スカーフ論争に見る政教分離の壁
 04年01月24日


レルネット主幹 三宅善信


▼イスラム教とスポーツ

  昨年(2003年)11月、私はある国際スポーツ大会のテレビ中継の画面に釘付けになっていた。日本で開催されたバレーボールのワールドカップ大会である。この大会は、男女12カ国ずつが世界の各大陸から選抜されて、「バレーボール世界一」を決める4年に1度のFIVB(国際バレーボール連盟)主催の選手権大会であり、同時に、上位入賞国は、自動的に翌年の(今回の場合は2004年のアテネ)オリンピックへの出場権も得ることができるというのである。参加選手たちの気合いが入るのも当然である。独占中継をしていたフジテレビ系列のつまらない演出(註:K1などの格闘技中継にしてもそうだが、なぜスポーツ大会の生中継に、頭の空っぽそうなジャリタレや、グラマーだけの女(女優?)を出演させるのか、私には理解できない。鍛え上げた男同士の殴り合いや、世界一のレベルでぶつかり合う競技そのものが十分刺激的であるのに、プレーとプレーの合間に挟まれるド素人るの介入は、興醒め以外の何ものでもなく、もしこれが、インターバルの間に視聴者にチャンネルを変えさせないための視聴率狙いの作戦と思っているのなら、とんだお門違いだ)に目を瞑りさえすれば、なかなか興味深かった。フジテレビは、日本チームが出場するほぼ全試合を中継したのであるが、私の目に留まったは、なんといっても、アフリカ大陸を代表して出場したエジプト女子チームの選手たちであった。

  かつて、女子バレーと言えば、日本を初めとする東アジア儒教文化圏と、東ドイツやソ連といった東欧社会主義諸国の十八番であったが、今では、アメリカや中南米そして西ヨーロッパ各国にも広く人気スポーツとして普及し、むしろ、日本なんぞは、まったく蚊帳の外に置いて行かれた感もあるが、まだまだアフリカや中東諸国では、人気のあるスポーツとは言えない。その大きな理由が、今回のワールドカップ中継を視て判った。イスラム教では、女性が公衆の面前で手足を露わにすることを禁じているが、バレーボール選手のユニフォーム姿を想像してもらえば判るように、長く伸びた腕脚(てあし)を惜しげもなく公衆の面前に晒す(註:古代のオリンピア競技会では、各ポリスを代表する選手たちは、一糸纏わぬ裸身でその技を競い合った)のがバレーボールというスポーツの一般的な競技服であり、なおかつ、バスケットボールやプロレスなどの大型選手を見ても判るように、一般に超長身の選手というのは、男女を問わず独特の「ジャイアント馬場風の顔」といった風采の人が多いのに、バレーボール選手に限っては、どの国の選手も比較的可愛しいという点でも、真にテレビ映像向けのスポーツである。

腕脚頭髪をスッポリと覆った
エジプト選手(左)
まるで「水着」のような姿で惜しげもなく晒してる
キューバ選手(中)
同じイスラム国でも、
欧米並みの露出度の
トルコ選手

  そのワールドカップ大会のエジプトチームが出場する試合を視た人は気付かれたであろう。選手の中の何人か(註:ということは、その他の選手は非イスラム教徒?)は、およそバレーボールをするには似つかわしくない長袖シャツと膝丈まであるパンツをはき(そこから先はハイソックス)、極めつけに、頭から横面にかけてスカーフを巻いているのである。中東世界でよく見かけるお馴染みのスタイルである。このような視界の狭まくて動きにくそうな格好で、世界レベルのバレーボールの試合を闘っているのである。さすがに、もともと技量的にも、他の参加国の選手に比べて劣るので、残念ながら結果は11戦全敗であったが、私に非常に鮮烈な印象を残した。というのも、同じ女子バレーの選手でも、キューバなどはまるでビーチバレー選手のような水着(風の)姿で試合をしていたし、同じイスラム国家でも「政教分離」の世俗主義を国是としているトルコなどは、他の欧米諸国と同じようなユニフォームを着ていたからである。


▼スカーフはダメでネックレスはOK?

