白装束集団にみる誰も語らない日本
 
 03年05月05日


レルネット主幹 三宅善信

▼カルトを生み出す元凶は放送文化にある? 

 昨日、『SARS問題にみる誰も語らない中国』という作品を上梓し、その中で、中国に対する日本のマスコミの腫れ物にでも触るような遠慮の問題と、日中間の排泄行為に関する「浄・不浄」感覚の違いについて、「SARS問題」を題材に取り上げて考察したが、実は、わが国においても、「浄・不浄」の問題について、日本人の行動様式があまりにも典型的に見てとれる出来事が、ここ1週間ほどの間、社会を騒がせているので、今回はそれを取り上げてみたい。いわゆる「白装束の集団」についての一連の騒動についてである。

 私はそもそも、こういった奇怪な事件を生み出す背景にある新々宗教(カルト)は、ほとんど全部、インチキ(註:当事者が自覚している嘘)もしくは、勘違い(註:当事者が自覚していない嘘)であると思っている。しかも、こういった「事件」が次ぎから次ぎへと発生する原因を作っている占い(占星術、血液型、手相、八卦、カード等)や気功術、霊視、健康食品などに関する言説はすべてインチキだと思っている。というよりも、そのようなことを真に受けて人前で話題にする連中は、単なる馬鹿だと思って、相手にしないことにしている。さらに、一部の個人の所業なら影響も少ないが、このような有害な情報を公共の電波を使ってタレ流すことについては、既刻、法律で禁止すべきであるとすら思っている。

 しかし、相も変らず、そのようなインチキ宗教に騙される人が後を絶たないので、本「主幹の主観」コーナーにおいても、たとえば「法の華三法行」の場合をケーススタディに採り上げて、2000年5月に上梓した『宗教と詐欺の境界線』(をはじめ、ことある毎に、これらの問題点を提示してきたので、よもやレルネットの読者の方で、インチキ宗教に引っかかる人はいないと思われるが、もし、まだその作品をお読みでない方は、先にそちらのほうからご一読いただきたい。

▼カルトを喰いものにするTV局

 今回の「白装束の集団」についての一連の騒動は、オウム真理教事件以来(註:さらに言えば、一部の芸能人も巻き込んだ「統一教会問題」の時以来、テレビのテーマに付け加えられた「カルト集団」という)民放ワードショーにとって、なくてはならない番組制作上の格好のネタのひとつになった(註:つまり、奇妙な行動をするカルト集団は、「反社会的集団」という烙印の下に、ほとんど彼らのプライバシーや人権を尊重しなくとも済む対象として「覗き趣味」の視聴者の欲求を満たすことによって「数字(視聴率)が稼げる」ということが判明しているので、ちょっとでも、カルトらしき集団が見つかると、大挙してレポーターたちが「現場」へ駆けつけて、当事者たちを「抜き差しならない状態」に追い込んで、かえって騒動を大きくしている。今回の「白装束の集団」による車列も、半分以上はこれを取材する放送局の車輌であり、交通渋滞等を起して一般通行車輌に迷惑をかけたのは、むしろ取材陣である)。このような民放ワードショーの制作サイドのニーズにぴったりと合った「パナウエーブ(PW)研究所」の連中の奇怪な服装と行動が、格好の材料(註:センセーショナルな表現を多用する民放各社は彼らのことを「白装束の集団」と名付けて、何かい未ありげに呼んだのに対して、公正・中立を旨とするNHKは、番組内では「白い服の集団」と呼んでいる。白装束の意味については後ほど述べる)を提供することになった。

 その上、オウム事件以来、テレビですっかり有名になった「宗教評論家」と賞する面々、あるいは、宗教団体に関する金銭的トラブルを「霊感商法」と名付けて「消費者保護」の名の下に、宗教団体をしたり顔で断罪しながらも、宗教の本質については大した認識もない一部の弁護士たちが、イラク戦争ですっかり軍事評論家たちに奪われていたテレビの画面に、またぞろ復活してきた。通常、全国ネットのワイドショーにゲストコメンテイターとして1回出演(拘束時間は約2時間)すれば、ギャラが10万円(税別)ほど入るので、もし1週間(月〜金)にわたって「帯」で出演すれば50万、その上、朝と午後のワイドショーの連荘(れんちゃん)もしくは、複数の局を渡り歩けば、週に100万円からの臨時収入になる(註:それ以外にも、ちょっとテレビで顔が売れると、その後の出版や講演等のオファーがたくさん入るので、出演者もメリットが大きい。その極端な例がTVタレントから国会議員に当選するケース)。もし、ひと月間このカルト集団の話題が続いてくれれば、数百万円の収入(註:芸能人にように、どこかのプロダクションに所属して、年間契約で番組に「レギュラー」出演するようになると、ギャラはさらに跳ね上がり、3,000〜5,000万円になる)になって、それだけで一年間暮。らしていけるというものだ(註:オウム事件の際に、最初の頃は自前の衣装で、いつも「着たきり雀」であった宗教評論家・ジャーナリストなる皆さんは、3カ月後には、すっかりブランドもので身を固め、それぞれスタイリストも付いて芸能人のようになっていた)

