大文字送り火と被災地の花火大会

 11年08月11日



レルネット主幹 三宅善信  


▼ 震災でポイントを上げた組織と失点続きの組織

  死者・行方不明者約2万人という戦後最大の犠牲者を出した東日本大震災から早くも5カ月が経過した。その間の日本政府や東京電力の体たらくについては、今さら申し上げるまでもない。2011年3月11日14:46に発生したM9.0の東北地方太平洋沖地震とその大津波は紛れもなく天災であるが、東京電力福島第一原発の重大事故(メルトダウン)をはじめ12日以後に起きた多くの出来事は、明らかに「人災」と呼べるものが少なくない。菅直人総理は、「東日本大震災に首相として遭遇したのは天命」と曰わったそうであるが、後世の人々は、この時期、日本政府が民主党政権であったことの不運を嘆くことになるであろう。政府が適切に救援およびに復旧活動を行ってさえいれば、瓦礫も3カ月もしないうちに撤去されてすっかり更地になって、今頃は復興の鎚音が高く響いていたであろうし、原発事故も3月12日に菅総理が自衛隊のヘリでパフォーマンスの視察なんか行かずに、さっさとSPEEDI(註:緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)のデータに基づいて、西風が吹いているうちにベントしておけば、放射性物質の大半は太平洋上に飛んでゆき、福島県をはじめ東北・関東地方各地にあのような農業被害をもたらさなかったであろう。

  今回の大震災は、日頃の仮面を剥ぎ取って、いろんなことを白日の下に曝し出した。ポイントを上げたのは、自衛隊員や消防のレスキュー隊員たちである。わが身を省みずに危険の中へ飛び込んでいって、原子炉格納容器の爆発を防いだ行為は、彼らの「任務に従ったまで」と言えばそれまでであるが、自らの責務を果たそうとしない政治家や原子力安全保安員の高級官僚たち、また、加害者である事業主の東京電力幹部の見苦しい態度をさんざん見せつけられただけに、国民の目には「頼もしい存在」に映ったに違いない。『覆水盆に返らず』『微笑みがえし:浮上式原発のすすめ』でも述べたように、電力会社は本社ビルを原子炉建屋の上に造り、取締役はその家族を原発敷地内に住まわせなければならないことにすればよい。それぐらいして初めて「安全を確信している」と言える。そうでなければ、自分(や家族)の身は安全地帯に置いておいて「安全を確信している」と言っても説得力がない。

  ただし、自衛隊員や消防のレスキュー隊員たちの評判が上がったのと、自衛隊や消防員の評判が上がったのとは別物である。今回の「出動」の経験をいかにフィードバックして、組織を活性化できるかが問われているところである。もうひとつ大いにポイントを稼いだ組織がある。在日米軍である。沖縄の海兵隊をはじめ、長年、一般の日本国民からは「必要悪」のように言われてきた米兵たちが、「Operation Tomodachi(ともだち作戦)」の下、被災地で救援活動に汗を流し、直接日本国民と触れ合ったことは、終戦後の進駐軍の陽気なGI同様、在日米軍のイメージを変えることに大いに役立った。震災後すぐに本作戦を立案し、実行に移すことができた米政権の政治判断力を大いに評価すべきである。


▼ 京都大文字、被災地からの護摩木受け取り拒否

  ところで、東日本大震災から約5カ月が経過して、被災地では多くの遺族が「初盆(新盆)」を迎え、それぞれの地域の風習に基づいて、精霊回向が行われている。1999年8月15日に上梓した『8月の鎮魂歌』とおり、日本人にとって「8月は葬(はふ)り月」なのである。もともと民衆の間で行われていた様々な先祖供養の風習に加えて、20世紀の半ばに加わった広島・長崎の原爆忌や終戦記念日をはじめ、様々な「公的追悼儀礼」が追加された。8月15日の正午には、甲子園の高校野球までゲームをいったん中断して、1分間の黙祷が捧げられる。当然のことながら、被災地においては、今回のお盆を、突然やってきた親しい人との強制的な別れに対して、今一度、思いを寄せると同時に、これをひとつの精神的区切りとして、再出発を誓う機会でもあったはずである。そもそも、「東北三大祭り」といわれる青森のねぶた、秋田の竿燈、仙台の七夕は皆、「先祖への精霊回向」そのものであるように、東北地方は元来、先祖供養儀礼の盛んな地域である。だから、被災地で行われる今年の初盆は、極めて重要な宗教儀礼であったはずである。

