国際宗教同志会 令和2年度総会 記念講演

安全保障について

政府代表関西担当特命全権大使
山本条太

2020年2月4日、神徳館国際会議場において、国際宗教同志会(芳村正德会長)の2020年度総会が、各宗派教団から約50名が参加して開催された。記念講演では、日本政府代表・関西担当特命全権大使の山本条太先生を招き、『安全保障について』と題する講演と質疑応答を行った。本サイトでは、この内容を数回に分けて紹介する。

接近阻止・領域否定

山本条太氏
山本条太 氏

ただ今ご紹介いただきました、外務省の山本でございます。高いところから失礼いたします。本日は栄えある場所にお招きいただきまして、理事長様、事務局長様をはじめ皆様に深く感謝申し上げます。また、本日の講題『安全保障について』の立派な看板も作っていただきました。安全保障とは、とりとめのない話でございます。もし、安全保障についてきれいに一直線の話をしている人が居るとしたら、その人は何か別のお話をされているということでしょう。安全保障はとりとめのない話ですから、私の話もとりとめのないことでやっていこうと思いますが、皆様のご関心からあまり離れすぎてもいけませんので、適宜ご質問など挟んでいただければ、それに対応しながらやっていこうと思います。まず1時間ぐらいお時間をいただき、話を進めていこうと思います。

まず安全保障とは、今一番身近な安全、安心の問題で、先ほど理事長様のご挨拶にも出ました新型コロナウイルスから始めたいと思います。各国が取り組んでいる様々な防御の対策がございますが、安全保障において特にアメリカが10年ぐらい前から中国の戦略を「A2AD(Anti-Access, Area Denial)」と呼んでおります。日本語に置き換えるとあまりピンとこないかもしれませんが、敢えて訳しますと「接近を阻止する。領域を妨げていく」となります。最初の「Anti-Access」が何かと申しますと、何か怪しげなものがやって来た場合に、できるだけ遠くで鼻先を抑える、いわば「水際対策」です。もうひとつの「Area Denial」は、自分の視界で何か怪しげなものがスペースを稼ぎ出そうとしている、膨れ出そうとしている時に、それを抑え込む、あるいは封じ込めることを指します。今、新型コロナ対策でやっていることのひとつは、感染者(あるいはウイルスそのもの)を、なるべく私たちの社会に入ってこないようにする(接近阻止)。さりながら、感染者やウイルスは国内に入ってくる訳です。その拡大を防いでいく(領域否定)。

大阪府は、先々週いち早く対策本部を立ち上げました。その後、感染者の方が大阪駅界隈を歩いていたらしいという情報が公開され、同時に万全の医療対策を講じておられるようです。これも「領域否定」ですね。ウイルスの脅威に対し、この大阪という管轄の中で拡大を封じ込めていく訳です。一方「接近阻止」は、あまりされていません。と申しますのも、やはり大阪は観光ビジネスで、インバウンドのお客様にドンドン来ていただきたい訳です。ですので、対策本部を立ち上げた直後に吉村知事や松井市長とも話しましたが、「中国人の皆さん、ドンドン来てください」、「必要であれば海外旅行保険を持って、大阪の医療を受けてください」、「けれども同時に、情報公開、あるいは個別具体的封じ込めも含めて、領域否定は頑張ります」とのことでしたが、これはなかなか大変です。

「接近阻止で外部からの侵入を防いでいく一方で、万が一入ってきてしまった場合は封じ込めていこう」というのが普通ですけれども、現在、大阪府が打ち出している対策は「ドンドン大阪に来てください。問題が起きたら何とかします」という、非常にチャレンジングなやり方です。「さすが大阪だ」と思いました。逆に、接近阻止、外部からの敵の侵入を防ぐことばかり続けていると、とかく人や組織は自家撞着や自己満足に陥り、「一所懸命やっているのだから危険は入ってこないだろう。だから拡大を押さえ込まなくても良いのだ」という方向へ走りがちです。今回の新型ウイルスにつきましては、アメリカは「接近を阻止する」ことに重点を置いてますね。例えば「中国からやって来た人は、アメリカ人を除いてアメリカに入国してはいけない」といった対策を打ち出している訳です。それはそれでひとつのやり方ですが、その場合「中国大陸からアメリカへ人が入ってこないのだから、防疫対策や情報公開も含めた国内の施策には、それほど力を注がなくても良いのではないか」と思い始めたら、それこそ危険だと思います。