▼「有害集団は電磁波で封じ込めよ!」なんちゃって……

 前置きが長くなったので、そろそろ本題に話を進めることにする。高尚な例え方をすれば、徹底的な不殺生主義を説くジャイナ教徒(註:釈迦と同時代の人にマハービーラが起した宗教。仏教と共通した教えも多いが、その最大の特徴は、極端な「不殺生戒」である。蟻を踏み殺してしまわないように細心の注意を払って歩き、また、誤って蚊や蝿等を吸い込んでしまわないように、日頃からマスクをして白装束で身を固めている)のような格好をした今回の「白装束の集団」自身の論理も、また、これに対処する社会(公権力やマスコミ)の過剰な反応も、いずれも極めて日本的で興味深い。

 いつも言うように、たとえ、それが宗教集団であろうが、単なる暴走族であろうが、反社会的な違法行為をしている場合には、既存の法律(今のケースならば道路交通法等)で検挙すればいいと私は思っている。誰が見ても、車のフロントガラスにあんなたくさんのステッカーを貼れば、「前方がよく見えなくて(周りの人や車に対して)危険である」という意味でも、道路交通法違反であることは明白だし、ガードレールや交通標式等に勝手に白い布なんぞを巻いたり、公道の一部を慢幕で囲い込んだりするのも刑法第124条の往来妨害罪である。ただ、それだけの話である。それ以上でも、それ以下でもない。あるいは、もしその場所が国立公園や国定公園等の地域であれば、景観保護条例等があるであろうから、その違反容疑でも取り締まることができる。しかし、そのどれも、たいして有害(回復不可能なくらいの現状変更を加えていない)は、与えていないので、これをいちいち立件するのも手間だし、また、たとえ起訴したとしても公判維持が難しいであろうから、所詮は「言うことを聞かないと逮捕するぞ!」と言って、指導するくらいのものである。ただし、数年前から各地で起きている高圧送電線の鉄塔や電波塔等への破壊工作(といっても、せいぜいは留め金のボルト・ナットを抜く程度の一見イタズラに見える事件であるが)については、この団体との関連を調べてみる必要はあろう。なぜなら、送電線から電磁場が放出されるのは、それが人体に影響があるかないかは別として事実であるから、彼らの教条からして「攻撃対象」となってもおかしくないからである。

 もし、集団(といっても、「教祖」である千乃裕子氏の被害妄想であろう)の主張するように、共産ゲリラの発射する「スカラー波」なる人体にとって有害な電磁波が存在し、集団が、何らかの方法でそれを検知しながら、そこを避けて通行しているのであれば、取り締まり当局側からも積極的に有害な電磁波を彼らに向けて発射して、彼らをどんどん追い詰めて、誰も来ない山奥に封じ込めて、彼らの周りを電磁波で「結界(けっかい=囲って)」してしまえばいいだけである。そうすれば、彼らはそこから一歩も出ることができずに自滅するだけである(註:都合のよいことに、この国の刑法では、呪詛などの「科学的に因果関係を立証することのできない方法」で相手を呪い殺しても、「殺人罪には問われない」ことになっているので、スカラー波なる科学的には立証されていない電磁波で、彼らの健康に致命的な打撃を与えたとしても、誰も罪には問われない)。また、もし、彼らが電磁波による「結界」を破って平気で外へ出て来たら、その瞬間に、彼らが主張している有害電磁波説そのものが嘘であったということを彼ら自身が認めることになるから、極めて分りやすい。最も効率のよいカルト対策は、その集団を徹底的に無視して自滅させるのが一番である。そもそも、極端な潔癖主義者の棲める世界はこの世には存在しないのである。まさに、「♪早く来い来い。二ビル星♪」の心境である。

▼日本人の価値判断の基準は「浄・不浄」

 興味深いことに、これまでにパナウェーブ研究所の一向が乗る「白い車列」が迷走した地域では、それぞれの自治体の首長あるいは地元住民の代表と称する者が、まるでおらが村に入ってきた疫病神(SARSウイルス扱い)のような「白装束の集団」の車列のところに行き、「何月何日何時までに、この村から立ち去るように!」というふうな要望書(註:もちろん、なんの法的根拠もないどころか、「居住・移動の自由」を保障している憲法に違反している)を一方的に通告しているが、そこには相方の間になんらの対話も成立せずに、根本的な問題の解決にはまったくお構いなしで、ともかく、「今すぐに、自分たちの見える範囲内からどこか他所へ立ち去ってくれさえすればそれで良い」という意識しかないのである。しかし、空を飛んでどこか違う国へ行けるわけでもあるまいし(註:もし彼らが自由に空を飛んで行けるのなら、「危険な電磁波を出す」という尖った木の枝もなく、しかも氷雪で一年中周りが真白な北極にでも行けば、彼らにとっても極楽であろう。きっと、彼らが大事に想っているタマちゃんの仲間も大勢いるであろう)、奇妙な格好をした「怪しげな連中」があのように徒党を組んで流浪する以上、この国の人々の感性では、日本国中どこへ行っても、産業廃棄物と同様、迷惑な粗大ゴミ以外の何物でもない。

