「正義」という「不正義」 1998/8/21

レルネット主幹 三宅善信

今朝の「アメリカによるアフガニスタンおよびスーダンへの奇襲ミサイル攻撃」のニュースを視て驚いた。大義名分は、先々週、アフリカのケニアとタンザニアで同時におきたアメリカ大使館への爆弾テロに対する報復攻撃ということらしい。クリントン大統領の記者会見によると、「イスラム教原理主義グループのウサマ・ビン・ラディン(氏)が大使館爆破テロを行った確たる証拠を得た」上に、次のテロへの「差し迫った脅威に対抗するため、攻撃を命じた」とのことだ。以前から、国際政治におけるアメリカのやり方に疑問を持っていたので、この際に、この事件をテキストに問題点を指摘したい。

まず、一般の刑事事件と比べてこの問題を見てみると、アメリカ国内では、たとえ自動小銃乱射事件などで現行犯逮捕された被告でさえ、弁護士を付けて裁判で争う権利が認められている(かなり複雑な法手続きによって容疑者の人権が保護されている)のに、しかも有能な弁護士を雇うことができれば(「O.J.シンプソン事件」のように)、「無罪」を勝ち取ることも可能だ。検察側は相当の証拠を用意して陪審員を納得させなければならない。いわゆる「疑わしきは被告人の利益に」という原則があるからだ。たとえ、「事実」その人が殺人を犯したとしても、警察側の逮捕や尋問の手続きに瑕疵(かし)があると、「無罪」になることが多い。裁判所内での尋問はもちろんのこと、テレビや新聞でも、判決が出るまでは、容疑者・被告には必ず「Mr. あるいはMs.○○」と敬称をつけて呼ばれることになっているが、クリントン大統領は容疑者の名前をウサマ・ビン・ラディンと呼び捨てにしている。湾岸戦争の時も、ブッシュ大統領は、仮にも一国の国家元首であるサダム・フセイン大統領を「サダム」と呼び捨てにしていた。

なのに、今回のミサイル攻撃では、容疑者が外国人(イスラム教と)のテロリスト集団だという理由だけで、反論の機会(無実の証明)を与える裁判もなければ、死刑執行の予告もなしに、100発近いミサイルで敷地ごと彼らを抹殺した。裁判では、有罪にするための証拠の提出義務は検察側にある。証拠が不十分なら、たとえ「限りなく疑わし」くても「推定無罪」ということになるのだ。すなわち、(犯罪行為)→逮捕→権利の説明→裁判(検察側の証拠の開示と被告側の反論の機会)→有罪判決→刑の執行という一連のプロセスを踏襲することが、民主主義国家における刑法の大前提であるはずだ。

しかし、今回のアメリカのやり方は、テロ行為(大使館爆破)→刑の執行(報復ミサイル攻撃)と途中のプロセスが一切省略されている。その中には、判事・検事・弁護士の3役を一人(アメリカ政府)が独占的に行ったひとりよがりの茶番劇で、これじゃまるで『遠山の金さん』だ。北町奉行『遠山の金さん』が成り立つためには、金さんは完全無私な「神」のような人でないと冤罪の過ちを犯す可能性が高い。そのような過ちを避けるために、生み出された制度が、議会制民主主義であり、今日の刑事裁判制度(判事・検事・弁護士)ではなかったのか…。全体主義のナチや北朝鮮ではあるまいし、刑を執行して(「死人に口なし」の状態にして)から、有罪の立証を行うなんて許される行為ではない。

ここまで書くと、読者の中には「これは一般の刑事事件ではなく、国際的なテロもしくは、限定的・局地的な戦争だ」という意見の方もいるであろう。確かにその一面もある。だが、もしそうだとすると、「宣戦布告」もなしに、夜陰に紛れて巡航ミサイルで奇襲攻撃をしたということだから、アメリカに太平洋戦争開戦時の旧日本軍の「(宣戦布告の遅れた)真珠湾奇襲攻撃を卑怯だ」という権利はない。アメリカ側の主張に百歩譲って、今回のアフガニスタンの破壊した施設(アメリカはこの施設を「テロリスト大学」と呼んでいるそうだ)が、テロリストの拠点であったとしても、そこには、戦闘員だけでなく子供や食堂の「賄いのおばさん」もいたことだろう。これらの人々を「十把ひとからげ」にテロ支援組織として抹殺することが許されるのだろうか…(ちょうどウルトラマンが、何人かのバルタン星人の戦闘員と交戦したした後に20億3000万人のバルタン星人の乗る宇宙船を「侵略者」という理由だけで破壊したように)。

