自爆テロの宗教的意義
   02年04月03日


レルネット主幹 三宅善信

▼キャンプデービッド合意を反古に

  連日伝えられるイスラエルとパレスチナとの間の「戦争」(というよりは「虐殺」に近い)にの報道を見ていると、本当に気分が重くなってしまう。特に、パレスチナ人の若者が次々と、爆弾を腹に巻きつけ自分のいのちを的にして、いわゆる「自爆攻撃」を連日敢行している姿を見て、何も感じない人はいないだろう。2001年、新世紀最初の年に登場した2人の独善的な国家の指導者によって、冷戦後の世界秩序は、ある意味で存亡の危機に立たされていると言ってもよい。ひとりは、言うまでもなくアメリカ合衆国の大統領ジョージ・W・ブッシュ氏その人である。ブッシュ大統領の所業については、これまでたびたび本論を通じて批判を展開してきたので、あらためて言うまでもないが、もうひとりの独善的国家指導者とは、イスラエルのアリエル・シャロン首相のことである。この2人は、これまで二十数年間にわたって、ある意味で、アメリカがイニシアティブを取って培ってきた、中東和平合意の成果(相互の信頼醸成)をぶち壊してくれた。

  まず、カーター政権時代の1978年、エジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相によって、建国以来の宿敵だったイスラエルとアラブの間で結ばれた、あの歴史的な『キャンプデービット(「ダビデの基地」という名前が皮肉である)合意』にはじまる相互の信頼醸成措置は、その後も、ノルウェー政府の秘密裏な仲介により、クリントン政権時代の1993年に再び開催されたキャンプデービット会談で、イスラエルのイツハク・ラビン首相と、PLO(パレスチナ解放機構)のヤセル・アラファト議長との間(註:実際に署名したのは、シモン・ペレス外相とマフムード・アッバス民族国際関係局長の2人であり、ラビン首相とアラファト議長は立会人であった。この両氏は、この功により、ノーベル平和賞を受賞した)で締結されたイスラエルとパレスチナ間の合意事項。すなわち、第三次中東戦争以来、イスラエルが軍事的に不法占拠(註:イスラエルは再三にわたる「占拠を止めるように」という国連決議を無視する形で、占領地域にユダヤ人入植地を拡げていった)していたヨルダン川の西岸地区と、地中海に面したガザ地区というパレスチナの領土から、イスラエル軍がいかに撤退するかということについて、イスラエル政府とPLOとの間で結ばれた合意事項によって、パレスチナ暫定自治政府が成立した。

  その後、クリントン政権の後押しによって、イスラエルとパレスチナ間の「自治」合意は、着々と実施が進んでいった。クリントン政権がもうあと数カ月長く続いていれば、あるいは、アル・ゴア氏が大統領選に勝っていれば、イスラエル軍の完全撤退が行われていたにちがいないところを、シャロン氏(当時は、右派政党リクードの党首)による、(双方の合意によって)イスラム教徒の管理区域になっている旧市街地(東エルサレム)のいわゆる「神殿の丘」(註=これはユダヤ教側の呼び名で、イスラム教側では、預言者ムハンマド(マホメット)の魂が昇天した場所に建てられたというモスク「岩のドーム」に因んで「ハラム・アッシャリーフ」と呼ばれている聖地)への侵入と、パレスチナ人に対する挑発行為に端を発した事件によって、相方の暴力沙汰がエスカレートし、この合意が完全に崩壊させられてしまった。この間の歴史的・政治的な経緯については、既に多くの人が論じているので、わざわざ私が論を重ねるまでもないが、レルネットの主幹としては、歴史的・政治的問題は別としても、このパレスチナとイスラエルとの「戦争」の神学的な意味付けについては、考察してみる価値は十分にある。

▼アメリカとイスラエルこそ「悪の枢軸」

  対アフガン攻撃ならびに対パレスチナ攻撃についてのブッシュ大統領とシャロン首相との論理構築(自己正当化)の論理は、驚くほどよく似ている。いずれも、自分たちの残虐行為を正当化するために、「これは、相手から吹っかけてきたテロ攻撃に対する自衛的な戦争であり、われわれにはその権利がある」と主張している。アメリカが、昨年の10月8日以来、アフガニスタンに軍事侵攻を行ったのと同じく、先進国であるイスラエルと、難民ばかりの三流国家と言ってもよいようなパレスチナとでは、軍事力に圧倒的な実力差があり、アメリカがアフガニスタンを蹂躪したように、イスラエルがパレスチナを嬲(なぶ)りものにした。これまで、4次にわたる中東戦争の結果を見ても判るように、イスラエルを取り囲むアラブの5カ国がよってかかかっても、イスラエル一国に勝つことができないのに、イスラエルに包接される難民国家のパレスチナが、イスラエルに軍事的に勝つ可能性はまったくない。その相手に向かって、1年以上にわたって、連日連夜「正当防衛」と称する軍事的な攻撃を加えているのである。ブッシュ大統領とシャロン首相との方法論の一致は、自らの行為を「テロと正義の戦い」と称して、自己正当化しているところである。

