冥土のみやげに空を見ろ
 06年08月24日



レルネット主幹 三宅善信


▼惑星と彗星の中間の天体?

  2006年の夏は、地獄の釜の蓋が開くというお盆の時期に、太陽系の歴史(人類の太陽系理解)を塗り替えるかもしれない天文論争が、専門家だけでなく、マスコミや教科書出版社まで巻き込んで繰り広げられた。曰く、「太陽系の惑星の数」に関する議論である。「太陽系の惑星の数なんてお前に言われなくても、“水金地火木土天海冥の9個”に決まっているじゃないか! 小学校の時にそう習った」たしかにそうである。しかし、冥王星が“発見”されたのは1930年(昭和5年)のことであるから、大正生まれの人にとっては、生まれたときには冥王星は「無かった(人類の太陽系理解)」のである。

この“惑星”にしては長楕円形の斜めに傾いた軌道(註:水星から海王星までの8個の惑星は皆、ほぼ同一平面上のほぼ真円形の軌道を周回している)をえがく公転周期約248年(つまり、太陽の周りを約248年かけて周回する)の奇妙な惑星は、その内の20年間は、なんとひとつ内側の惑星である海王星よりも内側の軌道を回るのである。最近では、1979年から1999年にかけてその軌道を周回していたので、うちの長男が小学生になった頃は「水金地火木土天冥海」だったのである。しかも、この“惑星”にしては異常に小さい冥王星(註:地球の衛星である月や、ガリレオが発見した木星の4個の衛星、土星の衛星タイタン、海王星の衛星トリトンよりも小さい)を“惑星”と認めるかどうかには、以前から専門家間で議論の的になっていた。

そもそも、太陽を周回している天体は何万個とある。中でも、ほぼ76年周期で太陽に接近する(地球上の人類にも肉眼で観察される)ハレー彗星が有名である。文字に残された歴史上の初出は、紀元前240年の秦の始皇帝の時代に出現(『史記』の始皇本紀)したのをはじめ、紀元前164年にはバビロニアの粘土板に出現(接近)記録が残されている。イエス・キリスト生誕時の「ベツレヘムの星」も実は、紀元前12年に接近したハレー彗星ではないかと言われている。わが国でも、小野妹子が遣隋使に赴いた607年と684年の項目に「帚星(ほうきぼし)」の記述がある(『日本書紀』)。

近年では、1986年3月に接近したので、その存在を誰でも知っているが、このような彗星だけでも何千個もあるし、公転周期が1万年もするような極端な長楕円軌道をえがく彗星なら人類に知られることすらないであろう。惑星の“兄弟”とも言える彗星は、「氷と塵の塊(汚れた雪だるま)」である。しかも、極端に小さいが故に、自らの重力によって構成する剛体を崩壊させて球体になることができず、ジャガイモのような歪(いびつ)な形をしていることが多い。冥王星は、彗星にしては巨大(ほぼ完全な球体)であるが、その長楕円軌道と氷の塊であるという性格からして、惑星と彗星の中間に属する天体を呼んでも良い代物である。

それ以外に、よく知られた太陽系内天体群としては、火星と木星の軌道の間にある“小惑星”帯(asteroid belt)には、数万の小天体があるがその中でも最大のケレス(家庭用の天体望遠鏡でも見ることができる)はほぼ球体をしているし、近年の観測技術の飛躍的な進歩により次々と“発見”されている海王星よりも外側の「エッジワース=カイパー・ベルト」天体(註:その中の一部が、極端な長円軌道に乗って太陽に接近するものを彗星と呼ぶ)に至っては、それこそ天文学者にとっては「宝の山」である。自分の名前を付けることのできる未発見の“惑星”がいくらでもある。


▼矮小化された惑星?