中国側から太平洋方面を見た地図
中国側から太平洋方面を見た地図

今、「A2AD」についてお話ししましたが、本日お配りした資料の六6ージに地球儀をひっくり返した図が載っていますが、これは中国の方から、つまり日本海側から太平洋側を見るとどうなるかということが地形も含めて判るようになっています。したがって、図の下部にあたるのが中国大陸になります。濃い部分は海が深い所ですね。大韓民国の真上にあたるのが九州ですが、九州から台湾にかけて少し海の色が違うのが判ると思います。沖縄の島々が連なっておりますが、中国の人々はこれを「第一列島線」と言っております。ということは「第二列島線」もある訳ですが、上方に目を転じますと東シナ海を越えて沖縄の島々を越えるとフィリピン海がございます。ここへ入りますと、その左側に──これは父島、母島、小笠原列島から出発するのですが──右の方へ大きく弧を描きまして、グアム、パラオと連なっています。これを「第二列島線」と呼びますが、この「第一列島線」および「第二列島線」は、中国にとって関心のある領域であります。

「A2AD」とは、アメリカ人が中国人の戦略を指して付けた名前なんですが、2008年頃から輪郭を表してきて、2010年にはすっかり定着しました。私もかつて自衛隊員として宣誓をして防衛省で働いていた訳でございますが、防衛省の人間は、背広組の人間でも自衛隊員でございます。2013年の話ですが、その頃にはすっかり今の防衛省でも「中国の戦略= A2AD」という捉え方が定着していました。こちらの地図をご覧ください。九州から沖縄を通りまして、台湾までが第一次防衛線。そして東京から伊豆諸島、グアム、パラオまでが第二次防衛線です。ここに対して、中国が念頭に置いている怪しげなものがアメリカ軍です。アメリカ軍が接近してくるのを、できるだけ遠くで押し戻す。これが「接近阻止」です。もうひとつが、この防衛線の中で何事かが起きた場合、その拡大を抑え込み、封じ込めていく。仮に第一次防衛線の中でそれが起きたならば、ますます深刻、真剣に対応する…。何故、中国がこのようなことを考え出したかと申しますと、きっかけはおそらく2006年です。この日本周辺に、初めてアメリカの原子力船空母ジョージ・ワシントンが配備されました。実際配備されたのはもう少し後だったんですが、通常型ではなく空母が常時徘徊するということが、時の中国にとって安全保障上の脅威でありました。では、どういう対策を取ったかといいますと、中国の陸海空にとどまらず様々な軍種として対応することになったのですが、そのひとつがアメリカ的なものが押し寄せる際、できるだけ遠くで接近阻止し、鼻先を抑える。もうひとつは、中国の関心のある地域で怪しげな動きが出てきたならば、それを抑え込んでいくということでした。

「現状の変更」そのものが問題

2012年、中国との関係が巧く行っていなかった時ですけれども、9月11日に日本政府が尖閣諸島を購入──中国人はこれを「国有化」と呼んでいますが──しました。それまで尖閣諸島は、とある日本人の地主さんが個人所有している「私有地」でしたが、国が借りておかないと様々な人が入り込んで、挑発的なことも含めていろいろなことが起きますので、長らく日本政府が借り主となっていました。私が居りました内閣官房でも、結構大切な仕事のひとつが毎年尖閣の地主さんと行う借料交渉でした。それぞれ事情がありますが、国が借りることにより、状況を今のままにしておくこと。今のままと違うことを誰かがやるといったことのないようにしていました。