  ブッシュ大統領は、昨年の「9・11」いわゆる同時多発テロ事件の直後に行った演説で、「このテロ攻撃は、文明(Civilization)に対する戦いである」と言って、また、「either with us or terrorist?」というように、「われわれの味方につかないものは皆テロリストだ」と言い切った。しかし、この「文明に対する戦い」と、ブッシュ大統領が言ったときのcivilizationという言葉は、日本語だと気にならないが、英語で用いられたときは、civilizationという単数形で用いられているのである。つまり、そもそも世界中にはいろいろな文明(圏)が存在するはずであるのに、ブッシュ大統領の頭の中では、アメリカの価値観を中心とした社会だけが文明であって、それ以外のものは、意味のない、あるいはいずれ収斂されていくべき劣った存在として見ていることが、彼の用語法の中に無意識のうちに表われている。この価値の多元主義を認めようとしないブッシュ大統領あるいはアメリカ合衆国と、シャロン首相あるいはイスラエルというもののあり方の中にこそ、問題があると言わざるを得ない。

  私はそもそも、正義や真理などというものは、論理的に存在しないと思っている(1998年8月に上梓した『「正義」という「不正義」』)が、仮に百歩譲って、世の多くの人が思うように、この世界に真理や正義というものが存在するとしても、そこにある真理(正義)というのは、まさしく「真理(正義)は複数である」という意味での真理(正義)である(註:ひとつの事実に対して、人間の数分だけの解釈や意味付けを含んだ実存的な真実が発生するということ)と言えよう。このことは、少なくとも「真理(正義)はひとつである」とする立場が、明らかに論理的には間違っていることを表わしている。仮に真理というものが存在しえたとしても、それは実存的真理として複数存在するのであるから、真理がひとつである(当然、神はひとつという考えも)という立場は、論理的な自己矛盾に陥っているのである。

▼まったく異なる『十戒』と『十善戒』

  今回のイスラエルとパレスチナとの戦争について、論じている文章に紹介されている宗教的な意味付けで、まったく的を得ていない解説に、ユダヤ・キリスト・イスラム教徒共通の聖典である旧約聖書に納められている『十戒』の「殺すなかれ」という禁止条項を採り上げたものがある。日本人は、この『十戒』について、大きな考え違いをしているので、ここで取り上げてみたい。

  イスラエルに対して、軍事的行為の自制を求めるための宗教的な裏付けとして、大半のイスラエル人が信仰しているユダヤ教の聖典『トーラー(律法)』の一部である日本人にも良く知られた、禁止条項のひとつ、いわゆるモーゼの『十戒』で、神から命ぜられている「殺すなかれ」という項目を摘出して、イスラエルだけでなく、キリスト教と同じく、ユダヤ教的伝統から派生したイスラム教徒が多くいるパレスチナの人々に対しても、同じく「殺すなかれ」という精神で、論を展開していくものがよく見かけられる。しかし、これなぞ、まったくユダヤ・キリスト・イスラム教的伝統というものを理解していない者の論理の構築方法である。

  あるいは、もう少し気の利いた論説などでは、この『十戒』の「殺すなかれ」という禁止条項と、大乗仏教に見られる『十善戒』の中の「不殺生(ふせっしょう)」戒とを比較して、「世界のあらゆる宗教は人殺しを戒めている」などと、したり顔で論じている。これもまた、十分、アブラハムの宗教(ユダヤ・キリスト・イスラム教)的な伝統と、大乗仏教の伝統の両方を正しく理解していないと言えよう。

