イスラム教は寛容な宗教
    02年04月08日


レルネット主幹 三宅善信

▼複数の宗教が同居する教会 

  パレスチナにおけるイスラエル・シャロン政権とパレスチナ・アラファト政権との間の泥沼化した戦争が、現在世界の焦眉の的である。なぜ、彼らはそこまで徹底的に殺し合いができるのかということについての神学的な考察は、前回の作品『自爆テロの宗教的意義』で論じたので、今回は、歴史的な考察について述べてみたいと思う。そもそも、イスラム教やアラブ世界というものを考える時に、日本人や欧米人が持っている根本的な認識の間違いがある。それは、すなわち「イスラム教が非寛容的な宗教である」という前程である。このことは、とんでもない認識の間違いである。それから、「この地域の民族問題は、3000年来の懸案で、容易に解決できない」というのも、間違った見方である。世界中のほとんどに地域には、何千年も前から人間が住み、しかも、民族の興亡が繰り返されてきたのに、多くの場所では、それなりに平和裏に共存しているではないか? したがって、パレスチナの問題はまったく別の近・現代的な問題なのである。


イスラエル軍による攻撃で一部破損したベツレヘムの聖誕教会

  私はこれまで、1994年と99年の2回、当該地域を訪れたことがあるが、現地で目にした事実はそう(非寛容)ではなかった。94年には、イスラエル(テルアビブとエルサレム)および、West Bankと呼ばれるヨルダン川西岸地域――つまり、本来、パレスチナの領土である地域をイスラエルが不法に「占領」している地域のことであるが――を訪れ、また、99年には、ヨルダンの首都アンマンを訪れたことがある(この際、フセイン国王の跡を継いで国王に即位したばかりのアブドラ国王とも謁見した)。これらの地域で見聞きしたことは、事前の予想以上の宗教的寛容さであった。現在(4月8日)、イスラエル軍に包囲されている「キリスト生誕の地(註:もちろん、歴史的事実ではない後世の創作だが、主体的事実はいくらでも成り立つ)」に建てられたといわれている、ベツレヘムの聖誕教会(ミレニアムだった一昨年には、世界中から巡礼者が訪れた)や、また、エルサレムのかつてイエスが十字架にかけられた「ゴルゴダの丘」と言われた場所に建てられたとする聖墳墓教会を訪れた時には本当に驚いた。

  キリスト教徒にとっては何ものにも代え難い聖地(註:イエスが葬られたという石棺まで設えられている)であろうにもかかわらず、教会の中が同じキリスト教といっても、全く伝統的背景の異なるコプト教会(註:キリスト教会が成立した初期から、エジプトやエチオピア地方で盛んになった一派)、ローマカトリック教会のフランシスコ修道会、アルメニア正教会(東方正教会系の一派)等、いくつかの異なった教派によって分割して合同管理されているのである。日本でいえば、ひとつの寺院が、天台宗の大勧進であると同時に浄土宗の大本願である長野の善光寺のような感じである。そんなに広くない教会堂の中を歩いて行って、あるコーナーまで行くと、そこは既に別の教会が管理している区域である、というようになるのである。そして、その教会堂の門番をしている少年は、イスラム教徒のパレスチナ人であった。


ギリシャ正教のエルサレム総主教に招かれて

  こういった光景は、中東地域では広範囲に見られる。今回、世界的に去就が注目されているヤセル・アラファト議長は、毎年クリスマスには聖誕教会での(キリスト誕生を祝う)ミサに参列しているし、彼よりも30歳も若い美人妻はクリスチャンだ。あの、独裁者といわれるイラクのサダム・フセイン大統領の政権ですら、閣僚にはキリスト教徒(アジズ外相)も入っている。そもそも、中世において、北アフリカからインドに至るまで、世界を征服したイスラム帝国は、「世界中のすべての宗教は、唯一なる神アラー(al - Lah = the God)から出たもののひとつの派生形態である」と考えていたので、人民の義務である人頭税を払いさえすれば、現地人の宗教や伝統というものに対しては、非常に寛容であった。これは、近世に至るまで、小アジアから中東地域を支配したオスマン・トルコ帝国においても同様である。