ところが2012年、東京都の石原慎太郎知事が「東京都が地権関係者から尖閣を買い取ることで基本合意した」と言い出したため、時の政府は「これは大変だ」ということになり、国が購入することになりました。「時の政府」──私は民主党政権が始まる直前まで自民党政権下の内閣官房で働いておりました。民主党政権に替わる時に内閣官房を追い出されたため、「時の政権」と若干当事者意識のないような物の言い方をしてしまいますが──にしてみれば、東京都が所有することによって中国との関係で極めて挑発的なことをやるよりは、国が買い上げてしまったほうが中国にとっても良いだろうという思いがあったのだろうと思います。

ところが、中国の海洋政策はその時既にA2ADでしたから、日本政府が買い上げるということは「領域否定」に関わってまいります。再度、地図をご覧ください。ここに台湾がございます。そして、ほとんど点になって見えませんけれども、ちょっと横に与那国島、さらに石垣島がございます。こうやってご覧いただくと、尖閣が中国の設定した第一列島線の内側にあることがお判りいただけると思います。ただ、第一列島線と申しましても北と南では重要性が違います。台湾のすぐ傍である尖閣で何事かが起きた訳です。それは、これまで私人が所有していた土地が日本政府の土地になったということです。もちろん日本側にも「尖閣を日本の一都市である東京都が所有するよりは、国が持ったほうが中国にとっても良いんじゃないですか」という理由がありました。

しかし先ほどのA2ADの観点から見ますと、何事かが起きた。現状が変わってしまった訳です。しかも、一私人が持っていたものが国の所有になるということは、それこそ「日本国が何かやるかもしれない」という可能性としての危険が高まった訳です。そういたしますと、中国側にしてみれば何か怪しげなものが自分の関心地域で領域を拡大しようとしているということで「何とかしないといけない」ということで、何とかしてしまった訳です。以降、海から空から中国側の警告的な措置が相次ぎました。

国宗会員を前に熱弁を揮う山本条太関西大使
国宗会員を前に熱弁を揮う山本条太関西大使

おそらく、ひとつの教訓は、その時その時の状況で「これが良いだろう」、「これは悪いだろう」という想像力は、相手に対してとことん説明しきれるのであれば意味があります。ところが、安全保障の世界でしばしば危険なのが「思い込み」です。その「思い込み」は、たとえ善意に沿ったものであっても、相手は違う受け取り方をします。相手がどういう受け取り方をするだろうという想像を働かせる根拠になるのが「戦略」なんですね。戦略といったものを外から言葉で形容しようとする行為は、そういった思い違いをなくしていく一つの重要な手立てであります。もしあの時日本側がもう少し強烈に、A2ADが中国の戦略だということ、そして特に中国から見て尖閣に関わる日本の動きは中国の「領域否定」であり、その否定されるべき動きの拡大だと思われる場合、必ず中国側から対抗措置がなされるだろうという推論。ここをもっと深く考える必要があったのかもしれません。そうしますと、同じ地主さんからこの島々を買い上げたとしても、そういった中国の出方に対してどうするのか。もう一歩先を見ながら考えることができたのかもしれません。

現状を変更する…。それ自体大変なことですが「現状変更といっても、良い方へ変更するならばいいじゃないか」と思われるかもしれません。しかし、ここが安全保障の冷たいところです。例えば、国連には総会という機関がありますが、これは世界の人々がより幸せになるにはどうすれば良いのか、ある意味、より正義を目指していく場であります。この他にもうひとつ、15カ国で構成される安全保障理事会というものがございます。国際の平和と安全の維持にあずかる機関ですが、こちらは、正義や善し悪しの価値観、理想といったものには関知しません。安全保障理事会が動き出すのは、現状が変更された時です。その現状変更に対して「これは大変だ」という国が出てきた時です。もしかすると、将来の歴史家は「それは良い変更だった」と言うかもしれません。けれども、現状下において安全保障理事会には関係ないことであり、しばしば冷たい現実といったものを引き出します。現状が変更されつつある、しかも、それが悪い方へ変更されているかもしれないけれども、それを防いでいく術がない時に安保理が何をするかと申しますと、忘れたフリをするんです。

