第1分科会(宗教者の自己実現)
 

21世紀への新秩序の模索と宗教者の使命
システムと生命の協和にむけて地球が直面するいくつもの課題への自覚と取り組み

曹洞宗 萩の寺東光院 住職 村山 廣甫
皆さん、遠いなかよくお越しくださいました。ありがとうございました。この会(大阪国際宗教同志会)は超宗派的に同志が集まって世界平和に貢献するということを目的に皆集まっています。創立は1947年であります。『宗教者の自己実現』という課題をいただきましたところ、世界の平和に対する私どもの考え方というのが一番大事であろうと思いました。

 宗教者はいろいろな形におきまして現実の社会で社会的な、あるいは地域的な、内面も、あるいは外面的にも努力を必要とされると思います。崇高な摂理も必要です。それと同時に、それを実践する勇気と情熱も必要です。そこで我々が生きている現代の地球の現状を分析してみました。これが私のレポートです。

 まず、世界はますます緊密に一体化しまして、国境線や自然地形を越えて結びつこうとしております。地球上のあらゆる空間には、普遍的なルールが通用し、すべての地域と人間とが単一のネットワークに組み込まれております。

 経済関係におきましては、商品は、国際貿易によりまして全世界を流通し、国際金融によって決済されます。商品の価値は、国際的なレベルでの市場によって決定されます。

 またわが国の文相が言っておりますとおり、情報は、ますます網を広げ、しかも高速で交換されるために、ほとんど同時化したともいえます。テレビの衛星放送によって、地球上のすべての土地のニュースは、すぐに茶の間に届けられます。もはや、政治的な意図によって情報上の鎖国を行おうとする試みは、成立しがたくなりました。わが国も12月1日よりデジタル放送が始まりまして、今、IT(情報通信技術)によるインターネットの発展は目をみはるものがあります。

 さらに国際政治のうえにおきましても、1989年ごろに起こりました東西軍事対立構図の終結と、ソ連・東ヨーロッパ陣営の崩壊によりまして、急速に国際政治上のシステムが改編されていることは皆さまもご承知のとおりであります。今、従来ありました二つ、もしくはそれ以上に区分されましたブロック体制が、一つの大きな世界政治構造に組みかえられようとしています。国際連合、あるいは経済協力開発機構(OCED)そのほかの国家協力体制が、その組みかえに有効に対応できるかどうかが今、問われております。宗教家はこのような、世界大の視野が必要となります。

 さらに個々の国、民族、もしくはそれを含む文化全体の問題は、人々の「こころ」にかかわるものですから、この一体化する世界に対して、個のアイデンテイテイーを強調するものとなります。

 民族自立の問題は、すでに20世紀の現代政治のなかで解決ずみであると考えられたふしがあります。ところが、旧ソ連や旧東欧社会主義圏を中心に、民族の主題が再浮上してきております。言語や社会習慣の個別性に強く執着しその価値に対応する政治・社会制度の獲得が求められております。ことによると、民族としてこれまで定義されてきたもののさらに小さなサブ・グループまでが、存在証明を要求するようにもなりましょう。くわえて、その民族は今や、かつてのように、一地域に完結した居住区をもってはいません。植民、難民、移民などをとおして、世界中に散らばりながらもつよい一体感で結ばれることもこれからあると思います。

 さらに宗教上の価値の強調が明瞭になってきております。社会の近代化を「宗教離れ」とみなすのが普通であったのに、かえって近代社会への抵抗感から、またその欠落部分を埋めるべく、宗教は再び人の心を捉えております。この会(大阪国際宗教同志会)でも勉強しましたが、イスラム・パワーいわゆる原理主義の問題とか、ヒンドゥー教やあるいはキリスト教諸派、特に今日エルサレムでありますように、アラブとイスラエルの問題とか現代人への訴えかけが宗教として非常に強い要素を帯びております。しばしば宗教間の対立や宗教内諸派の抗争もひきおこし、社会不安に結びつくことがこれからもあると思います.。

 以上のような均質でスケールの大きな世界システムと、個別の価値にもとづく微小なシステムとが、その距離を拡げていくのが21世紀だと思います。競合や対抗関係があらわとなり、個人も地球もそのなかで両断されかねません。宗教者はこのような困難な状況に対応して、なんとか穏和な解決策がないものかと苦慮しつつ自己実現しなければならないのです。


  今度は内面の目の前のことをお話しましょう。ヨーロッパ諸国を先頭として、人類は産業社会を建設し、みずからをとりまく環境や資源を心ゆくまで利用してきました。地球はそれを許容するほど巨大でした。ところが、60億人近い人類が豊かな物質生活を追い求めたすえに、ついに地球の許容量の限界ちかくまでたどりついてしまったようです。

  局地的な公害を超えて、地上の全ての土地が、人間活動にもとづく負荷に出会うことになりました。オゾン・ホールの出現、地球全体の温暖化、酸性雨。森林の量は激減して、大洋も大陸付近ではどこも汚染をまぬがれておりません。このような環境の変質と保全の問題は、今や全地球のそれとなった。一国、一地域だけが孤立して安全と清浄を維持するのは、もはや不可能である。人間にとって「外」なる対象である自然と環境を、どのように安定してコントロールしうるか。しかもそれを、豊かな生活水準とどのようにして同居させ得るか。これから宗教者の智慧が求められる。

 しかし、問題は同時にこれと正反対のところにもある。現代人は、「内」なる個々の身体や生命にますます敏感になりました。身体は、単に疫病や死の恐怖からの解放を望むだけではありません。生活の主体として、みずからの機能と能力に関心を示し、さらには、時と所を共有するほかの存在に共感をしめすでありましょう。つまり、生命同士が共振しうるような世界を、自分の周囲につくりあげたいと望みます。そこでは、人間は身体・生命としてみな一つの個体であり、しかも交換不能なかけがえのない自己であります。そして時には、他者や全地球を犠牲にしてもその存在を主張する個でもあり得ます。


 結論に入っていきます。自然・環境という「外」と、身体・生命という「内」。そしておおきな地球とちいさな個体。この両者のせめぎあいは、危うい決裂をひかえています。現代人はそこに、どのような和解と調和を与えることができるでしょう。

 ほかにも21世紀の人類が直面する課題は山積みしています。限りなく進行する科学技術と、人間がその生活の完成のために用いる工夫や知恵は両立しうるか? あるいは、すでに課題の達成に近づいた国や民族と、今だ途上にあって苦悩するものとは相互に協調しうるか? それとも優劣・貧富の差をそのままにして不協和音を保ちつづけるのか…。

 どの課題も、思弁や知識をもとにして、個人が内面において捉え、解決をはかるべき思想上の問題であります。しかし、それに加えて、共同体・地域・国家、あるいは国家・国境をこえた団体・組織が、共同で建設すべき秩序の体制いかんにもかかわります。以上のような作業が現代人に対して求められているというそのことを21世紀の宗教者は十分に理解して、新しい未来に向けて歩みはじめることが宗教者の自己実現に通じると思います。
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