  仙台七夕が行われていた8月7日、驚くべきニュースが飛び込んできた。「大文字焼き」で知られる京都五山送り火の火床(註:キャンプファイヤーのように、長さ数十センチの松材を井桁状に組み上げたもの。この火床を一定の間隔で山の斜面に設置して着火し、炎による文字や模様を作り出す。因みに、如意ヶ嶽の「大文字」は、75基の火床によって描かれる)用の護摩木として、今年は、被災地の陸前高田市民から奉納された、震災の犠牲者の名前や被災者の願いを書いた護摩木333本を燃やす予定であったが、「セシウム等の放射性物質を含んだ灰が京都市内に降るのでは?」とか「灰が琵琶湖に飛んで、近畿の水瓶を汚染するのでは?」なんぞという、なんら科学的根拠のないごく一部のクレームに屈して、陸前高田にこれを返却するという決定が大文字保存会によってなされた(他の「妙法」「船形万燈籠」「左大文字」「鳥居形」の保存会は受け入れを表明したが、何せ「大文字」は五山の筆頭だから影響は大きい)。おそらく、大文字保存会(註:現在は京都府認証のNPO法人。浄土院の檀家による世襲)の理事たちの「事なかれ主義」もしくは、保存会関係者に「ややこしい筋」の人が居るのであろう。なにせ「千年の都」京都は、魑魅魍魎百鬼夜行の世界だから…。

  ともかく、こういう訳で、陸前高田の被災地から奉納された護摩木を返納したのであるが、このことが報じられるや、全国から非難の声が殺到した。可哀想なのは、京都市である。五山の送り火は、民間の団体である「京都五山送り火連合会」によって実施せれてきた行事で、京都市はむしろ、当日、街の照明を落とすなどして、この行事に協力してきたほうである。おまけに、この伝統行事を維持するために補助金まで拠出してきたくらいだから…。「和服の市長さん」で知られる門川大作京都市長こそ、五山送り火の詳しいシステム(なにせ、京都は「一見さんお断り」の文化だから…)を知らない東京のキー局の記者から批判めいたインタビューをされて迷惑千万であったに違いない。「放射性物質を含んだ灰が琵琶湖に飛んで、水質汚染云々…」というクレームがあったと聞くが、もし、それを言うのなら、下賀茂神社(賀茂御祖神社)と洛北宝ヶ池との間にある松ヶ崎山で焚かれる「妙法」の送り火のほうがはるかに危険である。何故なら、松ヶ崎には150万京都市民の1/4に上水道を供給(1日当たり供給能力24万トン)している「松ヶ崎浄水場」があり、上水道の水質保全のために松ヶ崎山の最高区配水池の周辺が禁足地域に指定されているので、「松ヶ崎妙法保存会」には京都市水道局松ヶ崎浄水場から2名がメンバー入りしているくらいだ。


▼ 京都と東北はそもそも相性が悪い

  そもそも、京都と東北(明治以前は「陸奥国」=みちのく)との相性は、8世紀末に平安京ができた時から悪い。桓武天皇によって794年に平安京へ遷都(註:784年に、平城京から現在の京都市の西に位置する水運に恵まれた長岡京へいったん遷都したが、この新都をわずか十年で放棄し、平安京へ再遷都した。その後、千年以上にわたって京の街は、日本の首都であり続けた)されたことは、小学生でも知っているが、このことは、桓武天皇の二大業績の内のひとつに過ぎない。桓武天皇のもうひとつの業績は、征夷大将軍坂上田村麻呂(註:平安時代初期の武人坂上田村麻呂は、中央政界では、正三位・大納言・右近衛大将・兵部卿を兼務し、東国では、陸奥出羽按察使・鎮守府将軍・征夷大将軍という現在の東北地方の全領域における軍事・行政の全権を把握していた。娘の春子は桓武天皇の妃)らを派遣して、それまで「蝦夷(えみし)の地」であった現在の東北地方を「日本」に組み入れたことにある。