▼非寛容を持ち込んだのはキリスト教

  この地域に最初に宗教上の非寛容さ(宗教戦争)を持ち込んだのは、むしろ中世において西欧のキリスト教徒が差し向けた十字軍であり、また、19世紀以後の近代において、欧米列強の植民地支配がもたらせた「分割統治のための宗教・民族分裂政策」以外の何ものでもない。この点が、日本人はいうまでもなく、多くの欧米人が勘違いしている「イスラム教は偏狭な宗教である」という見方である。偏狭なのは、むしろキリスト教のほうである。キリスト教徒の宗教的非寛容性についてはヘンリー8世やメアリー女王、エリザベス女王といった16〜7世紀における英国のカトリックVS英国国教会(聖公会)の抗争。そして、それに続く国民国家成立に伴うピューリタン革命等の、血で血を洗う宗教戦争。あるいは、フランスにおけるユグノー戦争やドイツにおける三十年戦争の歴史を見るまでもなく、宗教における非寛容性(による殺し合い)というのは、むしろ、キリスト教徒の十八番(おはこ)である。古代(ウマイヤ朝やアッバース朝等)から中世(ブワイフ朝やセルジューク朝等)、そして近世(オスマン朝やムガル朝等)に至るまで、イスラム諸帝国においては、彼らが支配した諸民族の宗教は、驚くほど尊重されていた。むしろ、イスラム教が偏狭な宗教の趣きを呈するようになったのは、近代の欧米列強による植民地支配に対抗する動きから出てきたイスラム教の改革運動においてである。

  その中でも顕著なものは、ヨーロッパ世界と直接国境を接しているイスラム帝国であったオスマン・トルコを弱体化させるために、今から約100年前、英国が、アラビア湾岸の一地方豪族の族長にすぎなかったサウド家を支援して、オスマン・トルコ帝国に対する地方からの独立運動を起こさせた(この話は、映画『アラビアのロレンス』になっているので、知っている人も多いであろう)。サウド家がアラブ人の民族主義(註:元々アラブから始まったイスラム帝国の中心は、中世にはイラン人、近世にはトルコ人へと移っていた)を支えるためのイデオロギーとして奉じたワッハビズム(原理主義の一種)ぐらいのものである。あるいは、欧米列強による植民地化が徹底的に完成し終えた第二次世界大戦後のイスラム社会において、彼らの伝統的な生活風俗や価値観を無視した形で、アメリカ流の資本主義、あるいは見る者によっては退廃的な物質至上主義に見えるアメリカ的生活パターンに反対する形で成立してきた回顧主義である。これらの代表的なものが、1970年代の終わり頃に急成長したイランにおけるシーア派のリバイバル(信仰復興)運動であるホメイニ革命等である。

  さらには、1991年の湾岸戦争の結果、イラクの領土的野心から、「聖地(メッカ)の守護者」であるサウジアラビアを軍事的に援護するという大義名分(註:もちろん、本当の理由は、石油資源の独占維持)のもとに、異教徒であるアメリカの軍隊を湾岸戦争終結後も聖地に常駐させたことに対する反発から生じた、タリバンなどのイスラム原理主義運動である。したがって、イスラム世界における偏狭な原理主義的思想の多くは、むしろ、西洋のキリスト教文明や資本主義、あるいは、アメリカの軍事的支配等に対する対抗意識として、イスラム側から湧き出てきたものである。ところが、それらの思想は、今では、いわば単にキリスト教や便利は物質主義的生活態度を否定するだけでなく、より普遍的な価値があると思われる民主主義や市場経済、あるいは信教の自由や男女平等といったような、(個々人の主体的選択である)宗教に関係のない普遍的な価値まで否定しようする、いわば「暴力的イスラム原理主義」という形になって表われてきたのである。しかし、このような例は、千数百年に及ぶイスラム教の歴史から言うと、むしろ例外的なものと言ってもよい。


▼聖地の宗教指導者と語り合ってみて

  1994年2月に、当時世界宗教者平和会議(WCRP)委員長であった亡祖父故三宅歳雄の伴をして聖地エルサレムとパレスチナ各地を訪れた時の体験を述べると、今日(4月8日)現在「パレスチナ人テロリストが逃げ込んだ」と言って、イスラエル軍が回りを包囲しているベツレヘムの聖誕教会や、聖地エルサレムにある聖墳墓教会を訪れた時、それらの宗教施設を管理していたコプト教会、フランシスコ修道会、アルメニア正教会、あるいはわれわれを案内してくれたユダヤ教のラビ、また、パレスチナ人であるイスラム教徒たちも、なんら分け隔てなく、揃って祖父を歓迎してくれた光景を忘れることができない。


聖墳墓教会を管理する4つの宗教の代表から歓迎される三宅歳雄師

  また、エルサレムにおいて、われわれは、このキリスト教に由来する聖跡だけでなく、イスラム教徒側からは預言者ムハンマド(マホメット)の魂が昇天した場所と信じられる――同時にこの場所は、数千年前に彼らの共通の先祖であるアブラハムが息子イサクを犠牲に献じたモソヤ山の場所と伝えられ、2500年前のソロモン王の第1神殿、2000年前のヘロデ大王の神殿が建てられた場所であるが故に、ユダヤ教徒にとっても最高の聖地――の跡地に建てられた金色の天井の美しい「岩のドーム」を訪れた時も、当地のイスラム教の最高指導者(グランド・ムフティー)が歓迎してくれた。また、その岩のドームが建っている神殿の丘(註:「神殿の丘」というのは、ユダヤ教側の呼び名で、イスラム教徒は、ここを「ハラム・アッシャリーフ」と呼ぶ)の土台を構成する西側の壁(古代のユダヤ教神殿の遺跡の一部。「嘆きの壁」と呼ばれている)において、黒づくめの伝統的な服装で敬謙な祈りを行うユダヤ教徒たちに混じって、明らかに異教徒であるわれわれが祈りを行った時も、誰も咎めるものはいなかったどころか、「わざわざ日本から来てくれた」ということで、この「嘆きの壁」を管理しているチーフ・ラビ(ユダヤ教の最高指導者)がわれわれを招き入れてくれ、当地の歴史について詳しく話してくれた。


