宗教と詐欺の境界線
       00年 05月09日
 
レルネット主幹 三宅善信
           

「詐欺」と「事実誤認」の混同

今朝、宗教法人「法の華三法行」の実質的オーナー福永法源前代表が「詐欺」の容疑で警視庁に逮捕された。この知らせは、正規のニュースおよびワイドショーの両方で、大いに採り上げられた。福永容疑者が連行される様子や、「信者」たちから800億円も「騙し取った(成果によって建てられた)」とされる豪華な教団施設の映像が、たびたびTV画面に紹介された。もちろん、個別の刑事事件の「事実」認定については、当局(警察・検察・裁判所)の専権事項であるから、一民間人に過ぎない私が「成否」を言うべくもないが、民主主義国家における公権力の執行手続きおよびマスコミの報道姿勢の問題点に関しては、声を大にして問題提起をすべきだと思う。

 最初に断っておくが(レルネットの愛読者なら、私の見解の方向はある程度予測されていると思うけれど)、たとえ私が、今回の「事件」に対する当局やマスコミの姿勢に対して否定的な結論を出したとしても、そのことで、私が法の華三法行ならびに福永法源氏を評価していると思わないで欲しい。ハッキリ言って、私は同教団をインチキ臭い宗教集団だと思っている。しかし、何度も言うように、だからといって、そのこと(「法の華」がインチキ宗教であるということ)と、当局やマスコミが彼らのことをどう断罪してもよいということは同じでないことは言うまでもない。以下、思い当たる問題点を列挙してゆくので、関係各位(当局ならにび報道関係者)はしっかりと勉強して欲しいものだ。

 まず、今朝のNHKニュースで「宗教法人法の華三法行の福永法源前代表が、足の裏診断などによる根拠のない嘘を言って信者等を騙した容疑で逮捕されました」とアナウンサーが原稿を読んだ。私は一瞬、この耳を疑った。この日の午前中のNHKのニュースでも、民法のワイドショーでも、「(医学的)根拠のない嘘を言って」という表現がしばしば用いられた。しかし、「嘘をつく」こと自体が犯罪に問われるのなら、世の中の人はすべて罪人になってしまう。ここでは、「嘘(詐欺)」と「事実誤認」とが、しばしば混同されている。

 ある表現が、意図的な嘘(詐欺)であるか単なる事実の誤認であるかの分岐点は、その事象が「事実に即していたかどうか」が問題なのではなく、その言葉を発した人が、その時その事象を「事実である」と信じていなかった(自分が信じていないことを他人に言った)か、信じていたか、にある。ここが肝心であるにもかかわらず、何千万人という視聴者の事実認定(価値判断)に大きな影響を与えるメディアがこのようないい加減な表現を使っているのなら、それこそ巨大な詐欺行為だといえる。


▼医学的診断と宗教的診断の違い

 「法の華」幹部らの逮捕を受けて行われた警視庁の松田洋生活経済課長による記者会見でも、詐欺容疑の中核となった福永容疑者の足裏診断については、「足裏で病気が分かることは医学的にあり得ない」と断定し、<天声>についても、「天声の内容が事案に応じて変わるなど、矛盾が多い」と明確に否定していたが、ここにも重大な誤解(警視庁の理解力不足あるいは意図的なすり替え)を見て取れる。宗教における「お告げ」というものは、はじめから、それが「医学的整合性があるかどうか」なんぞは、問題にしていないはずである。宗教の説く「診断(運命鑑定等)」が、医学的でなければならない(=近代医学の成果と整合していなければならない)のであれば、例えば、「お婆ちゃんの原宿」こと、巣鴨の「とげ抜き地蔵」あたりで、線香の煙を頭に扇ぎかけて「ボケ封じ」に効くなどと言っている人々は皆、詐欺になってしまう。医学的(客観的)整合性と宗教的(主体的)整合性は、はじめから別の次元の問題である。