忘れたフリをする安保理

1990年代、アフガニスタンは既に大変な状況になっていました。日本も含めて世界の各国がさまざまな和平努力をした訳ですが、現地に有り余る武器。そして数知れぬ当事者。またアフガニスタンはそもそも部族社会ですから、内戦以前から続く部族同士の争いもあります。そういった諸々が重なり「これは駄目だ」と判断した安保理が何をやったかというと、忘れたフリをした訳です。その後、21世紀に入って激しいことになり、アメリカに対する「9.11」同時多発テロ…。それに対するアメリカの反作用(アフガン戦争)。そこまで行ってしまった訳です。では、われわれは今、アフガニスタンの問題をしっかりと正面から捉えているかというと、ちょっと自信がないですね。少なくとも安保理は引き続き、忘れたフリをしています。

この問題の根源を断ちきろうと努力を続けてこられたペシャワール会の中村哲という医師の方がおられますが、残念なことに昨年襲撃に遭い亡くなられました。水はしばしば住民や部族間の争いの原因になりますが、中村医師は一生懸命アフガニスタン各地に井戸を掘り続けていました。ただ、中途半端な数の井戸しかない所は、かえって住民や部族の激突の対象になります。つまり皆がそれを奪い取るために力を使わなくてもなんとかなるぐらいの段階まで、後は皆にとって良い配分になるように話し合いで決める段階まで、一挙に水の配給網を増やせたら良かったのですが、現実にはなかなかそういきません。中村医師は、いわば道半ばで亡くなられた訳ですが、もう少しアフガンのたくさんの人々に水が行き渡れば、それを巡って力ずくで奪い取らなくて良いという所まで達成できる時間があれば、様子は違ったのかもしれません。

次に「現状」ということで、アフリカのことをご紹介します。アフリカ大陸の真ん中辺り、ここは砂漠ではなく緑豊かな可能性のある土地です。関西でもアフリカとビジネスをされている方は大勢居られますが、皆さん「(アフリカは)これまでしがらみを伴うような制度や文化がなかった分だけ、スマートフォンでのキャッシュレス決済(といったような新しいシステム)が急速に拡がっている。いろんな意味で次から次へとジャンプできる可能性を秘めているのがアフリカだ」と口を揃えて言われますが、私もその通りだと思います。

この地図の真ん中にある豊かそうな土地。今日お配りした資料の最後のページをご覧いただきますと、国連の平和維持活動が展開されている地域であることがお判りいただけると思います。重ね合わせますと、国連PKOが入り込んでいる地域と、本来緑豊かで、ビジネスに限らずさまざまな人間活動が活発であってしかるべき土地とが重なっている訳です。これは、部族、住民といった当事者が多過ぎる土地ですが、各国の国連部隊が入って何をやっているかといいますと、ひたすら現状維持をすることです。と申しますのは、住民の非常に予測しがたい暴動や、あるいは先ほどご紹介した井戸掘り活動…。MONUC(国連コンゴ民主共和国安定化ミッション)など、中央アフリカ地域での国連PKOは多くが大規模ですが、その任務のほとんどが住民保護、文民保護です。ですので、実はそれをやればやるほどほど、現地において当事者同士が物事を政治的に解決しようという動きから程遠くなっていくのかもしれません。また、国際部隊がそういった治安に与れば与るほど現地社会が責任と決意を持って住民の保護、治安といったものを進めていこうという機運が少なくなるばかりかもしれません。現にそうなっているという指摘もあります。