  そもそも日本人の多くは、モーゼの『十戒』の第1戒に「殺すなかれ」という項目があると思っているが、これは大きな間違いである。確かに『十戒』には、「殺すなかれ」という条項は存在しているが、ここにおける「殺すなかれ」という項目は、第6番目の条項である。ちなみに仏教の『十善戒』における「不殺生」戒は第1番目である。『十善戒』において、不殺生に続くのは、不偸盗(ふちゅうとう=盗まない)・不邪淫(ふじゃいん=姦淫しない)・不妄語(ふもうご=嘘を言わない)・不綺語(ふきご=戯れごとを言わない)・不悪口(ふあっく=暴言を言わない)・不両舌(ふりょうぜつ=二枚舌を使わない)・不慳貪(ふけんどん=貪らない)・不瞋恚(ふしんに=怒らない)・不邪見(ふじゃけん=邪見にふけらない)ということである。その第1戒として、仏教では殺生を禁じているのである。しかし、モーゼの『十戒』(旧約聖書の『出エジプト記』第20章3‐17節)を読めば解かるように、十戒の記されている順番は、以下の通りである。

1、 私(ヤハウェ)の他になにものをも神としてはならない
2、 あなたは、自分のために刻んだ像を造ってはならない。
3、 あなたの主なる神の名をみだりに唱えてはならない。
4、 安息日を覚えて、これを聖とせよ。
5、 あなたの父と母を敬え。
6、 殺してはならない。
7、 姦淫してはならない。
8、 盗んではならない。
9、 隣人について偽証してはならない。
10、隣人の家を貪ってはならない。
となっているのである。

  つまり、『十戒』においては、「殺してはならない」という項目は第6条目にすぎないというのである。「父と母を敬え」という単なる親孝行の道徳訓のような項目ですら、殺人の禁止条項よりもより重要な項目として、その前に記されている。ちなみに、『十戒』の第1条目(どんな法律や規則でも、最も大事なものを第1条目に持ってくるのが当然である。(『談合3兄弟:憲法十七条の謎』参照)においては、「私以外のものをなにものをも神としてはいけない」と、神(ヤハウェ)は言っているのである(註:イスラム教の神(アラー)も「アラーの他に神はない」との信仰告白を第一に要求している)。すなわち、「私以外に価値の基準になるものはない」と、宣言しているのである。つまり、ユダヤ・キリスト・イスラム教徒たちが信じている神は、多元主義を真っ向から否定する神なのである。彼らは、人類の他の多くの文明に見られるような、「殺してはならない。盗んではならない。嘘をついてはならない」といった普遍的な道徳律とは、根本的に異なる価値観を持って生きている人たちなのである。

  したがって、アブラハムの宗教における殺人禁止条項と、他の諸宗教の殺人禁止条項を単純に比較することは、方法論的にも適切さを欠いている。彼らにとって「人殺しをしてはならない」という禁止条項は、優先順位がかなり低い禁止条項であって、逆に、それよりもより上位の禁止条項を守るために「人殺しをしなければならない」という場面が生じたら、彼らは「なんの躊躇もなく、人殺しをする」と言っているようなものである。

▼イスラム教における自爆テロの意味

  昨年の10月8日に始まったアフガニスタンでの戦争の折に、ビン・ラディン氏は「ジハード」を宣言した。日本語では、ジハードの翻訳として「聖戦」という言葉を当ているが、これは正確な翻訳ではない。アラビア語のジハードの意味は、「神の道(信仰)に精進・努力すること」という意味である。まったく「聖戦」という意味はない。しかし、今日、日本語訳だけでなく、英訳においても「ジハード=聖戦」とされているのには、彼らの戦いになんらかの宗教的意味を付与せねばならないことになる。しかも、昨今では、本文の冒頭に述べたように、連日の「自爆」攻撃という、自らのいのちと引き替えに宗教的信条の表明が行われている。

  しかし、神から授けられた(という)御言葉集の『コーラン』や、預言者ムハンマドの言行録である『スンナ』といったイスラム教徒の聖典(シャリーア)においては、自殺は禁止されている。このことは、昨今、パレスチナにおいて、毎日のように敢行されている自爆テロという行為と相矛盾するのである。イスラム教では、一般的には戦争は禁止されている。ただ、自分たちのイスラム信仰共同体(ウンマ)が外部の勢力によって攻撃された時に、これ(ウンマ)を守るために、自衛するための戦争は肯定されている。つまり、すべての戦争ならびに戦争によって発生する人殺しの目的としては、信仰共同体を守ること以外には許されていないのである。そのひとつの戦術として「自爆攻撃」という手段が生じる。これを「殉教」と称する。PLOの主流派であるアル・アクサ(殉教教団)なども、こういう神学的な論拠から、若者に自爆テロを勧めるのである。したがって、イスラム共同体が被害者意識を持つかぎり、いくらアメリカやイスラエルが、「テロ封じ」という大義名分を立てても、自爆という殉教者をなくすことはできないのである。

