわち、和人の側が北海道をいかに開拓していったかという立場から造られた施設であり、見学の後、山田伸一学芸員から、『開拓とアイヌ民族』と題して、レクチャーを受けた。ちなみに、一緒に参加した一燈園の西田多戈止師の祖父の西田天香師は、明治期に北海道開拓に参加した経験を持っている。

アイヌと和人の差よりも、官と民の感覚の差のほうが

翌8月29日、札幌から南方へ約150キロ離れた平取(びらとり)町の二風谷(にぶだに)というところに行った。ここは、沙流川(さるがわ)という川の流域にある古来よりアイヌの集落(コタン)が残っている地域であるが、今から20年ほど前に、苫小牧で開発されつつあった工業団地への用水を供給するためのダムを造るという目的で、ニ風谷に巨大なダムを建設することになり、その下にアイヌの村落が水没してしまうということに反対して、住民が日本政府を相手どって裁判を起こしたことで有名である。この裁判がなぜ世間の注目を集めたかというと、1997年に札幌地裁が出した判決は、ダムの建設差し止めという点では原告の敗訴に終わったが、それ以上に画期的であった。というもの、これまで日本政府は、「日本に先住民がいる」ということを一度も公式に認めていなかったのであるが、札幌地裁の判決では、明確に「日本の先住民であるアイヌ民族には先住権がある」ということを規定したという点で、画期的な判決となった。

萱野茂二風谷アイヌ資料館の屋外展示

萱野茂二風谷アイヌ資料館の屋外展示

二風谷ダムを見学した後、平取町では、アイヌで初めて参議院議員になった萱野茂氏が運営する「萱野茂二風谷アイヌ資料館」を見学、萱野氏本人から説明を受ける予定であったが、1998年まで参議院議員であった同氏があいにく病気で入院中のため、次男の萱野志朗氏から講義を受けた。同資料館は個人経営の博物館だけに、個人のコレクションを並べただけという体系立ってない展示の仕方が逆に興味深かった。続いて、200メートル程離れた平取町立二風谷アイヌ博物館を見学した。こちらは、萱野氏のそれを比べて、いかにも「税金(補助金)で建てました」というレイアウトになっており、しかも「学術的」な色合いを出そうとしているところが興味深く、「アイヌと和人の文化の差」を越えて、世界に共通の「官と民の感覚の差」を楽しむことができた。同博物館では、縄文時代より続くアイヌ文化の埋蔵文化財や生活用品等を見学して、アイヌ文化の歴史と深みについて勉強した。

平取町立二風谷アイヌ博物館に展示されているアイヌと神道との繋がりを連想させる祭祀用具

平取町立二風谷アイヌ博物館に展示されているアイヌと神道との繋がりを連想させる祭祀用具

翌8月30日は、白老(しらおい)アイヌ民族博物館を訪れた。この白老アイヌ民族博物館は、ポロトコタンという湖に隣接しており、アイヌの伝統的な集落や人々の生活の様子が再現(実演)されており、内外からの観光客も数多く訪れる施設である。ちょうど、われわれが訪れた時は、韓国からの団体見学者も数十人来ており、アイヌの伝統文化、踊り、儀礼等を見学していた。白老アイヌ民族博物館においては、野本正博学芸員から、『アイヌ民族の文化と宗教儀式』と題する講義を受けた。最初に、「チセ」といわれるアイヌの伝統的な家屋の中に入り、いろりを囲んで野本氏から、アイヌの神観念、世界観に深く根ざした家屋の建設様式ならびに宗教観についての詳しい説明を受けた。続いて、博物館内で保存されている現存の動く映像としては最も古い、1910年に撮影されたアイヌ民族の「イヨマンテの儀式(註:子熊を飼育して成獣にし、これを生け贄にすることによって、熊に象徴される山のカミに、熊の魂と共に、自分たちの願いごとを届けてもらう儀式)」とアイヌの葬儀のビデオを観て、アイヌの独特の風習について学習する機会を得た。

1997年に成立した『アイヌ文化振興法』においては、それまでの明治時代に制定された『北海道旧土人保護法』という差別的な法律とは異なり、アイヌの伝統文化の保存ということを強く意識した法律ではある。しかし、この法律においても、アイヌの民族としての先住性ということには触れず、数ある日本の伝統文化のひとつとして、アイヌ文化の保存・保護・振興を国が支援するという立場で制定されている点が、問題として残っている。

白老アイヌ民族博物館で見学した伝統的なアイヌの踊り

白老アイヌ民族博物館で見学した伝統的なアイヌの踊り

JLC一行は、アイヌ民族博物館を辞した後、新千歳空港で解散し、2泊3日の学習会を終えた。なお、今回のフィールドワークの参加者には、『古事記』に登場する(手塚治虫の『火の鳥』にも準主役として登場する)猿田彦(サルタヒコ)の直系の96代目の子孫である山本行隆椿大神社宮司や、大和国から尾張国に進出した大神(オオミワ)族の51代目の子孫である三輪隆裕清州日吉神社宮司といった悠久の血脈を受け継ぐ人々たちもいた。

(文責: 三宅善信)