しかも、今回はアフガニスタンやスーダンという独立した主権国家の中に、国境侵犯して勝手にミサイルを打ち込んだのだ。ちょうど、夕御飯のおかずの魚を盗んだ野良猫が隣の家に逃げ込んだので、隣家の主人に断ることもなく、勝手に土足で隣家の居間まで乗り込んで、猫が隠れていた炬燵(こたつ)ごとぶっつぶしたようなものだ。国際法的にも許されるはずのない行為だ。その上、アラブ諸国が反発するのを恐れて、また、西欧同盟諸国(キリスト教国)を見方に引き入れるため、ムバラク・エジプト大統領や教皇ヨハネ・パウロ2世の暗殺を企てたのもこのイスラム原理主義のグループだと決めつけた。クリントン大統領はテレビ演説で「われわれの行動(攻撃)は、平和を愛する多くの信者を擁するイスラム教に対抗するものでない」と、イスラム世界の感情に配慮してみせた。

もちろん、アフガニスタンの隣国であるパキスタンに「おまえところが必死で開発した核兵器関連施設を破壊することなんか、その気になれば訳はないことだ」という脅しも、同時にしたようなものだ。今回の巡航ミサイル攻撃で一番ショックをうけたのは、件の原理主義テロリスト集団ではなく、案外パキスタン政府と全く「蚊帳の外」に置かれた「同盟国」の日本政府かもしれない。

何も、私はテロリストや(イスラム)原理主義者の味方をしているのではない。アメリカのダブル・スタンダードや自己中心主義を批判しているのである。国内で民主主義を説きながら国際的には弱小国からの批判を許さなかったり、アメリカン・スタンダード=グローバル・スタンダード(世界共通標準)だと思いこんでいたりすることがままあるということである。アセアン諸国への押しつけの民主主義であったり、日本の(商)習慣を閉鎖的だと決めつけたり、例をあげればきりがない。

なかでも、最も悪質なのは、自分たちの行為が「正義に基づいている」と錯覚しているだけでなく、他者に対してもそう主張している点である。今回のミサイル攻撃も「正義に基づいている」から実行できたのではなく、単に「軍事的に圧倒的に優位である」から実行できたに過ぎないのだ。もし、このテロリストの集団が、ロンドンやモスクワ市内にアジトを構えていたら、今回と同じようなミサイル攻撃を実施したであろうか? 答えは「ノー」に決まっている。にもかかわらず、今回のような事件が起こる度にアメリカは、「正義に基づいて懲らしめた」と言ってきた。この態度が、アラブ世界をはじめ全世界にある反米感情を形成してきたのだ。合衆国大統領は、このような事件・戦争を行った時は、正直に「俺たちは(正義があるからではなく)軍事力が優位であるからお前たちをやっつけたのだ。悔しかったら、お前たちも核兵器を開発しろ」と言うべきである。それなら、アラブ人も納得するし、私も納得する。

つまり、ものごとを一番ややこしくしているのは「正義」という言葉である。その言葉によって、アメリカ国民もイスラム原理主義グループも共に、「正義は我の側にあり」と信じ込んで、無茶な行為に走るのだ。「正義」が成り立つためには、その正義の前提となる「真理(あるべき姿)」があり、その真理を真理たらしているのは「唯一絶対なる神」である。という論理構造になっている。

ここで、私の立場をはっきりと言わしてもらおう。「唯一絶対的な神」なんて論理的にあり得ない。したがって、絶対的な真理もありえず、当然ながら、絶対的な正義もあり得ないことになる。絶対的な「神」を前提に置くから間違いが起こるのだ。この世のモノ(あの世も含めてもよい)はすべて、神仏といえども相対的なモノ(観念)なのである。これほど確かなモノはないと思われる物資(原子・電子など)やこの世界を構成する時間・空間といったものですら「相対的なものである」とアインシュタインも言っているではないか…。いわんや観念的存在である神仏をや…。

すべての国家や集団(宗教も含めて)や個人が、自らの相対性に気が付けば、正義や真理すら、それらはあくまで「相対的正義」であったり「相対的真理」に過ぎないのであるから、その「正義」によって他者(他国)を裁いたり、テロ行為を行ったりといった無茶はできなくなるであろう。仮に、他国を攻撃した時でも、単に「俺の方が軍事力が強いから攻撃した」としか、「隣国の資源が欲しかったから侵略した」としか主張しかできなくなるので、国内・国際世論に訴える自己の正当化ができなくなってしまうであろう。これこそ、つまらない軍事行動をなくする最も早い近道だ。

逆説的な言い方になるが、「正義」こそ最大の「不正義」なのである。この世から、「正義」をなくすることこそ最大の「正義」なのである。特に、ユダヤ・キリスト・イスラム教徒は、自らの「神」を「相対的絶対神」と言い改めるべきである。そうすれば、来るべき第3ミレニアム(千年紀)は、もっと住み良い世界になることであろう。


戻 る