  この自爆テロという手段は、冷戦体制の崩壊によって世界の各地で続発した、いわゆる宗教・民族紛争の中で、特にフセイン大統領率いるイラクと、アメリカを盟主とした多国籍軍の間で戦われた湾岸戦争にはじまり、スーダン、ソマリア、アフガンなど、いわば「アメリカとイスラム文明との間の戦い」という形で定着した感がある。過去10年間のアメリカの戦争において、アメリカ軍が意図したことは、できるだけアメリカの将兵が血を流さない戦争、すなわち、まるでテレビゲームの中の戦争シミュレーションのようなハイテク戦争を行うことであった。巡航ミサイルにしても、ステルス爆撃機にしても、このような戦争を意図して開発された兵器である。一方、アメリカがこのような自らの血を流さない戦争を進めれば進めるほど、実際に世界で起きてきたことは、いわば、イスラム教徒を中心とした、自らのいのちを的にした自爆攻撃だったのである。彼らは「イスラム共同体をアメリカという悪魔的異教徒の暴力から守る」という宗教的大義名分を、このアメリカの機械仕掛けの戦争において、共通して見出すことに成功したのである。

▼仏教における不殺生の意味

  一方、仏教が説く不殺生(戒)というのは、これまでに述べてきたようなモーゼ的な「殺すなかれ」とは、まったく別の考え方である。不殺生のことをヒンディ語で「アヒンサー」という。20世紀の偉大な世界的な精神指導者のマハトマ・ガンジーが、英国の植民地支配に対して、インドの独立運動を指導した際に、非暴力・非抵抗運動を行ったことは、あまりにも有名である。この非暴力というのが、いわゆる「アヒンサー」である。仏教(註:仏教とほぼ同時期に成立したジャイナ教においては、「アヒンサー」の考え方は、より厳密に戒律化している)における不殺生とは、単に、「(敵を)殺さない」といった意味だけではない。さらに一歩進んで、敵味方の区別なく、それどころか、人間と動物の区別すらつけずに、あらゆる生きとし生けるもの(一切衆生)を殺さないという意味であり、多くの菜食主義者たちの行動規範の元にもなっている。

  さらに、興味深いことに、この不殺生戒に関連して、「捨身飼虎」という考え方すらある。お釈迦様は、その前世において、谷底に落ちて餓えていた虎の親子を助けるために自ら進んで断崖から飛び降り、自らのいのちを糧として虎に与えて虎の親子のいのちを助けたという説話(教訓めいた寓話)がある。私がこの寓話を知ったのは、手塚治虫が釈迦の生涯について描いた長編作品『ブッダ』においてである。『ブッダ』の中で中心的に説かれた――あるいは、これは『火の鳥』においても共通して説かれていた――理念とは、大宇宙におけるあらゆるいのちの連続性であり、それ故、いのちといのちの間に――たとえそれが、人間のいのちと虫けらのいのちであったとしても――優劣の差はないという考え方である。漫画『ブッダ』においても、冒頭のシーンで、食べ物のない老人を助ける手段を持たない兎が、自ら焚き火の中に飛び込んで老人の糧となろうとした兎の話や、自ら進んで蛇に飲まれる少年タッタの話など、たびたびこのエピソードが登場している。

  その意味で、報復や護教(自らの信仰共同体を守る)のためとはいえ、「殺人」を容認しているアブラハムの宗教と、根本理念のまったく異なるインド的な不殺生(アヒンサー)の理念について、私は手塚漫画で学んだとも言える。その後、中学か高校時代の教科書に、法隆寺に納められている飛鳥時代の国宝である「玉虫厨子」の写真が載っていたが、この玉虫厨子に描かれている図柄が、まさに、断崖の上から身を投じて虎に自分の身を捧げる「捨身飼虎」のストーリーを描いたものなのである。なぜ、これを教えるときに、「この厨子は、瑠璃色に光るタマムシという甲虫の羽をたくさん集めて作られた飛鳥時代の最高の工芸品である」というような教え方しかしないのだろうか。多感な十代の子供に、玉虫厨子について、「捨身飼虎」のエピソードと共に教えたら、もっと「いのち」を大切にする気持ちの記憶が鮮明に残る教育になると思うのに…。

  預言者ムハンマドが、ヒジュラからメッカに生還したこと(聖遷)を記念して、イスラム教の紀元元年(いわゆる「ヒジュラ暦」)とされているが、このイスラム暦の元年は、西暦(当時はユリウス暦)では622年に当たり、わが国の歴史では推古天皇の30年、すなわち、聖徳太子が亡くなったその年にあたる。これも「ジハード」と「アヒンサー」の何かの因縁と言えるかもしれない。


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