  さて、その頃フランスでは、イスラム教徒にとっては信仰アイデンティティの問題に関わる大変なことが起きていた。11月12日、フランス国民議会(下院)情報委員会では、「公立学校の施設内で、宗教や政治に属する標章の着用を禁じる法的措置を講じるように」との提案が31名の委員の全会一致で可決されたのである。もちろん、フランスは、1789年のフランス革命以来、「政教分離を国是」とした世俗国家であることは言うまでもないが、それを徹底させるために、「宗教についての識別を容易にするイスラム教徒の子女がスカーフを着けることを公立学校では禁止する」ということを、国家権力の行使を伴う法律でもって定めるというのである。この情報委員会の報告を受け、1カ月後の12月11日、大統領の諮問委員会も同様の決定を下し、12月17日、シラク大統領自ら国民向けの演説で「公立学校におけるスカーフの着用禁止」を発表した。しかも、そのことに対するフランス国民の世論調査は、賛成69%、反対29%というものであった。シラク大統領は、これが特にイスラム教徒をねらい打ちした攻撃ではないということを強調するために、例えば、「ユダヤ教徒(が被る独特)の黒い帽子ヤムルカやキリスト教徒の過度に大きな十字架も禁止だ」というふうに言った。しかし、一般のユダヤ教徒が頭の上に載せているカッパの皿のようなキッパ(キャップ)はOKであるし、ネックレスの装飾デザインに使われているような目立たない小さな十字架やバッジの類はお構いなしという、まさに玉虫色の裁定をしたのである。


嘆きの壁で祈る典型的な
保守派ユダヤ教徒の服装

  日本では、ユダヤ教徒やイスラム教徒あるいはインドのシーク教徒のようなひと目でそれと判る独特の服装をした人がほとんど街にいないので、日本人はあまり意識していないかもしれないが、欧米の街に行けば、頭のてっぺんから爪先まで黒ずくめのベルベット地の暑そうな服を着たユダヤ人(保守派)や、頭にターバンを巻き、長い髭を伸ば放題にしたシーク教徒などがやたら目立つ。政教分離の国フランスでは、そのような「他者に宗教性を意識させる服装を公立学校内でしてはいけない」というのが今回の措置である。しかし、ユダヤ教徒の黒いハットのヤムルカがだめなら、あの独特の長く伸ばして編み上げた鬢(びん=もみあげ)はどうなるのだ? 「鬢は身体の一部だから問題ない」とでも言うつもりなのであろうか? ならば、鬘(かつら)を被っている人の鬘はどうなるのだ! あるいは、目立たないような小さなネックレスやバッジならOKというのであるが、そもそも世界中のどの宗教やどの政治団体がどのようなシンボルマークを使っているかということを規定することができるであろうか(註:実は、筆者は数年前、イタリアのファッション企業Benetton本社から、「キリスト教の十字架だけでなく、道教のシンボルマークである陰陽(Ying and Yang=太極)をロゴマークにしたファッションブランドがあるが、神道のシンボマークである鳥居をデザイン化した織物柄がかつて日本に存在したことがあるか? また、神道のシンボルとしての鳥居のマーク成立の経緯について教えて欲しい」と依頼されたことがある) ?「金日成バッジ」は大きさからいうと問題ないことになるが…。また、同じスカーフでも、イスラム教徒でない女性がエルメスのスカーフをすることはOKというのも変だ。


▼創価学会も欧州ではカルト指定団体

  このように、われわれ日本人の感覚からすれば、ちょっと信じがたいような法律がフランスで制定されようとしており、当然のことながら、フランス各地ではイスラム教徒を中心に反対デモが連日繰り返されている。また、この動きはパレスチナなど他のイスラム世界へも波及しつつある。このことは、せっかく、イラク戦争の際に、あくまでもアメリカに楯突いて築いたイスラム諸国からの信頼を不意にするフランスの愚行である。ところが、フランスにおける「政教分離」の問題は、もっと複雑な要因があったのである。