では、それに対して、治安維持と政運の維持にとどまらず、もう少し大がかりなことを国際社会はできないのか。例えば1990年代にユーゴスラビアで大変な内戦がありました。結局、当時のユーゴスラビアが4つ、5つの国に分裂し、しかもそれぞれの住民の人種、言葉、宗教、背景といったものが違っただけで壮絶な内戦になったのです。これに対して時の国連は、NATO(ロシアに対して西側の国々が作った軍事機構)と協力し合って内戦を抑え込みました。時間はかかりましたが、なんとかかんとか巧くいきました。

ちょうどその頃、国連では緒方貞子さんが活躍されていました。「人間の安全保障」という概念を提唱しながら──ユーゴスラビアの冬は寒いんですね。燃料、食料、人々の生活は大変なことになります──そういった人々への援助を続けながら、当事者の政治的な解決を模索するために、言うことを聞かない当事者の政治家を締め上げ、国際的な軍事力も使うということをやった訳です。時間もかかりましたが、現在、旧ユーゴスラビアの各国は、それなりに平穏を取り戻しましたので、失敗ではなかったと思います。

それから再び、1990年代にアメリカ、パキスタンの大きな国連部隊がソマリアに突っ込みました。あの作戦自体は失敗だったようです。何故ソマリアに突っ込んだかと申しますと、私は当時、安保理に居りましたが、あのよくテレビに映る立派な理事会議場の隣にある小部屋で実務的な議論をするんです。ユーゴスラビアに対して大規模な介入を行っていた国連について、安保理の中で話し合いをしていたところ、西ヨーロッパからはイギリス、フランス以外に2カ国の代表が居ました。当時は安保理の中でタバコを吸っても良かったため、ヨーロッパから来た大使達が葉巻やパイプをプカプカとくゆらせながら、ユーゴスラビアでの国連の活動について話していたんです。

安保理の小部屋の中には、アフリカのジンバブエから来た大使が居ましたが、この大使が突然怒り始めまして、文字通り灰皿をなげるような格好をして「何故、ユーゴスラビアの戦争のことばかり議論しているんだ。アフリカのことを忘れたのか?」と叫びました。これをきっかけに、ソマリアに国連が介入することになりました。あまりにも用意が調わないうちに突っ込んだということもあって、失敗しました。しかしそれ以降、ソマリアに対する関心や混乱は、徐々に陸から海(海賊討伐)へ移行し移動しつつあります。この海賊も国際社会の取り組みの結果、徐々に落ち着いてきました。逆に、アフリカの各地で住民保護やひたすら現状を維持するだけでなく、ユーゴスラビア内戦時のように、何故国際社会は決意を示さないのか。それは、国連という存在を構成している各国の関心が内向きになっているからです。

戦略安定という現状維持のメカニズム

1990年代というのはさまざまな理由がありますが、その中で一番の理由は、ソ連が崩壊した後のロシアが何をやり出すか判らない中、西側の国々はどうすれば良いのか。それぞれの場面で、西側の国は国連を通じてそれまでになかった行動を取ろうとした訳です。つまりやる気があり、そのための能力を使った訳です。例えば、ユーゴスラビア連邦が崩壊した際、国連とNATOが役割分担したのですが、これはもの凄い分担でした。これはよほど能力がないとできないことです。そういった能力や決意に満ちた国々にしたいという思いがあったからこそ、緒方貞子さんの「そういった能力や決意を国と国の抽象的な語らいやぶつかり合いだけでなく、もう少し現場の住民にも目を向けてほしい」という主張も意味を持った訳です。ところが、今はそうではありません。アフリカにおいても、ひたすら現状を維持していくことしかできなくなってしまいました。

