□ 日韓宗教人協議会 創立30周年記念総会 主題発表文 □
  
21世紀と宗教生態主義時代

                   李 性陀 大宗師(曹渓宗 仏国寺 住持)

1、宗教生態主義とは

 20世紀において人類が進歩と発展を重ねながらも、その結果、もたらされた環境破壊は人類をして生存の可能性を反省するよう促している。従って人類自滅の原因ともなりうる昨今の生態学的(ecological)アンバランスと不調和を克服する為の汎地球的次元の努力をせざるを得なくなった。

 それゆえ人類は生態学的平和を追求せざるを得なくなったのである。即ち人間中心主義的思考と人間という特定の種の優越主義を乗り越え、生命の尊厳性と共存性を土台にし人間を含む全ての生命の生態学的平和を追求するのみならず、積極的に保護せざるを得なくなったのである。

 このような生態学的平和は人間の生の全領域に該当する合理的土台であり、またこのような土台によらなければ人類は生存の可能性を語ることができないだけでなく、生存自体が不可能になることもありえる。

 それでは生態学的テーマの合理性とは何か。万一、自分の家族全体が生き残ることが私個人が生き残ることよりもっと重要なことということが明らかな事実であるならば、民族の存続が各家族の存続より更に深刻な問題だということも同じように明らかなように思える。

 このように人類の存続がある特定の民族の存続よりもっと大きな価値を持つことが明らかなことであるならば、同じようにまた地球上の生命の永遠なる存続が人類の歴史的繁栄よりもっと重要なことも明らかなことだ。

 このように見るならば人類の生態学的存続よりもっと重要であるような価値があることは決してあり得ないと言える。このような合理的同意によって次のような推論も合理的だと言える。即ち、人類のような特定の生命の価値よりまず地球上の全ての生命の価値に優先権を付与しなければならないということだ。

 このような生態学的テーマの合理性とは、今までのように論理的思考と自然に対する科学的説明を盲目的に受け入れるのではなく、そのような論理的科学的合理性を「生態学的合理性」に従属させることを意味する。

 従って生態学的テーマの合理性は合理性の本質といえ、より巨視的な枠組みにおいて合理性を追求する究極性が内在しているということができる。つまり生態学的テーマの合理性は人間の生の全領域に渡って合理性を付与するといえる。

 人類が今まで追及し、またそれによって現代化を成し遂げることができた論理的思考と科学的説明が生態学的合理性を獲得するとき、人間を含む生態系全体を死から救出すことができるのみならず、現代性の危機を克服する可能性を開くことができる。

 それ故生態学的テーマの合理性は自然中心的、宇宙中心的であって、決して自己中心的、民族中心的、人間中心的、更には特定宗教中心的ではない。まさにこのような点において我々は宗教の生態学的平和を語らなければならない合理性の根拠を得ることができる。

 従って宗教生態主義とは、凡そ宗教はその根底に生命に対する畏敬や尊重を内包しており、更に生命の普遍性と共存性を肯定する生態主義的基礎に立つが故に、全ての宗教は生態主義的テーマを基礎とし、共生共栄できるという考えだ。

 また宗教生態主義は人間を中心とした「中心主義」(centrism)を超えることができない宗教多元主義の限界を乗り越える宗教間の理解の為の新しい枠組みを創ろうとすることともいえる。

 つまり生命は自身の為に存在するのみならず他の為に自身を犠牲にすることもあり得るという生態学的テーマをその基礎に据えることによって、宗教間の対話と一致を図ろうという試みなのである。


 2、宗教生態主義の必要性

 それでは21世紀において宗教生態主義を語らねばならない理由は何か。それは21世紀を迎え、人類の持続可能な生存は世界平和から始まるのであり、世界平和は世界人の平和倫理から始まるという普遍的要請が人類の前に横たわっているためだ。

 このように人類の前に横たわっている世界平和と世界倫理の普遍的要請から、宗教人は宗教人だからといって決して逃れるわけにはいかない。更に真正なる宗教人ならば世界平和と世界倫理は宗教の平和と宗教倫理から出発すると誓わなければならないであろう。

 なぜならば21世紀に要請される世界平和とはその根本に宇宙的生命の尊厳性と共存性を内包しなければならず、また地球上の全ての宗教が少なくともその基礎において生命の尊厳性と共存性を根源として持っているからだ。

 これは21世紀の宗教人に宗教生態主義による倫理的生を要請するものであり、同時にこれは21世紀に宗教生態主義を語らねばならぬ理由でもある。宗教の平和と倫理を通して世界平和をなし人類をして持続的な生存を可能とする為に、宗教と宗教人は21世紀にこそ宗教生態主義によって宗教間の対話と協力、そして一致をなさなければならないのである。

 従って我々は全ての宗教が宗教生態学的基礎を持っているということを実例をもって考察してみることによって、宗教生態主義的な自己実現と倫理の成就が21世紀を生きていく宗教人の使命であることを述べようと思う。