 ある人が、将来、癌に罹るかどうかなんぞは、ヒトゲノムの遺伝子構造が (単なるDNAの塩基配列だけでなく、その意味するところも含めて) 全て完璧に解読されでもしない限り、医者といえども判らないのが「事実」である。したがって、「このままではあなたは将来、癌になる」と言ったとしても、そのことが正であるか偽であるかは、「判らない」というのが科学的合理的な答えである。仮に、インチキ宗教家が「あなたは将来、癌になる」と当てずっぽうで言ったとしても、統計学的には、日本人の3人に1人は癌で死んでいるのだから、当たらずとも遠からずである。野球だって3割打てば一流打者だ。

 ところが、宗教家が「あなたは癌になる」と言うと、詐欺師呼ばわれするにもかかわらず、医者が「あなたは癌です」と言い切りながら、癌でなかった(発病しなかった)場合は、単なる「誤診」で許される。なんという不公平であろうか? 譬えて言えば、柔道家と力士が(相撲のルールで)、相撲を取りながら、柔道家は不本意ながら相撲のルールで負かされたのに批判され、力士の側は、得意な相撲のルールで負けても批判されないようなものである。10年程前、私の父は、とある大学病院で「肺癌である」と診断され、手術する寸前までいったのに、内視鏡を使って摘出した最後の組織検査の結果、不思議や「癌は消えました」と言われて、無罪放免(無事退院)になった。これなぞ、最初(から最後の一回前まで)の検査が「誤診」だったのか、あるいは、家族の「回復平癒の祈り」が神に通じたのか…。

 逆に、4年前に54歳で亡くなった妻の母は、京都のとある公立病院に入院していたにもかかわらず、癌で死去するわずか10日前まで、主治医は彼女が癌であることにすら気が付かなかったそうだ。脳卒中や心不全でポックリ逝ったのならいざ知らず、癌で全身的に衰弱し、10 日後には亡くなろうかという人など、医学は全くの素人である私が観ても「お迎えが近いな」と判りそうなものである。このケースなんか完全に誤診である。しかし、この医者には何のお咎めもない。この国では、それほど、医者に有利なようにルールが出来ているのである。

▼ルールの異なるゲーム

 医療の中にも、段階的「身分」があって、一番上(ルール策定者)が近代西洋医学、その次が東洋医学(漢方や鍼灸等)、三番目が民間療法(アガリクス茸や気功術等の各種健康法)、最後が宗教家による祈祷やお祓い等の「疑似医療行為」である。それぞれに、同じように「治療」行為の対価を受け取っても、一番上は公営の健康保健による保健報酬まで受けながら当然の報酬とされ、一番下は「霊感商法」などと言われてしまう。これではまるで、封建時代の士農工商なみの身分差別である。そう言えば、信者という字を合体させると「儲ける」という字になるくらい、この国では、漢字まで宗教家を胡散臭いものだと決めつけている。しかし、治癒を依頼した人にとっては、どんな最新の医療行為を受けたかよりも、要は「病気が治ったか、治らなかったか」が究極的な関心事なのである。

 このように書くと、私が医者(近代西洋医学)を信じてないように思われる向きもあるかもしれないが、事実は、全くその逆である。私は十分すぎるくらい科学的合理的思考の持ち主であると自負している。関西医学界の大物に医療コーディネーターをお願いしているせいか、もし、家族の誰かが入院でもすれば、毎週のように大学病院の主治医チームがたっぷり時間をかけてレク(インフォームドコンセント)してくださるし、いつもお世話になっている近所のホームドクターは、診察時間外での急病も想定して、ご自宅と携帯の電話番号まで教えてくださっている。医者との関係は良好だし、薬も日常的に飲んでいる。

 しかし、その一方で、近代西洋医学がカバーできる範囲と、宗教がカバーしている範囲の明確な線引きも、ハッキリと意識している。それぞれの分野における行為が、他の分野における基準によって評価(処断)されるべきではないことは言うまでもない。それは、ボールを前方に投げてもいいアメリカンフットボールと、後方にしかパスできないラグビーフットボールを混同しているようなものである。