  以後、朝廷に投降した先住民の蝦夷は「俘囚(ふしゅう)」と呼ばれ、日本各地に強制移住させられ、同化政策が取られた。つまり、桓武天皇は、明治の近代日本に至るまでの千年以上にわたる「日本国の枠組み」を創った人物である。因みに、南九州の先住民である「熊襲(くまそ)」や「隼人(はやと)」が大和朝廷勢力に同化されたのは5世紀頃のことなので、東北地方の同化が9世紀であったことを考えれば、この地域の文化が、いかに「中華」たる都の文明からほど遠く感じられていたかは推して知るべしである。ともかく、「都(=文明)を脅かすもの(=野蛮)は東国から来る」として、漫然と「東夷」と恐れられていた。日本国内において「夷(えびす)」は東国にしかな居なかった。ずっと後年、西洋人たちが来日するようになると、彼らはインド洋を越えて南からやってきたので、「南蛮人」と呼ばれるようになった。

  この都人の感覚は、古代の関所の配置からしても窺い知れる。西国には関所らしい関所がないにもかかわらず、まず、畿内(註:厳密には、近江国は東山道に属したが、大津京や紫香楽宮などが置かれたこともあり、事実上、畿内扱いであった)から「東国」へ向かう際、東海道には近江・伊勢国境に鈴鹿関、東山道には近江・美濃国境に不破関、北陸道には近江・越前国境に愛発関の三関が置かれ、それ以東を「関東」と呼んだ。しかし、これらの関は皆、都の最終防衛ラインとして人の出入りをチェックしていたという意味の関所であったのに対し、「奥州三関」と呼ばれた東海道の常陸・陸奥国境に勿来関、東山道の下野・陸奥国境に白河関、北陸道の越後・出羽国境に鼠ヶ関のほうは、単なる防衛ラインというよりは、蝦夷の地である陸奥・出羽国へ攻撃を加えるための朝廷の「前線基地」として軍事施設(兵士の駐屯施設)の意味がある。中国における関は、函谷関や山海関を見れば判るように、延々と続く高さ、厚さとも10メートはあろうかという文字通り「城壁」に穿たれたトンネルを閉じる分厚い扉であるが、日本における関は、関所の周辺だけを木や竹の柵で囲っただけの象徴的意味しかないのが一般的であるが、一応、奥州三関の周辺には、土塁や空堀や柵木が配されており、軍事的な防衛ラインの機能を備えている。


▼ 鹿島神宮が封じているのは地震か、蝦夷か?

  古代における戦争には、神々も動員させる。その結果として、勝者が敗者の神話を取り込んで、「神代においても勝者はわれわれだった」というふうに都合良く改竄され、神々のヒエラルキーが再構築される。来年は「古事記編纂1300年」に当たるが、古事記に書かれてある遠い神代の出来事も、712年(和銅5年)時点の政治的勝者(=天武朝の藤原氏)にとって都合の良いように、古代史がアレンジされたものである。平安時代、朝廷から公認されていた全国2,861の式内社(『延喜式神名帳』に記載されている神社)の内で、「神宮」という最高レベルの名称で呼ばれていたのは、皇祖天照大神を祀る伊勢神宮以外では、常陸国一宮の鹿島神宮と下総国一宮の香取神宮の二社だけであった。この二社は、藤原氏(神祇官としては大中臣氏)と縁の深い神社であった。奈良の都に藤原氏の総氏神として建立された春日大社は、はるか日本列島の一番東端の地から、鹿に乗って飛んできたことになっているが、実際はその逆で、大和から東国へ侵出していったのであろう。


