くいだおれと幻の大阪オリンピック

 08年7月08日



レルネット主幹 三宅善信


▼くいだおれ太郎と吉兆喜久郎

  戦後まもなく、大阪の繁華街「道頓堀」に開業した食堂ビル『大阪名物くいだおれ』が、本日、59年の幕を閉じた。今からちょうど3カ月前の4月8日、突然、マスコミ各社に対して「7月8日をもってくいだおれの営業を終える」とリリースし、翌日、柿木道子会長、山田昌平社長が揃って記者会見したことから、今回の『くいだおれ狂想曲』は始まった。バブル崩壊以後、会社が破綻して経営陣が頭を下げるシーン、また、ここ数年は、数々の偽装事件(特に食品関係が多かった)で経営陣が、記者会見における質問攻めで「火達磨」になるシーンを見慣れてきただけに、なかなか興味深かった。

  食品に関するほとんどの会社の偽装事件(鳥インフル禍の鶏肉の出荷、牛肉産地・等級偽装、賞味期限の付け替え、中国産ウナギの産地偽装)の「張本人(経営者)」たちの記者会見での狼狽ぶりは、まさに「危機管理」能力の欠如を露呈した。中でも、最悪ケースが「船場吉兆」であることは衆目の一致するところである。内部告発により次々と「事件」が発覚→経営陣がこれを否定→動かぬ証拠の判明→しぶしぶ認めて、再発防止を表明→また、事件が発覚→経営陣がこれを否定→動かぬ証拠の判明→しぶしぶ認めるという悪循環で、最後には廃業(破産)という憂き目を見た。そのプロセスの中で、12月10日の記者会見で「囁(ささや)き女将」として有名になったのが、取締役の湯木佐知子女史である。

  これは、完全に作戦ミスであった。記者会見でも、本来ならば、「社長」である湯木正徳(佐知子氏の婿殿)が出るべきであるが、ご本人がこのような場への適正がない(なにせ板前職人出身)のなら、気の弱い「若殿」湯木喜久郎取締役なんぞより、「治天の君」(実質的な経営者)である湯木佐知子取締役が直接、矢面に立てば良かったのである。しかも、昨年10月末から問題になった「賞味期限の書き換え」(註:「賞味期限」に関する私の考え方は、『賞味期限って誰が決めた』に明言しているので、ご一読いただきたい)と「鶏肉や牛肉産地偽装」問題によって、一時休業(民事再生法の適用申請)に追い込まれた後、せっかく再開(1月22日)したのに、今度は、「食べ残し料理の使い回し」が発覚して、結局は、5月28日に廃業届の提出の憂き目を見ることになった。

しかし、よく考えてみれば、「使い回し」は、営業再開後の話ではなくて、十年以上も前からの話だったので、一時休業前の「賞味期限の書き換え」・「産地偽装」が問題になった際に、「実は…」と、この件も発表しておけば良かったのである。刑事訴訟法でも、複数の罪状が重なる際には、その中の一番重い罪だけが適用されるのだから…。危機管理で最も悪いとされる典型的な“Too little, too late”のパターンである。敗戦色濃厚の日本軍を見る思いである。

  全国的にも有名な高級料亭(註:世界の首脳が一堂に会する北海道洞爺湖サミットでも、日本料理部門担当のシェフは、京都吉兆の料理長が務めるそうだ)がこうして奈落に落ちていく姿を尻目に見て、同じ大阪にあった大衆路線の食堂ビル『大阪名物くいだおれ』の名物女将(柿木道子女史)はおそらくこう考えたであろう。「潮時や。(ずいぶん以前から食堂ビルとして不振であったことは誰の目にも明らかだったので)ウチもトラブルが出ないうちに(食品業界を取り巻く状況は、「偽装」だらけなので、いつこのような「不祥事」に巻き込まれるか判らない)廃業しよう。しかも、その廃業すらカウントダウン・イベントとしてショーアップしよう」と…。そして、その狙いは見事に成功するのである。いちいち横から囁いてやらねば何も言えない「傀儡(くぐつ)息子」ではなく、初めからもの言わぬ人形である『くいだおれ太郎』に堂々と自説を代弁させて、廃業を正当化させたのである。

