遺体と遺伝子 1998.07.29

「レルネット」主幹 三宅善信


「遺体」と「遺伝子」という一見まったく異なるものに共通する要素は「遺」という文字である。「遺」とは、文字通り「のこされたもの」という意味である。

「遺体」という言葉は、現在では「死体=屍」ほとんど同義語(その丁重な表現「遺体=亡骸」)になっている。しかし、「遺体」の本来の意味は、「(我が)身は親の遺体(なきがら)」(『礼記』祭儀編)と述べられている(加地伸行著『儒教とは何か』p.20中公新書1990年)とおり、(私が)親から受け継いだ大切な預かりモノであり、それ故に、これに傷(文字どおりの物理的なキズ)を付けてはならないということになっている。古代の中国の刑罰に「耳削ぎ」や「鼻削ぎ」といったグロテスクな刑罰があるのも、この「親から受け継いだ大切な『遺体』を傷つけることによって、最大級の恥辱を与える」という意味があったらしい。考えようによっては「死罪」よりも重い刑罰といえる。だから、誇り高き「中華(漢)民族」にとって、(野蛮な)遊牧民の征服王朝である元や清王朝の風習である「弁髪(一部を剃髪した髪型)」の強制が、大きな精神的屈服感を与えたに違いない。

伝統的な儒教(日本で一般的に「儒学」と呼ばれている「朱子学」などの政治イデオロギーではなく、葬送儀礼等を含む「宗教としての儒教」のこと)において、もっとも大切なことは、先祖→親→自分→子→子孫と続くいのちの営みを一時も欠かさずに続けることであり、先祖を祀り、社稷(しゃしょく)を案じ、子孫繁栄を願う(子孫に取っては、自分が先祖になる)ことであり、これを総称して「孝」という概念で呼んでいる。儒教における「孝」は、われわれ現代の日本人が使う「親孝行」の「孝」よりも、遥かに広い概念である。

ここまで書けば、もう言うまでもあるまい。遺体の「遺」は、遺伝子の「遺」と同じモノなのである。20世紀の科学が「遺伝子の正体はDNAという高分子である」と解明して見せたが、自然科学が解明して見せる何千年も前から、人類は直感的に「親から子供へ」と確実に何らかの形質が伝達されるということは判っていた。すなわち、世界各地でみられる「先祖崇拝」という信仰は、極めて合理的な感覚である。

7月10日に大阪府神社庁で開催されたシンポジウムの席で、私は、わが国儒教研究の第一人者である加地伸行甲子園短大学長と分子生物学を一般の人々にも分かり易く解説して人気のあるJT生命誌研究館副館長中村桂子博士らと共にパネリストを務めた。中村先生は、「ヒト・松・バクテリアと一見、全く外見の異なる生き物全て(数千万種存在する)は、全て共通の遺伝子を持ち、そのひとつひとつに38億年間という気の遠くなるような進化の歴史を記録している」と述べた。いわゆる「ゲノム論」である。すなわち、すべての生きとし生けるものが共通の「いのち」を有するという「アニミズム」の信仰に通じるのである。これも、世界の各地でみられる信仰形態である。

なぜ、ゲノムの研究が進められるかといえば、それぞれの生物が持つ遺伝子のパッケージであるゲノムを解明してゆけば、その生物について「まるごとのいのち」が全て解るからである。もちろん、一番、熱意と関心を持って究明されているのは「ヒトゲノム」の解析(DNAを構成する4種類の塩基の配列順の解明)である。人間の身体を構成する各蛋白質を創り出すゲノムの解析情報が特許として保護されるので、医学やバイオテクノロジーの分野で膨大な富を生み出す可能性が大きく、世界中の研究者(個人・企業・研究機関・国家等)が寸刻を競って「ヒトゲノム」の解析を行っているので、数年後には、数兆個あるといわれるヒトのDNAの配列がすべて明白になるといわれている。

以上のことから導き出されることは、これまで、「プリミティブ(原初的)な宗教形態である」とされてきた「先祖崇拝」と「アニミズム」こそが、実は、最先端の科学的知識と最も整合する考えであるということが判ってきたということである。C・ダーウィンが1859年に世に出した『種の起源』以来、特に20世紀に入ってからは、いわゆる「間違った進化論」が、自然科学の世界よりもむしろ一般社会の方に蔓延(はびこ)り、「適者生存」や「自然淘汰」などの説がまことしやかに語られ、ナチによる「アーリア(ドイツ)人優性思想」その他の裏付け理論として借用されてきた。

自然科学の世界では、1976年にR・ドーキンスが『利己的な遺伝子』を発表して以来、いわゆる「ダーウィニズム的な進化論」は、単純には信じられなくなった。生物の「シンカ」は、価値観を加えた表現である「進化(あるいは退化)」ではなく、単に「新化(変化)」しただけである。「進化」という表現をすれば、あたかもそこに「目的なり方向性といったものが存在するかのごとく」といった誤解を与えてしまう恐れがある。生物は、この38億年の間、ただ単に「新化(変化)」しただけである。そこには、何ら(崇高な)目的もなければ使命もない。したがって、「ヒトは(最も)高等な生物で、バクテリアなどは下等な生物である」という表現は明らかに間違っている。地球上のあらゆる生物は、38億年前のひとつのDNA(たぶんRNA)から「新化(変化)」し続けて、それぞれ今日の形質を獲得したのであって、すべての生物のゲノムは38億年の歴史を有している点で「対等」であるというのは、科学の常識である。

ところが、一般社会では「ダーウィニズム的な進化論」が、巧妙に形を変えてますます幅を利かせるようになった。その中のひとつに「宗教進化論」がある。すなわち、「世界各地の未開(プリミティブ)社会に見られる『アニミズム(汎神論)』→古代ギリシャやヒンズー教のような『多神教』→キリスト教やイスラム教のような『一神教』へと宗教は進化してゆき、やがては前の二者は淘汰されてゆく」という乱暴な考え方である。基本的にキリスト教徒が多数派である欧米では、これらの考え方が一般的である。さらに嘆かわしいのは、日本の教団関係者(特に新宗教ほどその傾向が強い)の中にも、意識あるいは無意識の中に「宗教ダーウィニズム」の影響を受け、教祖在世中はほとんどシャーマニズム的あるいはゴテゴテ・ドロドロとしていた(アニミズム的)信仰形態を、その後、教団制度が整うに連れてそういう要素を排除して行くことこそ「一流の宗教」になることであると勘違いしている人が多いということである。自然界において、ヒトのような「高等な」生物がいる一方で、決して、バクテリアのような「下等な」生物も滅んでいないように、アニミズムや多神教も、決して、一神教に「淘汰」さ れることはないのである。

その意味で、現代の分子生物学をはじめとする諸科学が提起する問題は、多元化している世界の諸宗教を分析する上でも、きわめて有効な手段であるといえるのでなかろうか。




戻 る