「スカーフに反対する法律なのか、
イスラムに反対する法律なのか?」というプラカードを
掲げて、 平和的にデモ行進をするフランス在住の
イスラム教徒の女性たち

  実は、フランスでは、今から十年ほど前に、カルト対策のためのいわゆる『ビビアン報告』というものが国民議会に提出され、『反セクト法』なるものが成立し、首相直属の「セクト監視機構」なる公安組織まで作られた。これは、いわゆる“カルト集団”が引き起こしかねない反社会的な行為を未然に防ぐために、国家の機関が想定した10項目の危険性の判断基準の内、どれかひとつでもその条件(註:この基準自体が、欧州の伝統的なキリスト教を想定して作られているので、日本の多くの宗教はその基準と適合しない)を満たさない宗教団体があれば、その教団を「セクト(註:アメリカや日本で使われているカルトという言葉の意味とほぼ同じ意味。主にヨーロッパで使われる)」として取り締まるための法律である。基本的に「国教会」制度というものを持った歴史がないアメリカや日本では、諸宗教各派は規模の大小の差はあれ、ある意味、法的には対等な地位にあるが、歴史上かつてあるいは今でも「国教会」というものがあるヨーロッパにおいては、国家公認の教派(もちろんキリスト教の諸教派)が「Church」(例えば、Church of England=英国国教会)であり、プロテスタントの他の教団に属する教会を「sect(宗派)」と呼んでこれを区別してきた。本件については、『ヨーロッパの<セクト(カルト)宗教>について』を参照されたい。

  フランスのおける『反セクト法』は、その後、すぐにドイツなどEU各国へも普及し、欧州での成果を取り入れて、「(歴史や宗教的背景の全く異なる)日本でも反カルト法を制定しよう」というお調子者の弁護士グループなどもあるが、そもそも、公権力が宗教の教義の質や教団コミュニティのあり方を認定して価値判断をすることこそ危険ではないか(註:ちょうど、5大全国紙や2大通信社とNHKや民放キー局等だけに取材を認めて、週刊誌その他の中小メディアを占め出すどこかの記者クラブのように)。因みに、ヨーロッパの『反セクト法』によると、オウム真理教(アーレフに改称)だけでなく、創価学会もセクトということになっており、輸血拒否で有名な「エホバの証人」や「サイエントロジー」もセクトということで、非合法(註:ここでいう非合法とは、当該国内では「宗教法人格を与えられない」という意味である)団体と認定されているのである。


▼欧州ではトム・クルーズ映画は放送できない?

  したがって、サイエントロジーの熱心な信者として知られるトム・クルーズ(前妻ニコール・キッドマンやジョン・トラボルタも信者)が主演する映画は、ヨーロッパでは不特定多数の人が見るテレビではオンエアできない国もある。かつて『ミッション・インポッシブル』がそうであったように、今話題の『ラスト・サムライ』も、トム・クルーズ個人の信仰への偏見ゆえに、欧州では極めて限られた評価しか与えられていないことをあまり日本の人々は知らない。ちょうど、統一教会の熱心な信者であることをカミングアウト(公表)したばかりに、芸能界から完全に締め出されてしまった桜田淳子のように…。裏読みをすれば、今回、日本人を大量に巻き込むことによって、また、アメリカ人の先住民に対する贖罪意識を擽(くすぐ)ることによって、オーソドックスな西欧の教会的伝統の外側にいる諸文化(宗教的伝統)にも、それなりの価値があることを伝統的キリスト教社会に認めさせるためのトム・クルーズの戦略であるとも言える。事実、トム・クルーズはドイツ政府に積極的に働きかけて、サイエントロジー協会をドイツ国内で「公認された宗教」にする活動をしている。

  近代民主主義国家における重要な要件のひとつである「政教分離」の原則とは、いうまでもなく「政治と宗教を分離すること(separation of religion and politics)」ではなく、「separation of Church and State」つまり、国家の統治機構(の公権力行使)と特定の宗教教団(への後援や抑圧)を峻別するということであり、決して、宗教的伝統を国家が無視するのではないということなのである。その点、現在はいざしらず、過去長年にわたって他宗教への誹謗中傷を公然と標榜してきた宗教団体をその中心的な支持母体にもつ政党が連立与党の一翼を担っている現在の日本政府の行政執行が、果たして他の宗教団体に対しても公平に行なわれているかどうかということを、成熟した市民社会のメディアは厳重に監視すべきであるが、記者クラブに属する大手の報道機関各社は、十分にその任を果たしていないように私には思われる。

  ただし、そのことは同時に、特定の宗教団体が政治に関わってはいけないことを意味することではない。むしろ、各教団宗派が、自らの教えが説く理念(理想的な社会)を実現するために、積極的に政治に関わってゆくことは好ましいことである。ただ、政教分離とは「公権力を執行する側の行動を規制する法律的原則」であり、その反対ではない。その点、今回のフランスにおける『スカーフ禁止法』は、本来ならば教育現場で、公立学校側の宗教差別(優遇)こそを排除すべきところを、生徒側の振る舞い(註:イスラム教徒の女子生徒がスカーフをすること)を規制するという本末を転倒している点で間違っていると思われる。

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