鹿島神宮本殿とご神木を拝して

  私は、たまたまチリ大地震による津波警報が東日本の太平洋沿岸一帯に発令されていた2010年2月28日、冷たい雨が降りしきる中、シンポジウムのため鹿島神宮を訪れていた。鹿島神宮の神域は海岸線(鹿島灘)から2kmほどしか離れていない「水郷地帯」にあるため、「津波警報が発令されたので、海岸から避難してください!」と叫ぶ鹿嶋市の広報車の声がひっきりなしに聞こえており、某新聞社の記者から「三宅先生、避難しなくて良いのですか?」と尋ねられたが、私は「この境内の森を見てください。この神社は千数百年前からこの地に鎮座している(註:社伝によると、鹿島神宮は神武天皇即位の年に鎮座したことになっているから、紀元前660年ということになる。さすがにこれは言い過ぎであるが、話半分としても1300年以上前には神社があった)のですよ。その間、百年に一度、チリから大津波が押し寄せたでしょう。でも、この森は残った…。即ち、海岸線は危ないけれど、この神域は大丈夫です」と答えて、逆に、有名な「要石(かなめいし)(註:鹿島・香取の両神宮とも「要石」がある)を見に行った。

  「要石」というのは、どんな石かというと、ちょうど人間を生き埋めにして頭頂部だけが地表に出ている姿をイメージしていただければよい。ところが、これがまさに氷山の一角とでも言うか巨大な部分が地下に埋まっているというのである。好事家の徳川光圀(=水戸黄門)が、家来を使わして七日七晩掘らしたが、とても掘り出すことができなかったので諦めたというエピソードが残っているくらいである。伝説によると、太古の昔、鹿島・香取の武神(鹿島神宮は武甕槌(タケミナヅチ)、香取神宮は経津主(フツヌシ))が、地震を起こすと信じられていた地下の大鯰(ナマズ)の頭をこの巨石で抑えつけたことになっている。今回の東北地方太平洋沖地震でも、震源域は岩手県沖から宮城県沖を通って福島県沖までの約500kmに及ぶ広大な領域の断層がズレたのであるが、そのズレはどうやら茨城県沖(=鹿島灘)で収まったようである。ひょっとすると、この要石のおかげかもしれない。


武甕槌神が大鯰の頭を押さえているレリーフと
地面から僅かに頭頂部を覗かせている要石

  そして、何よりもこの鹿島神宮の興味深いところはその奉斎様式である。一般に神社建築は、社殿の一番奥(=北端)で南向いて祀られている祭神を、社殿の南側(外)から北向いて拝むように建てられている(註:道教的世界観によって、天皇も都の最北端にある内裏の最北端部の御座所で南面し、文武の百官は北面してこれに仕えるという形式を取っている)のであるが、鹿島神宮ではそれが全く逆転している。鹿島の武神は、壮大な社殿に北を向いて祀られている。明らかに北方の蝦夷を牽制しているのである。現在の本殿や拝殿は、徳川秀忠の寄進によるものだから、江戸時代初期においてもなお、「蝦夷は北方から攻めてくる」と信じられていたのであろう。坂上田村麻呂から900年以上の歳月を経て、なお徳川秀忠の官職は「征夷大将軍」であったのだから…。


▼ 大事なのは「鎮魂」

  このように、日本の歴史を通じて、洗練された都人から見た荒々しい陸奥国――現在の言い方をすれば東北地方――は、一貫して忌まわしい存在であったのでる。東北地方の人々も、また、自ら陸奥(みちのく)という概念を意識して生活してきた。徳川家康の江戸幕府開設によって、400年前、日本一の平野である広大な関八州はついに「日本の中心」の地位を得た(ただし、現在でも、京都や大阪の人間で、東京以北の県名と位置を全て正確に言い当てることのできる人はほとんど居ない)が、それでも白河関より北は「別世界」であった。一方、東北人自身も、現代に至るまで、自らの領域を「河北」(註:「白河関の北側」の意。Chinaの「華北」ではない)として認識してきた。仙台に本社を置く東北6県のブロック紙の名前が『河北新報』であることからも、この意識が強いことが伺われる。90年の歴史を有する高校野球においても、まだ、深紅の大優勝旗が白河関を越えたことがない(=東北地方からは優勝校が出ていない)という意味で、「白河越え」という表現が東北地方ではなされているそうである。因みに、一足お先に駒大苫小牧高校が2004年と2005年の二年連続優勝(2006年は決勝戦を引き分け、翌日の再試合で敗れる)して、北海道勢に先を越されたことを東北人は快く思っていないそうである。