「各国とも内向き」と申し上げましたが、おそらく「内向き」が安全保障的には一番厄介で危険なことだと思います。安全保障はひとことで定義することができません。言葉で定義すればするほど、何か大切なものが失われていく気がします。敢えて申し上げれば「安全保障は不確実性の問題」だと思います。状況が不確実であればあるほど危険である。これがまずひとつ。それからもうひとつが「安全保障というものは玉突きである」ということです。世界では、いろんな人がいろんな場所でいろんなことに取り組んでいますが、目の前に現れたことは、その場でじっとしていません。他の地域の玉を突いていきます。そうしますと、本来なら自分たちでコントロールできそうに見えていた問題も、実はそうではない。何故かと申しますと、それが逆に玉突きを生み出すからです。もしかしたら目の前で起こっていることも、他のところから出発した玉突きの帰結かもしれません。

冷戦は1990年代初頭に終わりましたが、冷戦時代は、ある意味、安全保障的にはしっかりした時代だったのかもしれません。アメリカとソ連それぞれが核兵器を持っていましたが、喧嘩になると互いに核兵器の使い合いになって、結果として両方が倒れてしまいます。MAD(相互確証破壊)という略称があります。核は使うとどちらも確実に滅びますが、それは双方とも嫌な訳です。そういう核に対する恐怖感が、米ソの「冷たい戦争」というよりは「冷たい平和」を創り出していたのかもしれません。世界の現状をなるべく固定したかった訳ですが、世界の構造は分かりやすくて、西側、東側、いずれにも与しない非同盟諸国…。いろんな所でいろんな争いが起こりましたが、要はそれぞれの枠組みをあまり動かさないようにしようということでした。例えば、東側的なものが西側的なものに食い込まれそうになると反発力が働きました。逆もまたしかりです。東側なら東、西側なら西の中でいろんな変化が起きようとも大勢には影響を与えず、大きな意味での現状が固定されていれば、それでいいじゃないかという時代でした。

当時、「人権」と「堕落」の2つの言葉が生み出されました。軍事的には大きな分担さえ決まっていれば良いのですが、イデオロギー的には相手の体制をあれこれ批判することで自国陣営の結束にも繋がるということで、西側が東側の国を批判する時は「人権が侵(おか)されている」という言い方をしました。ここでいう人権とは「国内の権力がそこに居る住民を弾圧している」という意味ですが、口では「人権が侵害されている」と言うものの、政治的な意味でそれを超えて人権が弾圧されている国々の人を解放してあげようと積極的に割って入ったかというと、そうはしませんでした。逆に、東側が西側の国を批判する時は「堕落だ」、「腐敗だ」と言いました。しかし、その堕落して腐敗している可哀想な人々を救うために西丸陣営の本丸に東側が軍を投入するかというと、それもありませんでした。これが冷戦力学です。先ほど「核の恐怖」と申し上げましたが、もう少し実務的、制度的に申し上げると、アメリカとソ連の間には戦略安定のメカニズムが働いていたのです。核兵器を扱う人を頂点として、軍事、政治といった専門家同士の国境を越えたパイプがあり、恒常的な連絡や調整がありました。

アメリカは民主主義の国ですから、どういう人が大統領になるか判りません。ソ連は独裁国家ですが、実は誰がリーダーになるかは予測の付かないという意味では、アメリカと同じです。極めて個人的な、また人間関係的な理由で次のリーダーが決まります。つまり、アメリカもソ連も「どんな人がリーダーになるのか」について不確実性が高かった訳です。そういう中で、あっと驚く人がリーダーになって、気軽に核のボタンを押したりしたら堪らないですね。そこでアメリカとソ連の専門家や専門組織同士──非常に分かりやすく申し上げると、情報機関的な人たちが恒常的に連絡を取り合っていました。1990年代に人から聞いた話ですけれども、アメリカの大統領が交代する時、最初に新大統領の部屋にブリーフィングに入るのは情報機関の人だそうです。主要国の情報機関というのは、戦略も作っていますが、何をやるかと申しますと、新大統領に政策のカタログを示すそうです。新しい大統領は新味のある政策をやりたがりますから、3つか4つ示して「この内から選んでください」という訳です。しかしよく見ると、そこで示された政策の選択肢は一定の幅を超えていません。ソ連でも同じようなことをやっていました。アメリカとソ連の情報機関同士が、それぞれのボスに示す政策の選択肢はここからここまでで、ここを踏み越えちゃいけないといったことを摺り合わせていたのです。これが戦略安定のメカニズムです。