しかも、「くいだおれ太郎」を連日メディアに露出(註:これをコマーシャル枠で購入したら、大変な価格になる)させて、閉店後に残る「くいだおれ太郎」の商標価値を高めるだけ高めたのである。しかも、当初は「譲渡する」と言いながら、いつの間にか「レンタルする」に変わっていた。また、食堂ビルとしての「くいだおれ」は閉店したが、企業としての「株式会社くいだおれ(Cui-daore)」は従前からあった「くいだおれ太郎」のストラップ以外にも、着うた・着ムービー、切手販売など、商標ビジネスで十分食っていけるのである。まさに「くいだおれ狂想曲」は、90日間だけでは収まらなかったのである。



▼運河の開削によって「天下の台所」となった

  ところで、『主幹の主幹』の読者の皆さんならば、「京の着倒れ、大坂の食い倒れ、江戸の履き(飲み)倒れ」という言葉をご存じであろう。言うまでもなく、三都の比較ものである。「日本三大祭り」といったら「京の祇園祭、大坂の天神祭、江戸の神田祭」である。江戸時代には、江戸の人口100万を誇る世界最大規模の大都市であったが、京・大坂も35〜40万人の人口があった。それ以外の都市では、名古屋(尾張77万石の城下町)や金沢(加賀100万石の城下町)という大藩の藩都でも人口5万人以下だったので、江戸時代を通じていかにこの三都が大都市として群を抜いていたかは想像できるであろう。明治維新後の廃藩置県でも、この三都は「三府(京都府・大阪府・東京府)」として別格で、「県」にはならなかった。肥前出身の幕末の儒学者広瀬旭荘の弁によると「京の人は細なり。大坂の人は貪なり。江戸の人は夸なり」と都市比較している。

  織田信長の宿敵石山本願寺の跡地に、天下人秀吉が築いた大坂城の城下町として急速に発展した大坂は、徳川の時代になってからも「天下の台所」として本邦最大の物流都市であった。理由は簡単である。20世紀の後半になって自動車(トラック)が物流の中心になるまでは、二千年の長きにわたって、重量物はすべて船で運搬されたからである。海運は、津(港・湊)という“点”を整備しさえすれば良いが、陸運は街道(道路)という“線”を整備しなければならず、鎌倉時代以来、諸国・諸藩に分かれて内戦を繰り返してきた「領邦国家」であったわが国においては、諸国を貫く一本の幹線道路を整備することが容易ではなかったことは想像に難くない。信長の天下統一事業のひとつに「関所の撤廃」があることも象徴的である。


各藩が堀割から水を引き込んで、蔵屋敷内に荷揚場を作った。
模型は広島藩の蔵屋敷。安芸の宮島に似せた鳥居まである

  こうして、物流についての諸般の条件が整った大坂は、徳川の天下になっても、全国から米が集められ、諸大名の蔵屋敷が林立し、まさに「天下の台所」と呼ばれるに相応しい大都市になったのである。堂島にあった米相場は、350年前に既に商品(米)の先物相場が形成されていた。春の時点で、半年後の秋に収穫予定の米の先物取引をしていたのである。「世界恐慌」の引き金となった1929年のウォール街における株価の暴落時には、なんと、アメリカにはまだ「先物市場」(註:当然、先物市場は現物市場のヘッジの機能を期待されている)という概念がなかったというから、大坂堂島の米相場が、世界的にもいかに先駆けた金融市場であったかがお判りと思う。今でも、金融業に関する用語は、「為替」「手形」「両替」「振替」「相場」「頭取」等、既に江戸時代に確立した概念によって命名された用語が大手を振って使われているあたり、カタカナ用語ばかりの他産業と比べても、日本における金融業の世界的先進性が理解できるであろう。