しかし、ここに意外な落とし穴があった。2003年にNASAが“第十惑星”として発表した「2003 UB313(冥王星よりも直系が大きい)」をはじめ、QuaoarやSednaやOrcusがなどという“惑星”候補が次々と発見されたが、まだ一般社会には定着していない。ところが、アメリカを中心とする一部の天文学者がこの“第十惑星”と、これまで冥王星の衛星(実は、冥王星とは二重惑星になっていた)とされてきたカロンと、最大の小惑星のケレスの3つを新たに“惑星”の仲間に加えて、太陽系の惑星の総数を9個から12個へ増やそうとしたことから問題が起きた。こんな「規制緩和」を許したら、今後、いくつ惑星の数が増えるか判らない。すでに、あと十個ほど“惑星”の候補があるらしい。

これでは「衛星のインフレ」の二の舞である。太陽系最大の惑星である木星の“衛星”の数は、約400年前にガリレオが発見した4個に加えて、地上からの観測でさらに9個が「発見」されていたが、その後、惑星探査船ボイジャーや、ハッブル宇宙望遠鏡などの登場によって次々と微少な“衛星”が発見され、今では63個もある(たぶん、もっとあるであろう)とされているが、その約3分の1には名前すら付けられていない。同様に、輪で有名な土星にも56個の“衛星”が発見されており、もっと遠い、天王星にも27個、海王星にも16個もの“衛星”が確認されており、今後この数がいくつまで増えるか想像すらつかない現状である(註:実は、一番“衛星”の数が多い惑星は、地球である。なぜなら、人類が打ち上げた人工衛星が数千個地球を周回しているから)

そこで、「振り子の揺り戻し」現象とでも言おうか、専門家達の間で、逆に「惑星の定義を厳密化しよう」という動きが起こった。そこで、“惑星”についてのそれまでの2つの定義、すなわち、「1.太陽を周回する(衛星でない)天体で、2.自己重力が固体強度を上まわって球体になり(直径が約1,000kmに達すると、その天体の形状は自己重力でほぼ球体になる)」であったが、その条件に加えて「3.(合体または重力散乱で)自分の軌道を独占(他の天体を放逐)しまったもの」が追加された。こうなると、同じ軌道上に数万の小惑星を抱えるケレスも、海王星と軌道が交差する冥王星も“惑星”の定義から外れてしまい、新たに定義づけられた惑星に準じる存在である“矮惑星(Dwarf Planet)”に格下げされてしまった。

  しかし、どうだろう。この国のマスコミのバカバカしさは…。純粋に科学的な議論にもかかわらず、社会的に「差別用語」という烙印を押されることを過度に恐れるあまり自主規制してしまい、誰も自らこの国際天文学連合(IAU)が新たに規定した「Dwarf Planet」という用語を正しく日本語訳しようとしないではないか! 英語の「dwarf」と言ったら、「ハイホー。ハイホー♪」で有名なディズニーの『Snow White and the Seven Dwarfs(白雪姫と七人の小びと)』に登場する「小びと」のことである。だから、そのまま和訳すれば「小びと惑星」のはずである。もっとも、ディズニーのアニメですら、最近では、『白雪姫と七人の妖精(?)』と和訳を換えられている。しかし、「妖精(fairy)」っていうのは、『Peter Pan(ピーター・パン)』に出てくる背中に羽のついた「Tinkerbell(ティンカーベル)」みたいな可愛いのが妖精で、いくら身長が小さいからといって髭面の鉱山夫の「dwarf」を「fairy」とは言えないと思うけれど…。これこそ、「矮小化」された議論だと思う。まぁ、今回は、こういうテーマを論じる場でないので、話を冥王星に戻すけれど…。


▼冥王星の発見がアメリカ人の目を宇宙へと向けさせた

  ハッキリ言って、冥王星は太陽系の他の8個の“惑星”とはあまりに実態が異なるので、“惑星”と呼ぶには相応しくない。私も前々からそう思っていた。純粋に天文学的な定義は、むしろこのほうがスッキリしたであろうが、ここで極めて人間的な問題が起きた。なんでも「世界一」でなければ気が済まないアメリカ人たちにとって、この冥王星の「格下げ」は、彼らのプライドを著しく傷つけることになったからである。20世紀になって初めて人類文明の中心になったアメリカには、モーツアルトやベートーベンといった偉大な音楽家もいなければ、ミケランジェロやラファエロといった天才画家もいない。パリのルーブル美術館にアメリカ人の絵画なんて飾っていない(おそらく)けれど、ニューヨークのメトロポリタン美術館ですら、そのほとんどの絵画はヨーロッパから金の力で購入したもので、わずかにアメリカ人の描いた絵画が展示されているが、ハッキリ言って美術品としての価値は数段劣る代物しかない。つまり、アメリカが世界一になった時には既に、人類文明は円熟期に達してしまっていたのである。

