日韓宗教者協議会30周年記念総会

第2分科会「宗教者の倫理」
臨済宗 桂香寺 住職 葛葉 睦山                       
 葛葉睦山と申します。三つばかりご提示申しあげたいと思っております。

 一つは「効能主義」ということです。私たち日本人の宗教意識の上に「効能主義」が見られる。「効能」というのは、たとえば「風邪薬がよく効く」などという時に使う言葉です。効き目があるということです。あるいは「効果主義」といった言い方もあります。つまり「ご利益があると聞けば、たちまちそこへ出かけていく」というものの考え方、受け止め方です。

 こういう指摘は、恥かしいことだと思いますが、日本人の多くの人に対する見方としてあるということです。宗教とは、釈迦に説法でありますが、「私」とは何か、私の生命存在の意味、もうひとつは他者、自分以外の存在、人間だけでなく生きとし生ける全てのもの、あるいはもっと無機物のようなものを認めて支えあって生かされていく有り様を考える宗教として捉えていないというのが現状であります。

 宗教の正しさ、胡散臭さを見分ける四つの条件のひとつについて、作家の曽野綾子さんはこんなことをおっしゃっています。「病気の治療や現世の幸福を信仰の代償として保障しないことだ」と提言してらっしゃいます。こうした考え方に対して、ある宗教専門紙に横浜市のある男性の反論が掲載されました。「現世の幸福を保障しないとしたら、いったい宗教は何のためにあるのか。死後の幸福のみを求めるとすれば、そもそも生まれてくる必要はないではないか」というのです。私は、「現世の幸せ」の保障内容を、病苦からの解放や長生きなどに求めるのは、株の売買で一攫千金が保障されるように念ずるのと同じ道であると思います。つまりそれが「効能主義」であります。

 人間の成長の度合いを示す時、心理検査などで、生活年齢と精神年齢との対比においてその人の能力を見る方法があります。社会の成熟の度合いを見る時にも利用できます。つまり社会に見られる物事万般の価値を利便や利益の大きい小さいなどにおいてのみ判断しようとする社会は、精神年齢が低いと見られなくはありません。

 二つめに、私たちが社会生活を営む時、個人の欲求を抑制しなければならない場面に遭うことがたくさんございます。私は長い間、子どもたちの教育に携わってまいりましたから、その経験から申します。野外に出かけて自然美溢るる環境で食事を済ませ、そこを立ち去る時に、残滓の後始末をするにも捨てる場がないという状況におかれた時、そのままにしておくか我が家まで持ち帰るか。その際、三つのステップが考えられます。

 ひとつは、「いいじゃないか。水分の垂れる残りかすをリュックに詰めれば、他の荷物を汚してしまう。それに、あとを掃除してくれる人がちゃんと給料もらっているに違いないから、そのまま放っておけばいいじゃないか。そのほうが楽だ」とそそのかす煩悩と申しますか、本能の働きが生じます。しかし、「塵埃を残してはいけない規則があり、規則を破れば罰則がある。だから、残ったものを持って帰るのは嫌だけれど、罰を受けては損をする」と、自分に言い聞かせて後始末する人もあるわけです。

 二つめは、宗教性をそれなりに持ち合わせている人は、先ほどのルールや罰則の有無に関係なく、「神仏の前にそういうことはできない」と思いかえし、本能の働きに左右されそうになった一瞬のわが心を恥じて、残りかすを残すことなくきれいに持ち帰るでしょう。以上、言いました二つのことは、かたや罰則を置き、かたや神仏を置くことによって、倫理を踏み外さない行為をとることができました。これでよしとするか、しないか。

 そこで三つめの段階でございます。どのような状況におかれましても「捨てられないものは捨てられない」とする心の作用を育てなければならないと思います。規則でもない、神でも仏でもない。私は、私自身の前に捨て去る行為は取れないのです。理由の有無は問えません。ただ残りかすをこのまま捨てて去れないだけのことです。この「だけ」という、そこに言葉の重みを私は込めているのであります。

 仏教では、「自身自仏・即身是仏」ということを申します。私は仏教の中の臨済宗という教団でございまして、その所属教団では少し言い方が違います。「即身即仏」また「自心仏(じしんぶつ)」と言っています。つまり真実の人間性、これを仏性といわしめているのはご承知のとおりでございますが、その仏性を持った私は菩薩の行をとらずにはおかれない。菩薩行というのは布施行であります。それは利他行であります。他者をしてよかれとする五色の水を潅がずにはおかないのです。しかも潅ぎ終わったその瞬間に、「私はあの人に良いことをしてさし上げた」という利他の行為をさらりと忘れ去る。忘れなくてはならないという意味ではなくて、自分の意識の上に利他行を為した、そのものの何の痕跡をも残さない。そのような心身の作用を大切にしなければならない。

 倫理に悖(もと)る行為は、神仏を見ようが見まいが、自らの前にできるはずがないという、それが宗教者の倫理であろうと、私は考えています。

宗教者としての個人の―以上に述べてきました宗教者の倫理に叶った―ありようが、所属教団に影響を与えるであろうと思います。私の宗教者としての倫理をしっかりと持って行為をする。そのことが所属教団に、そして、良き影響を受けた私の所属教団から各教団へ、その動きが伝わっていくであろう。さらに、その各教団が地球規模的な宗教間の対話を呼び掛けあうことができるであろう。倫理の深化を図る働きが必要だと考えます。そういうグローバルな動きの中で、そこから、宗教者個人個人へフィードバックされていく、そのような連鎖的な道筋を宗教者の倫理を考える時に、私は描くのですが、いかがでありましょうか。以上でございます。
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