  このように、江戸時代に大坂の街が大繁栄をした理由のひとつが、町中を縦横に貫く掘り割り(運河網)であった。従来からあった淀川(旧淀川)は、現在の新淀川(明治以後、新たに開削されて、こちらが「本流」となった)との分岐地点(いわゆる「毛馬の閘門(けまのこうもん)」)より下流では、「大川」と呼ばれた。この川面で行われるのが天神祭のクライマックス「船渡御(ふなとぎょ)」である。大川は、全長が東西に約3kmの「中之島」を挟んで、北側が堂島川で南側が土佐堀川と名を変える。そして、中之島の西端で再び合流した川は、すぐに安治川と木津川(木津川は、さらに木津川と尻無川に分岐)に分かれて大阪湾に注ぐ。これらの「自然の川」に加えて、中之島の始まる辺り(東端)の大川から、真南方向に、全長約3kmの東横堀川が秀吉の命によって開削(1585年)された。これは大坂城の「外堀」の機能も兼ねていた。この東横堀川と木津川の中間辺りを土佐堀川から道頓堀川までの南北3kmを貫いているのが西横堀川(1600年〜1971年再埋立)であった。


堀割で囲まれた「天下の台所」の中心地「船場」

そして、東横堀川の南端から真西に曲がって、木津川と合流するまでの地点を東西に貫く全長約3kmの運河が有名な道頓堀川(1615年)である。他にも、この道頓堀川の1kmほど北側に、木津川までの3kmを東西に貫いていたのが長堀川(1622年〜1964年再埋立)である。そして、土佐堀川と東横堀川と西横堀川と長堀川によって囲まれていた東西2km南北1kmほどの四角い地域が、商家が軒を連ねた「船場」である。20世紀後半の東京への一極集中までは、わが国を代表する大企業の本社が数多く軒を連ねていた地域である。そして、「船場」の南側の運河で囲まれた四角い地域が「島之内」である。因みに、土佐堀川と西横堀川と木津川と道頓堀川に囲まれた地域は、大阪湾から近い分、より運河のネットワークが充実しており、「西船場」と呼ばれ、諸大名の蔵屋敷が林立していた。


船場には、蔵を有する商家が軒を連ねていた

  そう「船場吉兆」は文字通り、この船場にあり、「くいだおれ」は道頓堀の河畔にあった。東横堀川は秀吉の命で開削されたと述べたが、道頓堀川は1612年から1615年にかけて安井道頓をはじめとする民間人によって開削された。秀吉の大坂開府事業に協力して、数多くの運河開削を行った安井道頓であったが、大坂夏の陣に巻き込まれて(豊臣秀頼方)大阪城内で討ち死にしたが、道頓の遺志を継いだ関係者によって無事完成。豊臣家滅亡後、唯一の「大坂藩主」(1615〜19年の四年間「大坂藩」が置かれたが、以後、大坂は天領となり「大坂城代」が置かれた)として、戦禍によって荒廃した大坂の街を復興させた家康の外孫松平忠明から、安井道頓の功績を讃えて「道頓堀」と命名した。そして、この道頓堀の河畔に、1660年代から、中座(註:中座に関しては、『中座全焼は芝右衛門狸の祟り?』をご一読いただきたい)・角座・竹本座・浪速座・弁天座・旭座などの浄瑠璃や歌舞伎の常設小屋(劇場)が立ち、わが国の演芸の中心地となった。

  日本一の商業都市であった江戸時代から、明治維新後も「東洋のマンチェスター」として日本一の工業都市として昭和30年代まで発展した大阪の街を支えたのは、市内を縦横に巡らされた掘割であった。前近代において、城壁と並んで川や堀割は、軍事的には「敵の侵入を防ぐ」バリアであった。したがって、為政者側からすれば、橋はできるだけ架けないほうが良かったのである。ところが、商業という観点からすれば、もちろん、物品は船で輸送するのであるが、人間は歩いて移動するのであるから、橋はできるだけ多いほうが便利に決まっている。ただし、浮世絵などに描かれた江戸時代の橋の絵を見ても判るように、木製の橋はアーチ型をしていたので、荷を積んだ車輌(大八車)が通ることを想定はしていないことは明らかである。あくまで橋を渡るのは人間であった。そして、荷物を一杯積んだ船が川や運河を行き来するためにも、橋桁はできるだけ高いほうが都合良かったので、その面からも橋はアーチ型をしているほうが都合良かった。