 宗教の生態主義的基礎を調べる方法の内の一つは世界宗教の発生原因において探すことができる。生命をおろそかにし強奪と破壊を思うが侭に行っていた古代奴隷社会に対する代案としての生命共同体運動から世界宗教が発生したということを考慮するならば、世界宗教が生態主義的基礎を所有しているという点にたやすく同意することができる。

 つまり世界宗教は古代奴隷社会の変化と時期を同じくして生まれたといえる。古代奴隷社会とは支配層が奴隷階層を支配し自然を支配することによって生じた生の苦痛に満ちた現実をいうのであり、このとき発生した世界宗教とはまさにそのような苦痛に満ちた現実の中で苦しんでいた階層の救いを目的とする宗教だった。

 古代奴隷社会の支配構造はその実、生命に対する支配だった。古代奴隷社会を維持する力は奴隷という労働力によるものであって、古代奴隷社会は奴隷を生命とみなしたり尊重することはなかった。むしろ生命を支配し破壊することによって古代奴隷社会を維持していたといえる。

 このような生命に対する支配と破壊は生命に依る生命の疎外を呼び起こすことによって生命の歪曲現象が支配構造化し、またイデオロギー化することによって生命の支配と破壊が続けられた。

 ところで近代に至り人間の理性が解放されたとは言うが、人間中心的思考に依って一貫された人類歴史は今日まで人間の尊厳性に関することはある程度成就したものの自然の生命に対しては無関心であったといえる。

 これはまた実は古代奴隷社会から伝わってきた生命に対する支配と破壊の枠組みをそのまま継承するものであり、その構造自体はあまり変わってはいないということを意味する。生命に対する支配と破壊というパラダイム(paradigm)1)は変わっていないのである。

 実例を挙げればキリスト教の場合、ヤハウェ宗教の出発において火を見るよりも明らかだ。後にユダヤ教として成立したヤハウェ宗教における出エジプトという出来事は、単純な民族の解放や救いのみを意味するものではなく、その民族解放と救いの本質と目標は生命の保護と愛にあったのである。

 仏教の例も同様だ。お釈迦様が自身の悟りを広めた当時のインドでも産業の発達によって都市と物質的文化が栄えていた。都市の商工階級は自身が所有している富を維持する為に財物に執着するという迷いに囚われていた。

 お釈迦様の初期説法である四聖諦と八正道は六邪外道による縁起説を批判する。六邪外道のような暗い考えから生じた行いは事物を誤って認識するように誤導し、事物全体を誤った論理と概念に縛り付けるという。このような社会体制の中に個々人は生まれるや否や放り出されるようになる。それ故必然的に個々人も誤ったこの世的な価値に接して受け入れることにより貪欲さが生じ、またそれに執着するようになる。

 このような生の輪廻に陥った個々人は、はかなく老い、病んで死んでいく。お釈迦様はこのような輪廻を悟らせようとした。お釈迦様が成そうとした輪廻からの解脱と涅槃とは真心による真なる生命として生きていくことだ。

 倫理の宗教ともいえるジャイナ教は、仏教と同様に当時の古代インド社会の都市化に伴う物質主義とそれを擁護し支持したブラーマン教に対する反省から出発したといえる。これはジャイナ教の創始者マハーヴィーラが実践した苦行を通した解脱において明らかに現れている。

 実はジャイナ教の生命中心思想はその徹底的な禁欲主義から始まったのであるが、産業化に伴う利己的世俗を否定し物質的な世の中から抜け出そうとするアヒンサーこそ、その根本であることを否定することはできない。

 これら以外にも世界宗教は勿論、民族宗教や新宗教においてもまた生命の尊厳性と共存性を大部分その発生の動機や教理に明らかに見てとることはそれほど難しいことではない。

1)一時代の支配的な物の見方。特に、時代に共通の体系的な想定。新村出 編、広辞苑、第3版(東京:岩波書店、1983)、1972ページ。


 3、結び

 凡そ宗教の目的は、その宗教における真正なる自己実現の成就を通して他の人々との円満な関係を形成し宗教人として真なる倫理を確立し、更にその倫理に従って生きていくことによって宗教がいうところの理想社会を成すことであるといえる。

 しかし過去においては宗教と宗教人が自身の宗教中心主義または宗教団体中心主義を脱し切れなかったが故に、宗教間の対話と一致を通した世界平和を成すことができなかったといえる。

 一方、人類の持続的な生存可能性を模索するほかはない21世紀には宗教と宗教人が、宗教生態主義的な宗教間の対話と一致を追及しなければならないという定言的要請を謙虚に受け入れなければならない。

 従って今日の宗教と宗教人は21世紀にこそ人類の生存の為の世界平和が成就されなければならず、世界平和は宗教の平和なくしては決して成されないという自覚を促すことによって、生命全体の平和の為の宗教人の自己実現と倫理を実践しなければならないであろう。

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