  その点、東京人にとって東北地方は身近な存在である。というよりか、現東京人の内のかなりの人間は、高度経済成長期以後、東京に出てきた人(もしくはその子孫)である。しかも、大阪や京都出身者は、たとえ東京で暮らすことになっても、ほとんどその言葉を変えようとしないが、東北出身者はできる限り自分たちの方言を使わずに、共通語を話そうとする。という訳で、元東京人(=江戸っ子の子孫)にとっても、東北出身者は東京を高く評価してくれるから気分が良い存在である。という訳かどうかは知らないが、東日本大震災直後のなんでもかんでも「自粛」ムードが漂っていた時に、桜の名所が多い東京では、各地の「花見」がつぎつぎと自粛(派手な提灯や花の下でのドンチャン騒ぎはしない)となったのに影響されて、4月5日の時点で、主催者である中央区(厳密には、「東京湾大華火祭」実行委員会が主催者ということになっているが、実質的な主催者は中央区)から早々に「今夏の花火大会(8月12日開催予定)は中止」のお触れが出されてしまった。理由は、「多くの犠牲者を出した被災地の人々の心情を考慮して…」とのことである。いかにも「綺麗事」の「事なかれ主義」の役所の考えそうなことである。

  しかし、「捨てる神あれば拾う神あり」とはよく言ったもので、東京の一青年が「東京湾大華火祭で使わなくなった1万2000発の花火を東北三県で打ち上げよう!」と提唱したのである。そして、それは震災から5カ月目に当たる8月11日に、鎮魂の意味を込めて被災地の11箇所で同時に打ち上げられた。名も無き一青年の提唱したアイデア『LIGHT UP NIPPON』に実に多くの人が協賛し、募金も6,000万円以上集まった。最初、大切な人や住む家を失った人々が「花火大会」というようなイベントを受け入れてくれるかどうか心配したというが、実際には、各地で無一文になってしまった人々がこの花火大会の実現に汗を掻いてくれたそうである。そして、8月11日の19:00、坂本龍一提供の楽曲に合わせて、20,000発の花火が被災地の夜空を焦がした。


花火は、次々と昇天してはあの世へと昇華する魂のように見える

  何故、伝統ある京都五山の送り火が被災地の人々からそっぽを向かれ、また、何故、東京の一青年が考えた花火大会がこれほど被災地の人々から受け入れられたのか? もちろん、本論で縷々述べたように、長年にわたる京都人と東北人の相性の悪さがその背景にあるとしても、花火や送り火が持つ「死者への鎮魂」という本質を抜きにして、京都五山の送り火は、それを放射線量なんぞという低レベルの次元の話に矮小化したから失敗したのであり、花火大会のほうは純粋に失われたいのちへの鎮魂という点に特化したから、いろんな人々の思惑や自治体毎に異なる条件の壁を突破することができたのである。私は、この夏、兵庫県丹波市と大阪府茨木市でそれぞれ行われた宗教団体主催の3,000発規模の花火大会に列席したが、夜空へひょろひょろと上がって行き、四方八方へとパッと飛び散って消えてゆく花火を見ていると、この世への未練をもって留まっていた死者の魂魄が昇天し、あの世へと昇華していっているように思えるのは、特に、2万人もの人が一瞬にいのちを失ったという未曾有の東日本大震災を経験した今年のお盆が特別なお盆であるかのように思えたからであろうか…。

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