冷戦終結後、戦略安定協議のメカニズムがあるかないかが、おそらく安全保障を考えていく上で決定的に重要なのだと思います。アメリカとロシアの間は、かつての米ソの伝統がありますから、それなりに戦略安定のメカニズムが存在し、時々公にそのような接触が行われます。ただ、ごく最近それも大丈夫かなと思うような動きが出てきました。「INF(中距離戦略核制限条約)」をご存知でしょうか? 中距離ミサイルに核兵器を積んだものですが、アメリカとロシア(かつてのソ連)との間で結ばれた、中距離の核ミサイルに対して規制を加える条約です。ところが去年か一昨年に、トランプ大統領が「INFを止める」と発言しました。その理由は、中国も中距離核ミサイルをたくさん持っているのだから、アメリカとロシアだけが自制しても仕方がないということ。もうひとつは、ロシアが開発している新兵器の導入はINF条約違反だから、アメリカはロシアも言うことを聞かないから条約そのものを廃棄するという動きがあり、現に廃棄されました。ここで問題なのは特に「ロシアがやっているいろいろな動きは、INF条約にことごとく違反しているのだからけしからん」ということは、一国の大統領が軽々に言うべきことではなく、それこそ専門家同士が戦略安定のメカニズムの中で、技術的にはこうだといったような検討があって然るべきです。その検討があった上で、トランプ大統領が「INF条約なんかぶち壊してしまえ」と言ったのか、そうではなく米露間の国境を越えた技術的な検討といったプロセスを経ずに、いきなりあのような発言をしたのか。それによって物事は全く違います。

中国がいろんな動きを見せていますが、個別の動きそれ自体を見るよりは、中国はどこかの国と戦略的安定のメカニズムを持っているのか、持っていないのか。そのメカニズムがどの程度深いものなのか。そこが一番大事です。個人的には、防衛省にお世話になり始めた頃が、中国が一番大胆に動いていたように思います。サイバースペースでも宇宙空間でも、急速にその活動域を拡大してゆきました。また空母を買ってきたりしました。中国の海軍は二通りあります。近海を守っているのがグリーン・ネイビー、遠い外洋を守っているブルー・ネイビーと言いますが、このブルー・ネイビーを強化していました。現在はとても落ち着いていますが、その頃は個々の軍人がかなり大胆なことをやっていました。当時、習近平氏の国内での基盤はまだ十全ではなく、250万人を擁する人民解放軍に対する政治的統制が行き渡らないうちにサイバーや宇宙といった新しい分野が続々と出てきていたため、現場の人間が政治的なコントロールなしにいろんなことをやっていた節があったと、今から考えてみるとそう思います。習近平氏の権力基盤は強い、弱いといろいろな見方がありますけれど、少なくとも極めて大規模な軍隊を統制していく上では政治的なコントロールがそれなりにキチンとできる権力基盤がないと危なっかしくてたまりません。

NATOの限界とEUの役割

そういった中で各国の戦略安定メカニズムは、だいたい内向き傾向が強くなってきましたから、ちょっと難しいですね。国境を越えて、場合によってはそれぞれの行動範囲に制限をかぶせる、コントロールすることで、どうしても続けざるを得ない力学が弱まってきているようにも感じます。こういったことは軍隊に限らず、安全保障はいつ何時何が起きるか判りませんし、すべての事を野放図に玉突きで任せておきますと、それこそ大変なことになります。やはり、さまざまな分野で、各国の当事者と恒常的に「ここから先はやっちゃいけない」ということを相談しようという意識で以て関係を強化していくことが、安全保障的には大事だと思います。無関心は危険なんです。