天神祭の船渡御で賑わう大川に架けられた天満橋と天神橋


▼商家によって作られた運河や橋

  江戸が「八百八町」と呼ばれたのに対し、大坂が「八百八橋」と呼ばれたことは誰でも知っているが、実際には江戸のほうが大坂よりも橋の数は多かったそうだ。当時、大坂には約200の橋があった。では、何故、大坂は「浪速八百八橋」と呼ばれたのか? それは、「誰が橋を架けたのか?」という事実に依存している。大坂の橋の内、幕府が事業主体となって(税金を使って公共事業として)建設した「公儀橋」は、大坂城に近い、京橋・天満橋・天神橋・難波橋・高麗橋など、わずか12橋に過ぎない。それ以外の大半の橋は、町人(商家)が私財をなげうって建設した「町橋」である。その中でも、豪商淀屋辰五郎橋が架けた「淀屋橋」(現在の大阪市役所付近、大阪のメインストリート御堂筋が通っている)や、長堀川の開削者である美濃屋心斎が架けた「心斎橋」(「心斎橋」そのものは、長堀側が埋め戻された際になくなったが、長堀通りを跨ぐ歩道橋として再建された。大阪のショッピングストリートである「心斎橋筋」は、この橋を通っている)などが有名である。当時、公儀橋と町橋は一目で見分けがついた。公儀橋の欄干には、社寺建築によく見られる装飾である「擬宝珠(ぎぼし)」が付いていたからである。文字通り「お上」だったのである。これから、TV時代劇を観賞するとき、その橋に「擬宝珠」が付いているかどうかをチェックするのも「通」好みである。もちろん、五街道の起点であった江戸の日本橋は公儀橋だったので、欄干に擬宝珠が被せられている。


公儀橋の欄干には「擬宝珠」が付けられていた


  本来、道路や橋梁や河川工事というのは、政府が税金をもって行う「公共事業」のはずである。街道から外れた山奥の屋敷に自分のために道を切り開くというのなら判るが、江戸や大坂といった大都市における運河の開削や橋梁工事による受益者は、社会全体のものであって決して、特定の商家のためだけではない。もちろん、店の前に橋ができれば、それだけ人通りが増し、商売が繁盛するという効果は期待できるが、それとて、莫大な初期投資が必要なことから考えれば、どれぐらいの期間で初期投資が回収できるかとなると、昨今の高速道路建設時のB÷C(費用対効果)ではないが、これが1を上まわるのには、相当な時間が必要である。木製の橋であるから、メンテナンスも常に必要である。おまけに、当時の大都市における商家への税制は、店の「間口」(道路に面している幅)に対して課けられたので、商家は皆「鰻の寝床」と呼ばれる長細い敷地を有していたが、その計算から行くと、「四つ角のコーナー」が最も税金の高い場所になる。なにせ、二つの道路に面しているのだから、真四角の土地でも税金は2倍になる。もし「鰻の寝床」のように長細い敷地だったら、道路に長く面するほうの間口がべらぼうに広くなってしまう。さらに、最も人通りの多くなる「橋のたもと」は最も税金が高かった。


高麗橋の構造がよく解る図

  このような状態でなお、河川工事や架橋工事を民間の商家が行うのであるから、道頓堀や淀屋橋や心斎橋といったように、個人の名前を付けてもらって当然である。最近流行りの「ネーミングライツ(命名権)」なんて、実は江戸時代から行われていた民間活力の導入法であった。しかし、地盤のしっかりとした地上での建築工事と異なり、軟弱な川底(註:沖積平野の大阪の地面は粘土質のため、川底はドロドロの状態)や潮の干満による潮位の変化などの条件下で、パワーショベルやクレーンといったような重機の助けを借りずに河川工事や架橋工事を行うことの困難さは容易に想像ができる。工事が順調に進んでも、相当の費用が発生するが、予想以上に工期が掛かると費用も嵩み、「杭倒れ」の文字どおり、商家が身代を潰す可能性も高かった。このように、大阪の街は、400年前から民間活力の導入によって繁栄してきたのである。近年の「第三セクター」方式という名の地方公務員の天下りのための事業とは大違いである。