  もちろん、天文学にしたって、既に五千年前のメソポタミア文明の時代に、水金火木土の5つの「古典的惑星」は発見されていた。東洋でも、これらの5つの惑星は古代中国で発達した陰陽五行説の「木火土金水」に相当することからも、既に、大昔から知られていた。その5つに加えて、1781年に英国の天文学者ハーシェルによって天王星(ギリシャ神話の天の神ウラノスに由来)が発見され、1846年にフランスの数学者ルヴェリエ(註:ルヴェリエは、天王星の実際の観測軌道とケプラーの法則やニュートン力学から導き出される計算上の数値とのズレの原因を、天王星の外側にある未知の惑星の重力の影響によるものであるとして、その未知の惑星の軌道をドイツの天文学者ガレに報告し、ガレがその予想地点に望遠鏡を向けて発見した)らによって、海王星(ローマ神話の海の神ネプチューンに由来)が発見された。「新しい国」アメリカには、逆立ちしてもヨーロッパに勝てない部分である。アメリカ文明は「ヨーロッパ文明の出がらし」みたいなものだったのである。

そのようなアメリカにおいて、1930年、ついに彼らの自尊心を喚起する事態が発生した。ボストン生まれのパーシバル・ローウェルが造ったローウェル天文台のスタッフのクライド・トンボーが、ローウェルの計算に基づいて予想された軌道上の観測を行って冥王星(ローマ神話の冥府の神プルート由来)を発見したのである。ついに、アメリカ人によって発見された“惑星”が出現したのである。このときの全米の興奮ぶりは、その
2年前にスクリーンにデビューしたウォルト・ディズニーの人気キャラクターであるミッキーマウス(私の亡父と同じ1928年生まれ)がその飼い犬の名前を「プルート」と名付けたほどである。子供向けのアニメのキャラクターに、日本語で言えばいわば「閻魔大王」に当たる「Pluto(冥府の王)」と名付けてしまうくらいだから、よほど、アメリカ人にとってこの冥王星の発見は大きな出来事だったのであろう。

このことが、後のアメリカの宇宙開発への動機づけとなる。つまり、これまで、人類のどの文明も手を付けることができなかった宇宙を「新たなフロンティア」としてアメリカが船頭になって乗り出していくというイメージである(註:SF映画『Star Trek』を見れば、乗組員達はロシア人・スコットランド人・日本人・アフリカ系はおろかバルカン星人まで多種多様であるが、これらを強力なリーダーシップを発揮して率いていくのは、やはりアメリカ人のカーク艦長である。その点、人類滅亡の危機を救う地球的使命を帯びた『宇宙戦艦ヤマト』の乗組員が、なぜか全員日本人であることと対照的である。Homogeneousな日本人にとっては、異民族と共同作業することは、ロボットや宇宙人であるガミラス人やイスカンダル人と意思疎通することよりも困難な課題なのである )。同様に、1940年、アメリカの化学者シーボーグによって発見された放射性元素がプルトニウムと名付けられたことからも、冥王星はアメリカ人にとって大切な“惑星”なのである。


▼“異能”の人パーシバル・ローウェル

  このトンボーに冥王星を発見させるきっかけを与えたパーシバル・ローウェルという人物が興味深い。十代続いたマサチューセッツの名門ローウェル家の跡取り息子であったパーシバルは、ハーバード大学卒業後、友だちと世界旅行に出かけ、実業の方面には興味を示さなかった。ローウェル家はまた学者一家であり、有能な才を多数輩出しているが、弟のアボット・ローウェルはハーバード大学の総長にまでなっている。そのパーシバル・ローウェルが、実は、明治16年から26年にかけて計6回、通算3年間も日本に滞在した経歴を持つ、当代随一の“日本通”アメリカ人でもあったのである。短期間で日本語も習得し、日本文化に関する論文も多い。しかも、神習教の教祖芳村正秉(よしむらまさもち)の下で、神道の勉強までしている。