NATOは、アメリカと西ヨーロッパが、ソ連を盟主とする東側諸国に対抗するために作られた軍事同盟ですが、西ヨーロッパにはNATOに入っている国と入っていない国がございます。NATOに入っている国は、イギリス、フランス、ドイツといった、皆様ご存知の国はだいたい入っています。一方、入っていない国はどこかと申しますと、私が去年の春まで大使で居りましたフィンランド、スウェーデンです。北朝鮮が、ここ数年あちこちにミサイルを撃ってみたり、核実験をやったりといろいろなことをやっています。政治的な動きとは別に、軍事的にはさまざまな冒険が北朝鮮にあります。ヨーロッパの中でNATOに入っている国は、北朝鮮のミサイルや核に関する脅威に対して極めて鈍感です。何故かと申しますと、各国とも自らの安全保障を、NATOの安全保障とすり替えがちだからです。NATOの守備範囲は決まっていまして、中核をなすのがアメリカ軍。アメリカ軍の中でも分担地域が決まっており、欧州コマンド(米軍ヨーロッパ司令部)がNATOの管轄です。

ということは、ヨーロッパ内での対立と、ロシアと接するところ全て、せいぜい出張っても中東までです。NATOは、それ以外の地域には関心がないんですね。何故なら米軍欧州コマンドの管轄ではないからです。朝鮮半島も関係ありません。米軍的に申しますと、それは太平洋コマンドの話ですから…。それにつられて、ヨーロッパのNATO諸国も北朝鮮問題に対し全くにぶいです。これに対してフィンランド、スウェーデンは、NATOの くびきに囚われておりませんから非常に敏感です。地球を上から眺めますと、朝鮮半島はすぐ傍なんですね。4,500キロのミサイルを朝鮮半島から飛ばしますと、ちょうどロシアの西端まで届きます。8,000キロ級のミサイルですと、リスボンを除く全てのヨーロッパの首都が狙えます。「これは大変だ、どうしよう」と、自国で考えることができるのがフィンランドやスウェーデンです。この2カ国は北朝鮮問題について非常に敏感でした。

私たちも日本を取り巻く安全保障上の問題を説明する時、相手を見ながら説明することが大切だと思います。フィンランドとスウェーデンは、両方ともEUです。EUとはビジネス経済だけでなく、安全保障もやっています。アメリカの居ないところで安全保障を考える。フランス的な人々にとっては素敵なお話です。まだ情報分析の段階で、NATOと比べると規模も違いますし、組織もまだまだ脆弱ですが、共通外交政策だけではなく共通安全保障政策を考え、それを支えていくような欧州を統合するものを彼らは作っているのです。

私どもが朝鮮半島問題や、その他の東アジアにおける問題について、ヨーロッパの人々に実感を持って解ってもらうには、いきなりNATOの場で訴えて「はぁ?」という顔をされるのではなく、まずEUです。EUに持って行くには、フィンランドやスウェーデンの人々にとことん実感を持ってもらい、彼らにEU内で大いに叫んでもらえば良いのです。「フィンランドはムーミンやサンタクロースののほほんとした国」というイメージに騙されてはいけません。ロシアやソ連と陸続きで、過去100年間、自らの国の形を保ちつつ生き抜いてきた、たったひとつの国ですから、安全保障や国家防衛に関わる知恵と決意は、もの凄いものがあります。どうせ防衛協力するならば、そういったもの凄い国と組んだほうが費用対効果もよろしいです。組織的な戦略安定メカニズムを全ての国と分かち合うことはできない訳ですから、次善の策として使える国に解ってもらい活躍してもらう。そのことが肝要という気がいたします。そろそろお時間になりましたので、本日の講演はこれで終わらせていただきます。ご清聴有り難うございました。

(連載おわり / 文責編集部)