▼幻の大阪オリンピック

  ところで、あとちょうど1カ月で「北京オリンピック」が開幕するが、実は、大阪市は、北京市と2008年のオリンピックの開催権を巡って争って破れたことを読者の皆さんは覚えておられるか? 当然と言えば当然である。日本では夏季・冬季合わせて3回のオリンピック大会が開催されているが、中国では未だ一度もオリンピックが開催されたことがない。世界最大の人口を誇り、経済成長著しい中国を「絶好のマーケット」と考えるのは、ビジネスマンだけでなくIOCの委員たちとて同じことであろう。あのバカでかい競技場を見れば判るように、おそらく、「中華人民共和国の威信」をかけた超豪華な大会になるであろう。元々、ひとりひとりの人間をひとつひとつの「人格」として扱わずに、単なる「(全体の中の)一分子」として扱うマスゲームに長けた全体主義国家であるから、一糸乱れぬパフォーマンスを行うであろう。その中継を視て騙されては行けない。本来オリンピックは「都市」が開催するものであって、「国家」が開催するものではなにのであるが、そんなことはお構いなしである。

 「チベット問題」に端を発した世界各地での聖火リレーの妨害にはじまり、深刻な大気汚染や危険な食料品問題、少数民族の抑圧や拡がる経済格差の問題など、いざ大会が始まってしまえば、世界中の人々や中国の人民自身ですらも、アスリートたちの躍動美に目を奪われて、忘れてしまうだろう。それが、中国政府の狙いでもあるのだから…。洞爺湖で開催中のG8首脳会議でも、日頃は日本の言うことなんか歯牙にもかけない中国の胡錦涛主席が、半年前にはあれほど否定した「毒餃子」の件をあっさりと認めたのは、より大きな悪事を隠すためと考えたほうが良いであろう。「あれは中国国内で混入したものでした」と通達された時に、福田政権は、半年前に「メタミドホスは中国国内で混入した可能性は極めて低く、日本国内での管理が悪いからではないか?」と、記者会見で大見得を切った中国政府の関係者たちへの厳正な処分を主張すべきである。しかし、おそらくしないであろう。

 「同盟国」アメリカでさえも、BSEの可能性がある一片の特定危険部位が含まれた牛肉が日本向けに誤って輸出された“事故”でさえも、何年にもわたって米国産牛肉の輸入禁止処分になったことから比較しても、もし、福田政権が日本国民の生命財産を本気で守るつもりがあるのなら、冷凍餃子に限らず、中国産の食料品の輸入を一切禁止すべきである。中国国内における品質管理の杜撰さも、また、農薬等の有害物質への規制の甘さも、誰の目にも明らかだからである。そして、中国産の食品の輸入を全面禁止すれば、たちまち国民の食生活に支障を来すであろう。それで良いのである。その不便さを通じて、「食糧自給率をもっと上げなければならない」ことを日本国民が自覚できるようになるからである。それにしても、日本政府(政治家や官公庁)は中国に何か弱味でも握られているのではないか? と勘ぐりたくなるほど、中国には甘い。おそらく、重金属入りの鰻(かつての「水俣病」のような水質汚染が中国全土で拡がっているであろう)や、残存基準量をはるかに超えた農薬入りの穀類や野菜が大量に日本向けに輸出されていると思われる。しかも、日本の当局は、そのことに気付きながら「見て見ぬふり」をしているに違いない。

  いくら「最大のマーケット」だからといって、世界は、中華人民共和国という国家がまき散らすそれらの“不都合な事実”に目を瞑ってまで、北京でオリンピックを開催する必要があるのか? 否、北京でのオリンピック開催を決議したIOC関係者には「責任を取れ」と言いたいくらいである。オリンピックを開催させることで、世界は現在の中国のあり方に「お墨付き」を与えるようなものである。1980年末のソ連軍のアフガニスタン侵攻によって、日本を含む西側諸国は翌年のモスクワオリンピックをボイコットしたではないか! もし、北京ではなく、大阪でオリンピックが開催されていたら、五輪マークに見立てた淀川のデルタである神崎川・新淀川・安治川・尻無川(わが家のすぐ脇)・木津川の五つの川を、天神祭よろしく船に乗せた聖火が遡り、聖火リレーの最終ランナーは、大阪が誇る「走るお笑い芸人」こと間寛平が務めるという絵面が目に浮かぶ。競技場だって、昨年夏「世界陸上」が開催された長居競技場をはじめ、多くの既存施設があったのに…。

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