  このパーシバルという人物、ある時、東京の自宅で日本地図を見ていてふと、日本海に奇妙な形をして突き出した能登半島が気になって、無性にその地を訪れたくなり、ついには『NOTO: An Unexplored Corner of Japan』という旅行記まで出版することになるのである。この心境は大変よく解る。私も、自宅のトイレに世界地図を貼って用を足す間眺めているが、奇妙な形をした半島や、海峡や地峡を見つけては、いつかその地を踏破してみたいと夢想している。私に言わせれば、アジアとアフリカを分かつスエズ地峡がかくも狭いこと。あるいは、アフリカとヨーロッパを分かつジブラルタル海峡がかくも狭いこと。あるいは、アジアとヨーロッパを分かつボスポラス海峡(註:最も狭い部分は700mしかない)がかくも狭いことに何の好奇心も感じない人間はバカである。渡ろうと思えばいつでも渡ることのできるわずか幅700mメートルの「海」(川でももっと広い川がいくらでもある)が、千年以上にもわたってヨーロッパの文明とアジアの文明を分けてきたなんて、そこには単なる地政学的な力だけでなく、それ以外の何らかの力が作用して歴史の糸を紡いできたとしか言いようがないし、その「力」の正体が何であったのかを解明したいといつも思っている。

  そう言う意味からも、私はこのパーシバル・ローウェルという人物に親近感を感じているが、彼は明治26年(1893年)、『Esoteric Shinto(神道の密儀)』を連載。この年の末に日本を離れて翌1894年、『Occult Japan(神秘の日本)』を米国で出版したのを機に日本研究を卒業して、観測条件の良いアリゾナ州にローウェル天文台を建設し、一転、幼少期以来の趣味であった火星の研究に没頭した。翌1895年には早くも『Mars』を刊行し、「火星表面に見える“運河”は火星人の手になるものである」という説を発表して、後のSFの世界に大きな影響を与えた。その意味でも、パーシバル・ローウェルは“異能の人”である。


▼映画『スーパーマン』の宗教性

  だいぶ横道に逸れたので、話を冥王星に戻そう。今回の国際天文学連合(IAU)の「冥王星は惑星ではない」という決定は、そのアメリカ人の国威を真正面から叩き潰した形になった。「アンチ・アメリカ派」の私としては、「ザまぁみろ!」であるが、ことはそれほど単純ではない。アメリカ人にとっては、コペルニクスの天動説くらい天と地がひっくり返ったことであろう。アメリカ人にとって、「宇宙」とはアメリカの「最後のフロンティア」であり、アメリカの理想が究極的に実現されるべき「約束の地」なのだから…。そう映画『Star Trek』のあまりにも有名なあの出だしのナレーション「宇宙、それは最後のフロンティア…(Space the final frontier. These are the voyagers of the starship Enterprise. It is continuing mission to explore strange new worlds, to seek out new life and new civilizations to boldly go where no one has gone before.)」の世界観である。

  5年半前、私は『宗教・民族紛争の種は尽きない』において、大学生の時(1978年)に観た『Superman』という映画の中で、スーパーマンにほのかな恋心を寄せるDaily Planet新聞社のやり手女性記者ロイス・レインが、「Why are you here?」と彼がこの惑星に来た理由を尋ねるシーンがあって、その時、スーパーマンはぬけぬけと「Truth, Justice and the American Way!」と答えるシーンが最も印象深かったと書いた。しかも、この時の日本語の字幕スーパーには、単に「正義と真実のために」と翻訳されていたのに二重に驚いたものだ。日米間の相互誤解の淵源は、案外、こういうところにあるものだとも思った。