 したがって、残念ながら、「足裏診断」に医学的合理性があるかないかについては、これを医学的問題として問うこと自体が科学的に非合理的な行為なのである。もし、私の説を得心できない人がいるのなら、成田山で交通安全のご祈祷を受けた何百万台もの自動車と、交通安全のご祈祷など全く受けていない何百万台もの自動車の中から、不特定多数のサンプルを一万台づつ抽出して、事故発生率の統計を取ってみるがいい。どちらのケースもほんとんど変わりないはずである。だからといって、「成田山の交通安全のご祈祷がインチキだ(効果がない)」などとは当局やメディアは言わないであろう。損害保険会社は統計学的データに基づき、宗教団体は教義や慣習に基づいて結果を誘因しているのである。あくまでもルールの異なる別のゲームなのである。

▼人のこころは変わるもの

 また、「元信者(元幹部)」たちからの意見聴取だけを採り上げて、TVで流すのも不公平だ。離婚した夫婦と同じで、たとえ自分に非があっても、相手側に非があったかのように吹聴するのは目に見えている。高額な品を買わされた(いわゆる「霊感商法」)人が返還請求の裁判を起こすのも見苦しい。刃物でも突きつけられて無理やり買わされたのなら違法行為だが、少なくとも、購入(セミナーを受講)させられた人の多くは、その瞬間は「最高だ」と思って購入したのであろう。それを、後から「気が変わったから返せ」などというのは虫が良すぎる。今年の「サラリーマン川柳大賞」の句に「プロポーズ あの日に戻って 断りたい」という句があったっけ。これと同じだ。

 皆さんも、ワードローブや箪笥(たんす)の中に、過去3年間1度も袖を通していない服の1着や2着はあるだろう。私も買ってから1度も人前でしたことのないネクタイなど何本もある。売場の店員さん(特に、若い女性)に「お客様これ大変お似合いですよ。これぐらいの柄のほうが若々しいですよ」などと煽てられてつい買ってしまう。家に帰ってから、家内に(店員も「大変似合っている」と言ってくれたと言って)見せると、「バカじゃない。こんな派手なネクタイ買って…。もうちょっと年齢を弁(わきま)えたらどう…」などと言われてしまう。「だって、店員の子が『大変似合っている』って言ってくれたよ」と反論すると、「それは売らんかなのための方便に決まってるでしょ。あとで、店員同士で『単純な客』って笑ってるよ」などと貶(けな)されて、その時(売場の鏡の前)では、「なかなか似合っている」と思っていた気持ちもすっかり冷めてしまい、そのまま「箪笥の肥やし」になってしまっている。

 しかし、売場にいた私も、自宅にいる私も同じ私である。人の気持ちなどは、コロコロと変わるものである(それ故「こころ」という)から、「<天声>の内容が事案に応じて変わるなど、矛盾が多い」ことは、少しもおかしくない。「天声」はすなわち「人語」なのだから…。ここにも重大な誤解(警視庁の理解力不足あるいは意図的なすり替え)を見て取れる。

▼仏教もキリスト教もイスラム教も皆インチキか?

 さらに、メディアは、宗教法人「法の華三法行」の教典である「『天声聖書』は、教祖福永法源によってではなく、ゴーストライターによって書かれた」とも批判しているが、この連中は世界史の常識を知らないらいしい。大乗仏教の経典は皆、お釈迦様が入滅してから数百年後に「創られた」ものであるのに、『仏説○○経』と書いてあるものもある。『新約聖書』だって、イエス・キリストが殺されてから、数十年後に、弟子(といっても、生前のイエスに一度も出会ったことのない)のパウロや、マタイ、ヨハネ等の「福音書記者」たちによって「創られた」ものである。『コーラン』だって、マホメットの直筆ではない。宗教の「聖典」に対する解釈がメディアの連中の論理のとおりだとすると、仏教も、キリスト教も、イスラム教も、すべてインチキ宗教ということになってしまう。

 あるいは「犯罪者」の咎で、時のお上(政権)から(容疑者として)逮捕されたから、オウム真理教(アレフに改称)の麻原教祖も、ライフスペースの高橋グルも、また、「法の華」の福永前代表も「インチキ宗教家だ」と決めつけるのも間違って(宗教というものに対する認識を欠いて)いる。「犯罪者」のレッテルを貼られたのなら、イエスは十字架で処刑されたし、法然・親鸞・日蓮たち鎌倉新仏教の宗祖たちも皆、(世を騒がす犯罪者として)捕らえられたり、島流しにされたりした。明治になってからでも、天理教の教祖中山みきも何度も留置場に入れられた。彼()らは皆、犯罪者だったのか? とんでもない。皆、人類史上に誇れる立派な教祖たちだったではないか! 国家権力の側が間違えることだって、しばしば起こるのだ。