嘆きの壁のチーフ・ラビと意見の交換をする私

  その時、「嘆きの壁」のチーフ・ラビから興味深い話を聞いた。ラビはわれわれにこう言った。(旧約聖書に伝わる)イスラエルの「失われた12部族(アブラハムの子孫)は、その後の地の表にバラバラになってしまったが、その後エジプトでファラオの奴隷状態になっていたイスラエル人が、預言者モーゼに導かれてシナイ半島にある「約束の地」カナン(現在のパレスチナ地域)へ導き出された(註:旧約聖書の『出エジプト記』の話)。この人々がいわゆるユダヤ人である。ただし、あと11のユダヤ人と兄弟であった部族の行方が判らないことになっているが、「嘆きの壁」のラビによると、これらのうち「南のほうに行った人々がインド人になり、東のほうに行った人々が日本人になった」と、大まじめに言うのである。ラビに理由を尋ねると、「インド人も日本人も、ユダヤ人同様、数字の計算に極めて明るいからだ」というのである。もちろん、ラビの説明になんら人類学的・歴史的根拠はない。しかし、ユダヤ教の最も中心的な聖地を管理している身なりから見てもゴリゴリの保守主義者に見えるラビをして、われわれに対してこのような話ができることが、彼らがわれわれが思っている以上に寛容性を持っている証拠であろう(註:モルモン教の教祖ジョゼフ・スミスは、アメリカ東部で森に迷い込んだ時に、古代に失われたイスラエルのある部族が、コロンブスよりも遥か以前に密かにアメリカに渡っていて、彼らが遺した黄金の板に記された十戒を発見して、これを聖典にしたことになっている。驚きだ)。

▼諸文化の権利という考え方

  また、1999年に世界宗教者平和会議の第7回世界大会が、ヨルダンのアンマンで開催された時に、私はイスラム世界の最高権威といわれるエジプト・カイロのアズハル大学のムハマド・タンタウィ総長の講演も、また、イギリス国教会の最高指導者であるジョージ・ケアリー・カンタベリー大主教の講演も間近に聞く機会があった。また、同じ会議で90年代のキリスト教世界のオピニオンリーダーのひとりであったドイツの神学者ハンス・キュングが提唱した「Global Ethics(地球倫理)」の概念について、キュング教授が講演した際、参加者の中からある身なりのいい男性が手を挙げてキュング教授の講義内容に対して意見を述べた。キュング教授の講義は、その題からも判るように、グローバル化した現代世界において、地球的な視野からどのような応答責任を現代人は負わなければならないのかという極めて社会倫理的な話であり、現代人にとってたいへん有効なひとつの考え方を示していると思われる講演であったのであるが、その講演を聞き終えて、すぐさま、それに対する疑問を呈したのは、あろうことか、前国王の弟君として30年以上もの長きにわたって摂政を務めた現国王の叔父君にあたるハッサン殿下その人であった。殿下は、キュング教授の講演を聞き終えるや、「教授は地球倫理ということを強調されるが、いったい、"Rights of Cultures(諸文化の権利)"の可能性についてはどのようにお考えですか?」と尋ねたのである。私は目が覚める思いがした。

  一方で、地球的視野からものごとを見なければ、現代人の生活は成り立たないが、同時に、世界の各地に存在する伝統文化・言語・宗教といった――いわば生物の種がそれぞれ持つ個有の遺伝子のようなものにも匹敵する――概念に対して、いかなる配慮をしているのか、ということを抜きにグローバル化の問題を論じても、それは表面的な議論にしかならないであろうという意見である。それをアラブ世界最長の千年以上の伝統を誇るヨルダン・ハシミテ王家の王族が、世界の諸宗教指導者の前で、自ら挙手して問題提起をしたのである。イスラム教の持つ、奥深さというものをまざまざとその時に感じた次第である。

  ジョージ・ブッシュ大統領をはじめ、アメリカのメディアあるいは一般国民は、これらのことに(諸文化の権利)ついて、どのように考えるのであろうか。ただ単に、欧米の資本主義やグローバリズムに対抗する形で出てきたイスラム原理主義だけをもってイスラム教を代表する考え方のように誤解し、本来イスラム教が持っている豊かな世界観について、知らなかったでは済まされないと思うのは、私だけではあるまい。


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