  果たして、この夏、ハリウッドから再びスーパーマン映画が上陸した。題して『Superman Returns』(帰ってきたスーパーマン)。文字通り、クリストファー・リーブがスーパーマン(=クラーク・ケント=カル・エル)を演じ、大御所マーロン・ブランドがカル・エルの亡父ジョー・エル役を、脂の乗りきったジーン・ハックマンが敵役レックス・ルーサー役を演じたあの『Superman』の“続編”(註:実際には、70年代末から80年代にかけて続編が3作品創られたが「駄作」の連続で、第1作を超える内容ではなかった)を意識した作品である。しかし、最新作を論じる前に、私は、第1作の『Superman』で、スーパーマン父子がユダヤ人を意識する名前(Jor-ElとKal-El)で呼ばれていたことにもショックを受けた(ヘブル語でElは神を現す言葉)し、「宇宙の彼方にいる“父”が人類を救済するため愛する一人息子をこの地球へと遣わした」という設定にも、あまりにもキリスト教をイメージする作品だと思ったものであることをもう一度、表明しておかなければなるまい。


▼空を見ろ!

  50歳くらい以上でないと、前作と今作をオンタイムで比較することは難しいのかも知れないが、今回の作品は、良い意味でも悪意味でも、「冷戦」の時代から「非対称戦争」の時代へと世の中が様変わりしている様子が描かれていた(註:作品中では、前作の世界から5年間しか経過していないことになっているが、あのスーパーマンとロイス・レインが夜のニューヨーク(劇中ではメトロポリス)の摩天楼を空中デートするシーンに「9.11」で崩壊したWTCのツインビルが無くなっているのは言うまでもない)。つまり、紛れもない、テロとの戦いに奔走する現代のアメリカが描かれているのである。

いかにスーパーマンといえども、「悪の帝国の独裁者」や「マッド・サイエンティスト」をやっつけることはできても、善良な一般市民に扮装したテロリストが身体に爆弾巻き付けて自爆テロをされることは防ぐことはできない。そういう世相を意識してか、劇中、ロイスがピューリッツアー賞を取ることになったレポート記事『The World doesn’t need a Savior』が紹介されているが、とは言いながら、結局、劇中で「世界は救世主を必要としている」と結論づけているところが、アメリカで優勢な宗教右派に気を遣っているところである。ここでも、日本語の字幕スーパーでは、「世界はヒーローを必要としている」と出るが、「Hero(ヒーロー)」と「Savior(救世主)」とでは、質的に全く異なるものであり、日本での配給会社の松竹が、わざと宗教色を抜いているのか、それとも、この作品の持つ宗教的テーマに対してあまりにも無頓着なのかは知らないが、この点はこの映画を観る上で大事なポイントである。

  劇中、地球を飛び出した息子(Kal-El)に対して父(Jor-El)が、「humans can be a great people if someone will simply show them the way…」などと曰うシーンがある。このアメリカ人の冥王星に対するこだわりと、『Superman Returns』を同時期に見せられた私は、あらためて、アメリカ文明を理解する上での重要なヒントを得たような気がした。そう言えば、今回の作品の中で、古典的スーパーマン(註:1950年代に製作されたジョージ・リーブス主演の米国のテレビシリーズ『スーパーマン』)の名科白「Look, Up in the sky. It’s a bird. It’s a plane. It’s Superman. (空を見ろ! 鳥よ。飛行機だ。否、スーパーマンだ!)」も飛び出した。それから、航空機の墜落の危機を間一髪で救ってくれた後で述べる「統計的に言うと、飛行機は今でも一番安全な乗り物です」というお決まりの科白も言ってくれる。おそらく、機内上映用のマーケットも意識しているのであろう。

  私は、今回の作品を書いている間中、何度もグスターヴ・ホルストの作曲した組曲『惑星(The Planets)』作品32を繰り返し聴いた。しかし、よく聴いてみると、ホルストの組曲『惑星』には、第1曲「火星:戦いをもたらす者」、第2曲「金星:平和をもたらす者」、第3曲「水星:翼のある使者」、第4曲「木星:喜びをもたらす者」、第5曲「土星:老いをもたらす者」、第6曲「天王星:魔術を使う者」、第7曲「海王星:神秘なる者」までしかない。それもそのはずである。ホルストの組曲『惑星』の初演は、冥王星が発見される十年も前の1920年のことなのだから…。そして、空を見ても、冥王星はとてもじゃないが「見える星」ではないのである。まさに、「冥府の王」の星なのである。今宵も、空を眺めてから寝ることにしよう。

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