 同様のことは、オウム真理教事件の後にも起きた。首魁の麻原彰晃被告をはじめとする教団幹部がことごとく逮捕され、散り散りになったオウム真理教の「残党(ほとんどは平信徒)たち」は、日本国中どこへ行っても、その地の住民からバイ菌か何かのように不浄な存在として追い出され、あまつさえ、地元行政機関による住民登録(転入)手続の拒否や子供たちの就学の機会さえ奪われる(註:もちろん、このような措置は憲法違反であることはいうまでもない)ということが生じたのである。ともかく、日本人の価値判断の基準は「善・悪」よりも「浄・不浄」にあることは間違いない(註:案外、日本人のこの潔癖性向が、日本におけるSARSの流行予防に繋がっているんじゃないかとさえ思う)。「浄・不浄」論の詳しい分析については、2000年1月に上梓した『速佐須良比賣(はやさすらひめ)のお仕事』で詳しく論じているので、まだ、お読みでない方はこの際、是非ご一読いただきたい(註:中世以後の「浄土」信仰の興隆も、案外、同じ根から来ているかも知れない。天下人となった徳川家康の政治スローガンが「厭離穢土(おんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)」であったことも偶然ではない) 。


▼ 「白装束」が意味する世界

 同作品においては、古来より連綿と続く日本人の「罪・穢と祓い」の意識について、10世紀の初めに制度化(註:『養老律令』の細則として定められている『延喜式』に収録されている)され、千年以上の時を経た21世紀の現在においても全国の神社や神道系新々宗教で盛んに行なわれている『大祓』(註:6月末と12月末に行なわれる災厄除けの神事)の際に唱えられ『中臣大祓』という資料を元に考察した。そこでは、日本人が生理的に忌み嫌う凶々しい不浄なもの(註:近親相姦や獣姦まで具体的に記されている)について、日本人は、なぜそのような社会的に不浄な現象が発生したのか? ということを根本的に問う(註:科学的検証のこと)たり、あるいは、そういう事態を発生させないようにと努力する(註:社会的制度化や救済のこと)のではなく、あたかも地震や台風のように、発生してしまったことはしょうがないこととして、とにかく自分の目の前からそれらをなくしてしまう。もしくは、検出できない(気にならない)くらいの濃度にまで薄めてしまったら、それで、その凶々しい現象そのものは「存在しなくなったのと同じである」というふうに意識しているという構造(註:大東亜戦争の責任の問題から、かつての公害事件の処理方法、不良債権を大量に抱えた銀行が経営責任を取ろうとしないことまで、日本人はすべからく、凶々しいことは、みんな「時流」のせいにして誰も責任をとろうとしないという構造)について、そのような機能を専門的に持ち合わせている瀬織津比賣(せおりつひめ)、速開都比賣(はやあきつひめ)、氣吹戸主(いぶきどぬし)速佐須良比賣(はやさすらひめ)の四柱の神々を取り上げて分析した。今回の「白装束の集団」に対するマスコミや「現地」住民の反応を見ていると、日本人の「浄・不浄」意識については、千年前(註:実はもっと以前からもそうである)からその構造は一向に変っておらず、これらの精神構造を分析し、これをもって問題点を明快にしていくことが、これからの日本社会の抱えるもろもろの問題を解決していく上でも、ますます重要な課題であると確信させられた。

 最後に、今回、「千乃正法」なる団体の「教祖」である千乃裕子氏に率いられたパナウェーブ研究所の異形の集団が話題になるまでは、この国において「白装束」といえば、神社の神職の衣装(浄衣)や婚礼時の花嫁の衣装(白無垢)や出産時の産着(うぶぎ)のように、まさに清浄で無垢なものをイメージさせる衣装であった。しかし、同時に、その一方で、「死」を直載的に想起させる衣装でもあった。武士が切腹をする際には、必ず「白装束」を身に着けるものと決まっていた。その白装束は自らの潔白を示し(註:「赤い血」は、自らの清き明き真心を示し)た。現代でも、人が亡くなったら、納棺するときには死者に「白装束」を着けさせることが一般的である。また、四国八十八ヶ所霊場を巡礼するお遍路さんや、大峯山・出羽山・彦山等の修験道の山伏たちも、みな「白装束」である。これらの「白装束」が意味するものは、もちろん「いつ野垂れ死んでも構わない」という自らの決意表明であることは、言うまでもない。

 つまり、日本において「白装束」というものが意味する世界は、たとえ、それが「浄・不浄」のいずれに関わる場合であるとしても、その意味するところは、われわれが日常生活(註:一般的な社会規範に従って生活すること)を営んでいるこの世と、「神仏の世界」あるいは「死後(生前)の世界」といったあの世の境界領域を通過する際に、われわれが積極的に身につけなければならない衣装なのである。能の面(おもて)と同じく、人はそれを身に着けた瞬間から、ペルソナ(人格)が替わってしまうのである。こういった文化的背景を持つ日本で、「白装束」の一向が意味するものは、浄か不浄か、生か死か、といった観点からさらに探究していみる必要があると思う。


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