 それでは、「三宅主幹はインチキ宗教や霊感商法をすべて見逃せというのか?」と思っておられる向きの皆さんに、私なりの「見分け方」を伝授しよう。この際、教義の奇抜さや献金の莫大さは問題ではない。「500円のお守り札ならOKで、500万円の壺ならダメだ」というのはおかしい。500万円の戒名料や葬儀料だっていくらでもある。こういう観点からカルトやインチキ宗教を評価しようとすると間違いを犯す可能性が高い。以下、4つの判断基準を披露しよう。おそらくこれで、90%以上、インチキ宗教かどうか判断できるはずである。私の判断基準を聞いた上で、なおかつ「その宗教が最高だ」というのであれば、それは、その人がその宗教と相性(レベル)が合っているのだから、それで一向に構わない。最初に記したように、ある表現が、意図的な嘘(詐欺)であるか単なる事実の誤認であるかの分岐点は、その事象が「事実に即していたかどうか」が問題なのではなく、その言葉を発した人が、その時その事象を「事実である」と信じていなかった(自分が信じていないことを他人に言った)か、信じていたか、にかかっているからである。文字通り、「鰯の頭も信心から」である。

▼三宅式インチキ宗教の見分け方

1) 当該宗教教団施設(建物)の趣味が良いか悪いか: 世間を騒がせている「怪しい」教団の本部(道場その他の施設も)の建物といったら、すべて超「悪趣味」ではないか。われわれは外観しか見ることができないが、たぶん、施設の内部はもっと趣味が悪いであろう。皆さん、心当たりがあるであろう。大抵の場合、「教祖」の見た目も見苦しい。

2) やたら教祖やカリスマの銅像を造りたがる: まだ教祖が健在だというのに、金ピカの銅像や肖像画・モニュメントの類が一杯である。「オーナー」が私物化している証拠である。この基準は、宗教だけでなく、企業や国家にも当てはまる。これらも物を会員たちにお守り代わりに持たせたりもする。

3) 教えを説きながら、それを外部の基準によって正当化しようとする: 例えば、ある宗教において、霊魂が存在するか否かは「ある」と言い切ればあるのだし、「ない」といえばないにもかかわらず、(神霊)写真や(オーラ等の)電磁波などの物的証拠あるいは、「右脳」やアドレナリン等の流行の科学用語を用いてこれを正当化したり、ローマ教皇やダライ・ラマ等の著名な宗教指導者や外国政府の要人などと「会見(言葉も通じないのに、大した内容の話が出来るはずがない)」した写真を機関誌等に紹介し、権威づけを計る。

4)「占い」や「運勢()鑑定」の類を強調する: 以前、拙論『論理的にあり得ない「予言」:似非宗教を見分けるコツ』で論証したように、各種の「占い」が出てきたら、インチキだと思って間違いない。「占い」が成立する条件として、「事前に全てのことが決定され」ている必要がある。だからこそ、その「未来(来るべき将来)を観よう」という意欲が湧くというものだ。さもなければ、占うこと自身、意味がなくなる。しかしながら、これから先に起こることを100%の蓋然性をもってハッキリと予測することは、論理的には不可能なことである。「占い」の前提となっている「決定論」が成り立たない以上、いかなる「占い」も成り立たないことは、自明の理のはずである。星座占い、血液型占い、仏滅・大安等々、いかにこれらを巧妙に組み合わせようとも、すべて論理的には整合性を持たない(インチキである)

 以上の、きわめて分かり易い4点のうち、貴方が関心をもって信者になろうとしている宗教に、2つ以上心当たりがある場合には、勧誘者がいかなる高尚な説明(自己弁護)をされたとしても、キッパリと断るほうが身ためだ。その宗教は、インチキ宗教もしくはカルト集団である可能性が極めて高いからである。


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